幕間「前線基地の明くる日に」
荒涼たる岩石が形成する天然の要塞――前線基地。その一角で、シンクレールは瞑目していた。凹凸の激しい谷から吹き上げる風が、ときおり彼の金の髪を乱しては過ぎ去っていく。正午に入ったばかりの陽射しが背を温めている。
瞼の裏の闇のなか、ここ数日の出来事が走馬灯のように駆けめぐった。朝陽を塗り潰して進軍した大量の血族。谷間に谺する咆哮。シャンティとの決闘。口づけ。拷問。シフォンによる惨殺。リクたちとの共闘。そして、クロエの背中。
クロエが去ったのは、シンクレールに『共益紙』を見せてすぐのことである。リリーがこの地にいることを告げても、顔を合わすことなく出発してしまった。引き留める言葉が喉に引っ込んだまま、逡巡しているうちに、彼女の姿は遥か頭上へと消えてしまったのだ。別れの言葉ひとつ口に出来なかった自分を、シンクレールはひどく不甲斐なく思ったものである。
それから間もなく朝になって、様子を見に来たリリーとクラナッハはひどく動転していた。それも当然だろう。多くの傷を負って倒れていたとはいえ、シフォンは健在だったのだから。「ととととにかく、閉じ込めるわ!」と叫ぶリリーになんとか状況を説明したものの、当然ながら困惑は残った。「絶対服従なんて演技かもしれねえじゃねえか」というクラナッハの言を客観的に否定出来るような材料なんてシンクレールにはない。ともかく、もう敵側ではないことを何度も繰り返して、ようやく二人とも矛を収めてくれた次第である。
二人に遅れて顔を出したエイミーはというと、ひたすら怯えていた。過呼吸状態の彼女を落ち着かせるのに時間はかかったものの、不思議なことに、状況の把握はリリーたちよりもずっと早かった。シフォンとの戦闘中に交信魔術で逐一状況を送信した勇敢さがまだ消えていなかったのかもしれないし、吹っ切れたのかもしれない。そのあたりの事情はシンクレールにも分からなかったが、エイミーがシフォンを傷病者として手当てしてくれたのは、ありがたいことだった。リリーの『陽気な浮遊霊』で前線基地内の病室――といっても岩肌剥き出しの横穴で、木組みのベッド六台にささやかな医療器具しかない空間――に移動し、そこで行われた処置の様子こそカーテンに遮られて見えなかったものの、包帯できっちりと患部が止血され、重篤な右腕をギプスで固定したシフォンの姿は、エイミーの治療が怯えに打ち勝った証明とも捉えられた。
そして驚くべきは、カリオンである。包帯でぐるぐる巻きにされた状態だったものの、生きていたのだ。シフォンの斬撃を受け続けたにもかかわらず生存した事実に、シンクレールが目を潤ませたのは自然なことだろう。カリオンは本調子ではないのか、シフォンの姿を横目にしてもなにも言わなかった。シンクレールが状況を諭しても「そうか」と呟くばかりで、是とも否とも示さない。
一方、カリオンほどではないものの、シャンティもまた、顔以外の部分は包帯まみれだった。これもまたエイミーの勇気の賜物だろう。
深い傷を負い、しかし、唯一手当てされなかったのはひとりだけだ。
「シンクレールくんはさぁ」
風の音に混じって隣から声がし、目を開ける。真横にはシンクレールと同じようにしゃがみ込んだシャンティがいた。その目はゆるく瞑られており、両手はきつく組み合わされている。彼女の前には、ささやかな盛り土。凶悪なほどの過剰な装飾品を施した姿からはかけ離れた、祈りの姿勢だった。
「どうして敵に優しく出来るの?」
それがシフォンのことを指しているであろうことは、シンクレールにも即座に分かった。
自分がシフォンを生かした理由。それを問われると、少し困ってしまう。もはや無抵抗だからというのもあるけれど、それが本質だとは我が事ながら思えなかった。シフォンとクロエを重ねてしまったこともまた、真実に近いようでいて、少しズレている気もする。
「僕にも、よく分からないんだ」と答えたものの、どうも足りないように思えたので、付け加える。「リクに感化されたのかもしれない」
迂闊なことを言っている自覚はあった。リクの墓前で、しかも彼の姉を隣にして言う台詞ではない。しかも自分が生かした相手は、シャンティの仇と言ってもいい相手だ。
