幕間「或る少女の足跡㉑ ~特別講義~」
卒業試験から数日後の晩。随分と久しぶりに自宅に戻ったゼールは、テーブル越しにシフォンの向かいに腰かけ、腕組みをして沈黙していた。帰るなり着替えもなにもせず、シフォンを部屋から呼びつけ、居間でこうして、一時間も黙ったまま視線を交わしている。
『なにか言うことはないのか、シフォン』
ようやく訪れた言葉に、シフォンは首を傾げた。自発的な言葉など、彼女はほとんどの場合、持ち合わせていない。この瞬間もそうだった。
ゼールは相変わらず厳しい顔つきだったが、僅かにため息をついた。
『お前が訓練校でなにを仕出かしたかは、すべて聞いている。お前が生徒に唆されて卒業試験を受ける羽目になったのは――良くはないが――まあ、事故だとしよう』
ただ、と続ける。
『卒業試験を担当した騎士団のマオ。彼を傷つけようとしたのは、どういう料簡だ』
ゼールはほぼすべての事実を、校長とゴーリーを交えて聞かされている。マオが試験官の在るべき態度を逸脱し、あろうことか生徒を――シフォンを攻撃したことについても把握していた。結果がどうあれ、マオはそれで一ヶ月の謹慎処分になったのである。ナンバーの剥奪まで至らなかったのは、事を公にしたくない両者、すなわち騎士団と訓練校との妥協によるものだ。とはいえ、そんなことは表向きの建前でしかなく、マオの一件を目にした講師陣や生徒たちが噂を広めるのは確実だった。マオの処分を謹慎に留めたのは、ゼールの意向に依るところが大きい。騎士団に帰還したマオには、かつての自尊心など欠片も見出だせなかった。たった一日で卑屈な少年に成り下がってしまったのである。そんな彼から序列まで奪ってしまったら、おそらく再起不能になるだろうと考えての決断だった。
ところで、マオが再起出来たかというと、そんなことはない。彼はこの一件以降、すっかり消沈してしまい、いじけた態度を臆面もなく表出させた。それでも夜間防衛はこなしていたものの、成長の兆しや、目を見張る活躍は見せることなく、ナンバー8の称号だけを維持し続けたのである。そんな彼はいつしか神童ではなく、騎士団に寄生する者として、宿木のマオという蔑称で呼ばれるようになったのだが、それさえ本人は卑屈に受け入れていたふしがある。なんにせよ、それは未来の話だ。
『全力でやれって言われたから』
シフォンの言葉はゼールの耳に一瞬、幼い言い訳として響いた。ゆえに顔面に怒気を漲らせたのだが、ハッと思い出す。彼女の感情と思考の欠陥のことを。今のシフォンを叱咤するのは、片足の欠けた者に、もっと速く走れと激を飛ばすような理不尽さがある。それをゼールは正義とは捉えていない。
『いいか、シフォン。よく聞け』
ゼールの口調が不意に柔らかくなったのは自然なことだった。
『人を傷つけてはいけない。たとえ全力であったとしても、それが人を傷つける結果になってしまうなら、正しい行いではない』
ろくに娘のそばにいないくせに正義を語る自分を、どこか滑稽に感じながらも、ゼールは強いて自嘲を抑えた。
『確かに、マオはお前を攻撃した。それも致命的な攻撃だったと聞いている。しかしお前はそれらを全部、捌ききった。それで終わりにすべきだったんだが、お前はマオに刃を振り下ろしたそうだな?』
頷きが返る。
『殺そうとしたのか?』
『殺すのが全力だと思った』
