幕間「或る少女の足跡㉔ ~トリクシィ~」
騎士団の序列制度は厳密に定めらているものではないが、通例として、見習いを卒業し、他の騎士を率いて適切に夜を乗り越えられる実力のある者に付与される。それも、末席となるナンバー9から順番に序列を上げていく。騎士団の頂点に君臨している紫電のザムザも例外ではない。異例の速さではあったものの、一段ずつ序列を昇っていったのである。
シフォンが騎士見習いになってから一ヶ月後、夜間防衛の機会が訪れた。訓練校を介さずに騎士になった者は半年から一年ほどは騎士団本部で修練に明け暮れるのだが、訓練校卒業組はその限りではない。彼らは魔物との戦闘方法やその生態に関して、基礎的な技術は身に着けたうえで騎士団に入ってきている。ゆえに、夜間防衛に立つまでの期間もそれだけ短いのだ。とはいえ、見習いという立場であるのは変わらないが。
騎士団本部の宿舎で寝起きするようになったシフォンに対し、ゼールは養子関係にあることを伏せるよう厳命した。魔具訓練校のときと同様、贔屓や甘やかしや忖度が発生しないように、との配慮からである。そしてなによりゼール自身、シフォンを見習い騎士のひとりとして認識するよう己に課した。彼女は娘であっても、騎士である。そしてゼールにとって、どちらかを天秤にかけねばならないとしたら、後者がまさっていた。
さて、はじめての夜間防衛の晩である。ゼールは初参加となる見習い騎士を呼び出し、激励の言葉を送った。
『これから諸君ははじめて王都を防衛することになる。なかには個人的に魔物と戦った者もいるだろうが、防衛任務がそれと異なるものであることは必ず意識しろ。自分たちの背後にあるのは、王都に暮らす人々の命だ。それを背負って戦う重みを忘れるな。ゆえに、いかなる敵を前にしても、剣を振るえ! 以上だ』
ゼールが騎士団長に就任後、慣例となっている言葉である。そこに特別な指示は加えられていなかった。実際的な戦闘方法は、彼ら彼女らを指揮する者によって共有される。この一ヶ月で、シフォンもそのことは耳にしていた。ただ、ゼール本人から言われたことではない。見習いの訓練を受け持つ騎士やら、世話係の事務員、あるいは同輩から聞かされたものである。
ところで、騎士となったシフォンがゼール以外の言葉を聞くだろうか。
その日の集合時刻は午後八時。場所は南門付近にある騎士の駐屯所である。魔物が出現する時刻はおおむね午後十時であるため、作戦会議に二時間を消費する予定と聞かされていた。これは、ゼール当人の言である。ゆえに、シフォンはきっちりと時間を守ってその場所にたどり着いた。が、相手が悪かったと言えよう。
石造りの駐屯所の扉を開くと、全員の目がシフォンに向けられた。四方十メートルほどの空間に純白のクロスを敷いた簡素なテーブルがひとつ。椅子も一脚きり。壁にはなにも掛けられていない。奥には廊下が続いており、そこにいくつもの部屋があるのだろう。ここはあくまでもエントランスでしかなく、作戦会議用の部屋は別にあるに違いなかった。テーブルと椅子はわざわざ持ってきたのだろう。
椅子に腰かけた女性は、騎士らしからぬ装いをしていた。真っ白な絹の手袋に、同色の丈の長いワンピースとブルーのコルセット。足元はピンクのヒール。椅子には日傘を立てかけている。肩までの深い蒼の髪。空色の瞳。そして特徴的な下がり眉。その女性はいかにも優雅な所作で、手にしたカップから橙色の液体をひと口飲んでみせた。
彼女の周囲には、明らかに緊張した面持ちの騎士がずらりと八名。見習いもいれば、見習いを卒業した騎士もいる。だが、一様に、座った女性に怯えている様子だった。
『随分と遅いお出ましだこと』
女性は微笑みを浮かべてシフォンを見やる。
『集合時間は――』
『時間の一時間前に行動するのは当然じゃなくって? それに、貴女見習いでしょう? こうして先輩を待たせて、一番遅く登場するのはお上品なことかしら?』
一時間前行動など聞いていない。それに上品か否かなど、シフォンに判断出来る物事ではなかった。
シフォンを今夜指揮するのが騎士団ナンバー3のトリクシィという女性であることは、宿舎で小耳に挟んだ。それで見習いたちが異様におろおろしていたことも、一応、覚えている。
『貴女、お名前は?』
『シフォン』
『そう。シフォンさん。貴女に大事なことを教えて差し上げるわ。あたくし、礼儀をとても重んじているの。集合時間の前に来るのもそう。扉をノックして、返事を待ってから開けるのもそう。開口一番、ご挨拶をするのもそう。ところで、貴女は今挙げたことをひとつでもキチンと出来たかしら?』