「なにそれ。美しき魂、ってやつ? 私の仲間も、シンクレールくんの仲間も、ほとんど皆殺しにしたのに」
シャンティの声は、ひどく平板だった。怒りも嘲笑も、そこには感じられない。それらを強いて抑えつけているのだと思うと、シンクレールは胸に少しばかりの痛みを覚えた。
「魂の美しさなんて僕には分からないよ。ただ、シフォンがなにも考えずに、ニコルの命令に従ってるだけの存在だったのは確かだと思う。だから、なんというか、シフォンは本当の意味で『生きてない』気がしたんだ。本当に生きてはじめて、魂の気高さみたいなものが生まれるんじゃないかな」
「抽象的すぎるんですけど」
「……抽象的にしか言えないようなことなんだ。今の僕には」
シンクレールの言葉に偽りはなかった。とはいえ、後付けの説明だった感は否めない。クロエに殺されかけたシフォンをなんとか生かそうとしたのは、衝動的な行動だった。後付けであれ、その行為の意味を内心で追い続ける営みは、シンクレールにとって無意味ではない。ある種の物事は、そうやって考え続けるべきだと思っている。思い悩みながら、衝動の正体を知ろうとする内面の格闘こそ、真実よりも大事だったりするのではないか。
シャンティはそれきり、返事をしなかった。彼女に自分以上の葛藤があることくらい、シンクレールにも分かる。シフォンを殺すチャンスなら治療中にいくらでもあったろう。それこそ彼女の武器でその心臓を貫けばいい。シャンティがそれをしなかった理由が、リクに根ざしたものであればいいと、シンクレールは願った。最期までシフォンを討とうとした姿以上に、敵さえ救おうとしたその生き様こそ尊重されるべきだろう。
やがて、ひとまとまりの靴音がした。振り返ると、明らかに疲弊しきった様子のリリーと、カリオンに肩を貸したクラナッハ、そしてエイミーとシフォンがやってくるのが見えた。
「リリー、苦労ばかりかけてごめん」
シンクレールが言うと、少女は首を横に振った。「高貴なる者の責務よ」
リリーには前線基地の亡骸を埋葬するよう、お願いしたのだ。彼女の『陽気な浮遊霊』なら、遺体を前線基地の地中に納めることが出来る。死者の数が数だけに、膨大な仕事量だったろう。それに、オブライエンの支給した剣を地中深くに封じる役目も負ってくれた。それが今の彼女の疲労具合に表れている。亡骸の位置の多くはシフォンが把握しており、彼女にリリーの手助けを指示したのはシンクレールである。
「リクに手を合わせても?」とカリオンが問う。シャンティは声を出すことなく、小さく頷いただけだった。
カリオンの所作は、見事なものだった。座を正し、深々と一礼し、俯くように手を合わす。乱れのない一連の動きは、傷の痛みなど忘れ去ったかのような具合だった。本当は今も、痛みに苦しめられていることだろう。クラナッハの助けを借りたとしても、道中、歩くのも辛かったに違いない。それでも墓参に訪れた。そこには並々ならぬ意志が宿っている。
カリオンと同じように、リリーたちも手を合わせた。
やがてリリーは顔を上げると、シフォンに憮然とした表情を向け、「貴女も手を合わせなさいな。必要なことなのよ」と言い放った。シフォンの物問いたげな視線がシンクレールに向けられたので、頷きを返す。彼女が手を合わせのは、それからすぐのことだった。
それら一切からシャンティが目を逸らすのを、シンクレールは横目で見守った。
前線基地から三十分ほど歩いた場所に、ささやかな小川がある。午後の陽光の下で自然の水流を目にしたシンクレールは、思わず嘆息した。風光明媚にはほど遠いささやかな景観であっても、土色ばかりの前線基地と比較すれば感動を喚起するに余りある。リリーにも見せてやりたいと思ってから、約三十分前のやり取りを思い出し、シンクレールは苦笑した。
――ワタクシ、しばらくひとりで考え事をしなくっちゃならないわ。ふぁ……。
――お疲れ様、リリー。君は本当によく頑張ってくれた。心ゆくまで眠ってくれ。ベッドなら病室に空きがあるから。
――ね、眠くなんてなくってよ! 高貴だもの! それに欠伸なんてしてないわ! ……でも、どうしても寝てほしいのなら、そうしてあげてもよくってよ?
――うん、ゆっくり休んでおくれ。
こうも強がりなのに素直な子も珍しい。待機期間も含め、張り詰めてばかりだった前線基地での日々を顧みると、癒やしと呼んで差し支えなかった。
かくしてリリーは病室のベッドに潜り込み、エイミーとクラナッハも別々のベッドで昼寝を取ることになったわけだ。傷病者のカリオンとシフォンも同室で休んだのは当然の成り行きである。とはいえシフォンは、傷が治るまで寝ているようにシンクレールが指示をしてようやく動き出したのだけれど。
「シンクレールくんも疲れてるのに、なんで休まないの?」
川べりでスライム採取に勤しみつつ、シャンティがそんなことを言った。墓前での口調とは打って変わって、普段の喋り方になっている。
「君をひとりにするのは忍びないからね」
涼やかな空気を浴びながら、シンクレールはこだわりなく答えた。
「ま、捕虜だもんね。逃げ出されたら――」
「違うよ。大事な人を喪ったばかりの君を、ひとりにしたくなかった」
「……ひとりになりたいときだってあるんじゃない?」
「ひとりになりたいようなときって、案外、誰かにそばにいてほしいものだったりするからさ。少なくとも僕はそうだよ」
我ながら詭弁だとシンクレールは自嘲した。そしてデリカシーの欠片もない、と。
彼女が捕虜だから監視の目を光らせておく、なんてつもりはシンクレールには毛頭ない。今後彼女の扱いがどうなるにせよ、今は仲間と呼ぶべきだ。クロエが『共益紙』に書いたのは、前線基地が丸裸で、援護も不要である旨の文章である。半馬人の隠れ家が血族の侵入を許した時点で『共益紙』は敵の手に渡ったと考えるのが自然であり、したがって彼女の記載した嘘は、前線基地へと血族の勢力を分散させる意図があることくらい、シンクレールにはすぐに分かった。
早晩、前線基地は本来の役割を取り戻すだろう。血族の侵攻へ対抗するためには、自分の力だけでは圧倒的に不足している。シフォンは戦力として強大ではあるものの、今は負傷しているし、敵がどんな手を使って迫ってくるか分からない以上、シャンティの力は無視出来ない。
これから前線基地が再び戦場になるかもしれないことは、朝の段階で全員に伝えてある。その上でシャンティにも共闘を願い出たのだ。答えは、今の今まで保留になっている。
「もしよかったら、リクのことを聞かせてくれないかな。なんでもいいから」
川べりにしゃがみ込んだシャンティを見やり、シンクレールはやっとの思いでそれを口にした。彼女と一緒に小川まで来た理由の半分以上が、実はそこにある。シンクレールは本心からリクを悼んでいて、だからこそ、知りたかった。
彼がどうやって生きてきたのか。
どんな経緯を歩めば、あれほどの勇敢さを発揮出来るのか。
「シンクレールくんって、眼鏡男子なのに遠慮ないよねー」
採りたてのスライムを手で弄びながら、シャンティはわざとらしく「あはっ」と声に出して笑った。そしてシンクレールの返事を待つことなく、続ける。
「リクはね――」
それから長い時間をかけて紡がれた話を、シンクレールはただただ黙って聞いていた。シャンティの故郷であるマナスル、リクの故郷であるブロン、そのほか、ラガニアの土地を想像で補いながら、情景を思い浮かべて。
リクとシャンティがはじめて出会った場面。シャンティが自分の父を手にかけてしまった場面。リクが、養父の死を嬉々として報せにきた場面。シャンティの転心と、少年少女への残酷な処罰。貴族に奪われた故郷を救うため、シャンティに拝跪したリク。
リクとの記憶を語るシャンティは、同時に自分のことをも語っていた。