トリクシィはわざとらしく頬に手を添え、首を傾げる。周囲の騎士たちは、さぞや戦々恐々としていたことだろう。トリクシィの目が若干潤んでいるのを見た者はなおさら。
落涙のトリクシィ。魔物との戦闘中に涙を流しながら敵を薙ぎ払う姿から、その異名がつけられた。彼女の涙は殺戮のトリガーだと囁かれている。それは人間相手であっても例外ではない、とも。実際に彼女が同胞を殺害したことはなかったものの、理不尽な要求の数々によって見習い騎士を心身ともにボロボロにしていくさまは、そう思われても仕方ないことだった。決して当人の耳に入らぬよう、別の異名、見習い殺しのトリクシィと囁かれるのも妥当である。
それらの一切は、一度はシフォンの耳に入ったかもしれないが、記憶に残ることなく消え去った情報のひとつである。そのせいではないが、シフォンはこのときも素直に答えた。
『集合時間だけ守った』
『そう。それ以外の大事なことはなにひとつ出来なかったわけね?』
『しなかった』
『……それは、わざとしなかったのかしら? だとしたら、あたくし、哀しいわ。涙が出そう』
ひやり、とした空気が室内に充満する。現にトリクシィの目尻には涙の気配があった。
なんとかトリクシィに取り入って謝罪のひとつでもしてくれるよう、騎士たちが内心で願ったのは自然なことだろう。誰だって惨劇など見たくない。よりにもよって、これから魔物と戦うというのに。
だからこそシフォンの次のひと言は、周囲の騎士の肝を凍りつかせたことだろう。
『必要のないことはしない』
沈黙が流れる。
シフォンとしては、特に間違ったことを言ったつもりはなかった。決められた集合時間通りに来たし、これから魔物と戦う。それだけ。なにより、ゼールからトリクシィのご機嫌取りは命令されていない。そしてトリクシィがゼールよりも強いようには感じなかった。
やがて、トリクシィはすっと無表情になり、それから少しして微笑を繕った。
『では、作戦会議をはじめましょう。作戦は至ってシンプル。ひとり二体、小型魔物を討伐しなさいな。中型以上は相手にしなくてかまいません。あたくしがなんとかしますから。魔術師のかたは、あたくしが指示する通りに魔術を行使して援護すること。そうそう、見習いの子たちも、ちゃんと二体は討伐なさい。それが出来たら、壁際まで後退してよくってよ。ちゃんと、あたくしが守ってあげますわ。ああ、でも――』
たっぷり抑揚をつけた演説は、そこで中断された。トリクシィの視線がシフォンをまっすぐに捉える。射るように。
『でも、全員守るのは難しいかもしれませんわ。もしかしたら、見習いのどなたかが魔物の餌食になってしまうかもしれませんわね』
暗にシフォンを守るつもりはないと告げていることを、周囲の騎士たちは即座に理解したことだろう。当のシフォンを除いて。
『さて』と言うと、トリクシィは柔和な声を作って周囲を見やった。『それでは、お茶菓子の時間にいたしましょう』
その日の作戦会議は五分にも満たなかった。先ほどトリクシィが口にした通りである。あとの時間はというと、もっぱら紅茶だのクッキーだの雑談だのに充てられた。それらすべて、トリクシィのためのものでしかなかったのだが。
やがて時刻は夜の十時となり、一行は門の外へと繰り出した。間もなく魔物の出現する時間である。以降、門は閉ざされ、夜に繰り出した十名を除く援護といえば、壁上の騎士くらいのものである。が、それらもあまり期待出来るものではない。せいぜい、遠方の魔物の出現情報を共有する程度。いざとなったら弓矢や魔術での援護もあったが、基本的に地上の敵はトリクシィたち一行に一任されていると言ってもいい。
トリクシィは門から数メートル先まで移動すると、歩を止め、ちらと背後の見習い――シフォンを見やる。そして、ひどく薄暗い情動に駆られた。シフォンは駐屯所に現れてからというもの、なんの物怖じもしない。動揺ひとつ見せないし、指示に従う気配もない。本当に魔物から守らずにいようかしら、と彼女が思ってしまったのは、好奇心と嗜虐心ゆえである。が、すぐに思い直す。それはさすがに騎士失格だと。いかに生意気な子でも、よちよち歩きの見習いを守らずに傷を負わせようものなら、怠慢以外の何物でもない。