「それでね、私は誰よりも罪深くなろうとして、色んな悪いことをしたわけ。侵略もそう。虐殺もそう。だから、ついに死神が来たんだ」
「死神?」
「シフォンのこと。死神がシフォンに乗り移って、悪い悪い私を死の国に落としにきたはずだったの」
「……でも、そうはならなかった」
シャンティは生き残った。そして、代わりというわけではないが、リクが死に至った。
「そ。シフォンはもう死神じゃなくなっちゃった。私は手下も全部失って、捕虜になって、ラガニアに帰る日は、きっとない。仮に戻れたとしても、私の領地はぜーんぶ侵略されちゃう。せっかく死ねると思ったのに、天罰だけ受けちゃった」
二又に分かれた舌先を出して、わざとらしく笑んだシャンティ。そんな彼女に、シンクレールは大真面目に返した。「でも命は残った」と。
「悪党の命なんてなんの価値もないよね」
「リクはそんなふうに思わないはずさ」
すると、シャンティは膝を抱え、「卑怯者」と小さく呟いた。
「そう、僕は卑怯だよ。リクの潔さには到底及ばない。だから卑怯者として、君の力を借りたいんだ。……前線基地を一緒に守ってほしい。仲間として」
小川を一匹の蝶が舞っている。白と黒が斑に散った翅が、忙しなく、けれども平穏に宙を踊っていた。傾きかけた日光が川面に反射して、その煌めきは絶えず変化している。
やがて隣で「あーあ」と声がした。シンクレールの耳には、諦めたようにも満足したようにも響いた。「全部、リクのせいじゃん」
それから彼女は伸びをして、シンクレールと視線を交わした。下瞼に少しだけ、涙の名残りが見えた気がした。「いいよ。仲間になってあげる」
シャンティ曰く、前線基地付近の水辺はスライムの宝庫らしかった。バリエーションはないものの、収穫量は上々とのことである。ここまでで失ったスライムの数には到底及ばないだろうけど。
日が傾きかけた空の下、前線基地の病室に戻ると雰囲気が一変していた。小川への出発前はどこか張り詰めた気配が漂っていたのだが、今はというと、随分軟化している。特にリリーとエイミーは親密に会話しているようで、しかもそこにシフォンまで混ぜようとあれこれ会話を工夫しているようだった。ときおりクラナッハも相槌を打つ。カリオンは横たわったまま、むっつりと天井を見上げているばかりだった。
「上機嫌じゃないか。なにかあったのかい?」
リリーはエイミーと顔を見合わしてほんのり笑みを交わした。「少し休憩したあと、みんなで水浴びをしたのよ。もちろん、ワタクシとエイミーと、シフォンだけで」
「へえ。それはいいね」
前線基地内にも一応、水場はある。先ほどシャンティと訪れた川の支流が地下に流れ、淀むことなく一定の水量を保っている空間があるのだ。
「一緒に水浴びして、仲良くなったってことか。それはいいね」
シンクレールは純粋にそんなふうに思ったし、リリーも別段訂正しなかった。エイミーはもとより治療の際に知っていたが、リリーは水場ではじめてシフォンの裸を目にしたのだろう。シフォンの姿にリリーがなにを感じたかは、シンクレールには知りようのないことだ。そして彼自身、シフォンの身にいかなる傷が刻まれているのかなんて把握していない。
シンクレールの見る限り、リリーとエイミーはなんとかシフォンと上手くコミュニケーションを取ろうとしているようだったが、どうもぎこちない。
「シフォン、貴女の好きな食べ物がなにか教えてくれてもよくってよ? ワタクシは甘い物が大好き」
「ない」
「なら、嫌いな食べ物はどうかしら? ワタクシは苦い系の食べ物全般が敵でしてよ」
「ない」
万事、この調子である。なにを話しかけようとも無表情で、返る言葉にも抑揚が欠けている。なんの感情も宿っていないような様子だった。騎士時代、シンクレールがシフォンのチームに配属されたときとひとつも変わらない。王都を守ることも滅ぼすことも、彼女にとっては同じなのだろう。シンクレールは、かつて彼女に抱いた印象が間違いではなかったという思いを強くした。シフォンの世界には、彼女自身さえもいない。
「さて、シンクレール」とリリーに呼びかけられ、ハッとした。「約束を覚えてるかしら? 生き延びたらワタクシの願いを叶えるって」
リクが倒れたあとに、シンクレールはリリーに全員の安全確保を頼み、たったひとりでシフォンと対峙したのだ。その際の約束事は、正直、この瞬間まで忘れていた。
「も、もちろん覚えてるさ」
「ふん……いいわ。とりあえず、ワタクシの願いはひとつよ!」
シンクレールは前線基地内のテーブルを前にして「よし」と微笑んだ。リリーの要求は、想定していたよりも遥かに些細だった。みんなにとっておきの手料理を振る舞うこと。前線基地内の調理場は狭く、かつ、食料事情も豊かではないものの、なんとか工夫を凝らして全員分のディナーを拵えたのである。シンクレールが個人的に持ち込んだ食材も惜しみなく使った。といっても、質素な料理ばかりだが。
全員が食卓に揃うと、まずシャンティが「シンクレールくん、料理も出来るんだね」なんて口にした。
クラナッハとエイミーは感謝の言葉を、カリオンは労いを述べ、リリーはというと上機嫌だった。「庶民的なお料理ですけど、上出来でしてよ」なんて顔を赤くして口にする彼女を、シンクレールは愉快に思う。他方でシフォンは、なんの反応もなく、無言で席についた。
そして食事がはじまった。マッシュポテトの評判は上々で、サラダとスープもそれなりに味わってくれている様子である。そして肝心の品がひとつ。シンクレールの自信作と言ってもいい。
リリーがそれを口にした瞬間、彼女の眉間に皺を寄った。そして「しょっぱい!」と叫ぶ。それからはめいめいが――シフォンを除いて――同じようなリアクションをしてみせた。
「ご、ごめん。砂糖と塩を間違えたみたいだ。作り直すよ。もちろん全員分。自信作だったんだけどなぁ……オムレツ」
「いいわよ、別に。せっかくのお料理がもったいないわ。ワタクシたちもシフォンを見習って、淡々と食べま――」
既にオムレツを半分ほど食べていたシフォンが、急に食事の手を止めて、シンクレールを見つめていた。それに気づいたのだろう、リリーの言葉も途絶え、場は静寂に包まれた。
「オムレツ」
問いかけのような独り言のような、曖昧な言葉が流れる。その小さな声は、紛れもなくシフォンのものだった。
「そう、オムレツ。……のつもりさ」
シフォンのなかに埋まっているなんらかの地雷を踏んでしまったのかもしれないと、ひやひやしつつ返答した。
彼女は小さく頷くと、ナイフでひと口ぶんのサイズに切り分けたオムレツを口に運んだ。
そしてひと言。
「……塩辛い」
「ごめん、やっぱり作り直すよ」と言ってシンクレールはシフォンの皿に手を伸ばしかけたが、彼女がサッと皿を片手で庇った。
そうしてシフォンは、ときおり「オムレツ」と呟きながら、シンクレールの失敗作――塩オムレツとでも呼ぶべき代物を、それまでよりも小さく小さく刻んで、ゆっくりと食べた。その様子を眺めていると、シンクレールは自分が踏んだのは地雷なんかじゃなくて、なにか別の、決して悪いものではなかったのだと悟った。