そう、このときのトリクシィは作戦会議での脅しを実行するつもりなどなかった。反抗的な態度を取るような見習いもこれまでいなかったわけではない。ただし彼らはいずれも、魔物を蹂躙するトリクシィを目にし、彼女に危ういところを守られ、朝を迎える頃にはすっかり大人しくなったものである。シフォンも例外ではないと、このときのトリクシィは判断していた。悪しざまに言えば、実力差で屈服させてやろうという魂胆である。
しかし、結果は伴わなかった。
そこかしこに出現した魔物の気配。それらにいち早く反応し、隊列を飛び出したのはシフォンである。
『戻りなさ――』
トリクシィの叫びは中途で絶えた。次々と出現する魔物を、さながら烈風のごとく消滅させていくシフォンの姿に、唖然としたのだ。
ただ、トリクシィとて序列の三番手である。シフォンのそばに接近し、今しも登場したキマイラへと武器を振るおうとしたが、その前に敵の身は胴を寸断され、消失した。どの魔物もその調子で、トリクシィが手を出す前にシフォンによって討伐されたのである。トリクシィも魔物の察知力には自信を持っているし、事実、卓越したものがあった。しかし、シフォンのほうが一枚も二枚も上手だっただけのことである。
とはいえ、トリクシィには遠距離攻撃の手段があった。手にした日傘型の魔具である深窓令嬢を開き、回転させることにより炎の弾丸を射出する攻撃。それであれば、シフォンが撃破する前に魔物を討ち取ることが出来る。トリクシィは迷いなくその手段を行使したのだが、結果は悲惨だった。出現したグールの群れに弾丸が直撃するより前に、シフォンが一匹残らず瞬殺したのである。そして、迫りくるトリクシィの弾丸を棒立ちになって眺めた。
『避けなさい!!』とトリクシィが叫んだのも無理はない。味方を攻撃するなどもってのほかだ。
シフォンは弾丸を避けなかった。数十発のそれを身に受けて、吹き飛び、それでも身を起こして、新たに出現した魔物へと攻撃を浴びせる。
やがて、強烈な魔物の気配が周囲に広がった。
『ケルベロス……』
トリクシィの呟きが夜に流れる。先ほどの自分の失態には目を瞑り、一旦は強敵の相手をしなければならない。さすがにケルベロスを単身で討ち取れる騎士など、そうそういないのだから。
疾駆したトリクシィが二十メートル前方のケルベロスに到達する頃には、すべてが終わっていた。シフォンは瞬時にケルベロスの三つの首を落とし、次に両の前脚を切断すると、目にも止まらぬ斬撃で胴体を掘削したのである。
そして、シフォンの動きはそれだけでは終わらなかった、朝を迎えるまで、ありとあらゆる魔物を殲滅したのである。
トリクシィが一滴の涙も見せなかった夜間戦闘は、この一度きりだった。
そして、シフォンが負った傷は、他ならぬトリクシィの弾丸だけ。
魔物が消滅すると、シフォンはひと言も口を利かず、騎士団本部へと向かった。報告のためではない。そもそも報告はリーダーであるトリクシィの仕事だ。任務が終わったのでさっさと帰っただけのことである。強いていうなら、外で運動したので身体を洗い、着替えをしたかった。出来るだけ身綺麗にするように誰かから言われたことを、今も覚えていたから。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『紫電のザムザ』→騎士団ナンバー1の男。銀の髪を持つ魔術師。幼い頃の記憶がない。ときおり頭のなかに響く『声』に従って行動をする。実はオブライエンによって作られた、魔道具に限りなく近い人間。故人。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~啓示~」』『Side Winston.「紫電の組成」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『深窓令嬢』→トリクシィの所持する魔具。形状は傘。閉じれば刃に、広げれば盾になる。盾の状態で回転させれば、火球を放つことも出来る便利な武器。それ以外にも、火炎の魔術を出力することも可能。詳しくは『268.「深窓令嬢」』にて
・『魔具訓練校』→魔術的な才能のない子供を鍛えるための学校。卒業生のほとんどは騎士団や内地の兵士になる。
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『ケルベロス』→三つの頭を持つの魔犬。機動力が高く、火炎を吐く。詳しくは『286.「魔獣の咢」』にて