食事を終え、一同は前線基地の病室で眠ることとなった。カーテンで仕切られているのでプライバシーもおおむね問題ないだろう。ベッドが一台足りなかったが、むしろ好都合だった。リリーの『陽気な浮遊霊』で入り口を朝まで封鎖することで、魔物の心配はないものの、誰かひとりは監視の名目で起きている必要がある。いつ血族の大群が迫ってくるか分からないのだ。監視役は、シャンティ、シンクレール、エイミー、そしてシフォンである。その四人だけ、多少なりとも血族の気配を感じることが出来たからだ。かくして、二時間間隔で交代制の眠りに就くこととなった。
シンクレールは壁にもたれ、ぼんやりと戦場に思いを馳せる。本当なら、すぐにでも半馬人の隠れ家に向かいたかった。シンクレールのなかに、もはや他種族への偏見はない。ラルフの記憶を追体験するよりも前に、『灰銀の太陽』として行動した日々のなかで、王都仕込みの考えは綺麗さっぱりなくなっていた。だからこそ、彼らの助けになってやりたいし、なにより、その隠れ家には『灰銀の太陽』のリーダーとして勇敢に戦い続けた少年――ハックが暮らしている。彼が危機に晒されていると思うと、焦燥感に全身が覆われた。それでも、この地を離れるわけにはいかないのだ。前線基地を任された者として。戦争が終わるまで、自分は前線基地の総隊長であると肝に銘じなければならない。
そろそろ交代の時間だったので、シフォンのベッドへと向かった。ほかのメンバーを起こさないよう、そっと。
「シフォン」
小さく呼びかけたのだが、返事はない。身じろぎもない。
良くないとは思いつつ、シンクレールはそっとカーテンの隙間から、シフォンの姿を確認した。
枕元に口を開けたポーチが置いてあり、彼女は横向きに丸くなって眠っているようだった。ギプスを嵌めていない左手で、なにかを胸の前でぎゅっと握っている。それが折れた剣の柄であることに気付くまで、そう長くはかからなかった。
いつもこんなふうに寝ているのだろうか。
シフォンの目尻に涙が溜まっており、それが一滴だけ決壊した瞬間を、シンクレールは確かに見た。彼女が、シンクレールの知らない単語――おそらくは誰かの名前を小さく呟いたのも、しっかり聞いてしまった。
夢を見ているのだろう。それが幸せなものであればいいと、シンクレールは心から感じ、そっとカーテンから離れた。見張りなら、自分が朝までやればいい。
オムレツを口にしたその日、シフォンが十八歳の誕生日を迎えたことは、当人含め、誰も知らない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『クラナッハ』→灰色の毛を持つ獣人(オオカミ族)。集落には属さず、『黒の血族』であるリリーとともに行動していた。気さくで遠慮がない性格。二度クロエたちを騙しているが、それはリリーを裏切ることが出来なかった結果としての行動。可哀想な人の味方でいたいと日頃から思っている。詳しくは『613.「饒舌オオカミ」』『650.「病と飢餓と綿雪と」』
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。現在は『灰銀の太陽』のリーダーの役目を終え、半馬人の集落で暮らしている。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗すべく結成された。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『陽気な浮遊霊』→周囲の無機物を操作する呪術。リリーが使用。初出は『618.「大人物の愛娘」』
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より