この子に倫理や正義を教えるのは大仕事だ。ゼールは率直にそう感じたものの、諦めるつもりはなかった。それから何時間もかけて、懇々と諭したのである。無闇に人を傷つけてはいけない。ただし、自分が傷つくような目に遭っていれば抵抗しなければならないが、それでも、相手に必要以上の傷を負わせてはいけない。可能な限り無傷で対処すること。人のためになるようなことをするのは正義であり、すなわち魔物討伐は正義と言えるが、人の言いなりになってはいけない。相手が悪党であれば簡単に悪の道を歩いてしまうのだから。自分なりの正しさを見つけられなければ、とりあえずは、誰かを守るように動くのが先決。それこそ全力で。
エイダのハサミの一件についても語られた。傍観も正義に反すると。
長い長い教えのなかで、シフォンの頭に定着した言葉はあまりなかった。全力で人を守れ、くらいである。あとはこれまで通り、ちゃんと先生の指示にしたがうこと。
『さて、お説教はこれでおしまいにしよう。ところで、悪くない報せがある』
ゼールは柏手を打って、シフォンに笑みを向けた。
『あと一ヶ月ほどで一年次が終わる。普通なら次は二年次だが、お前は四年次の授業を受けることになった。つまり飛び級だ。魔具訓練校はじまって以来だそうだ。マオの試験はともかくとして、一応、卒業試験の結果は文句なしの首席らしい。まあ、試験自体が取り消しだが、結果は誇っていい』
なんだかゼールがやけに嬉しそうな顔をしているのが分かったが、シフォンにはそれがなぜなのかちっとも理解出来なかった。飛び級も試験結果も、彼女にとって空無である。
その後の一ヶ月は、特筆すべき出来事は起きなかった。強いて挙げるならゴーリーが姿を消したくらいである。実のところ、卒業試験の一件でもっとも責を受けたのが彼だった。同時に、シフォンの即時卒業を主張したのも彼である。彼女は訓練校で教わるべきことは既に習得しており、どの道に進むにせよ、速やかに王都の益になるべきとの主張だった。しかも卒業試験の成績自体は文句のつけようもない。とはいえそんな馬鹿げた提案が通るはずもなく、異例ではあったが飛び級に収まったのだ。ゴーリーの処罰は、次年度までの謹慎処分である。シフォンを発見した二日目の最初の段階で彼女を止めていれば、マオの事件が起こり得なかったのは事実だった。ただ、ゴーリーは謹慎に納得などしていなかった。ではなんの処罰も求めなかったのかというと、そうでもない。自ら懲戒免職を求めたのである。校長はその場では受け入れず、彼がわざわざ用意した辞表も破り捨て、ともかくも謹慎を言い渡したのだ。免職になるかは一旦保留となった。
かくしてゴーリー不在の平穏な日々が続いていたのだが、一年次の最終日、またしても事件が起きた。下校時のシフォンが、またぞろ例の男子に捕まったのである。
『ゴーリーがさ、お前を呼んでこいって』
男子はやけに慎重な口振りでそんなふうに話した。
シフォンのなかで、ゴーリーは姿を見せなくなっても依然として先生である。男子の指示に従うつもりはなかったが、ゴーリーの呼びかけであれば、抵抗する必要性を感じなかった。つまり、彼女は同じ轍を踏んだわけだ。
男子は王都の門外の外れにある林の奥までシフォンを引っ張っていくと、鞄からロープを取り出した。
『ゴーリーが大人しくしてるように、ってさ』
男子の口調に敵意はなかった。手先も声も、震えていた。
ゴーリーが言うなら仕方ない。目的がどうあれ、シフォンは従うだけだった。かくして、彼女は木に縛りつけられたのである。
『おれはもう行くから。ゴーリーが来るまで、ちゃんと大人しくしてるんだぞ』
そう言い残して、去っていった。やがて来る夜から逃げるように。
一連の行為がなにを意味しているかくらい、男子は心得ていただろう。彼女を魔物の餌食にしてしまうこと――つまりは、間接的な殺人。そうまでして彼は、屈辱を晴らしたかったのかもしれない。あるいは、飛び級の決まったシフォンに嫉妬したのかもしれない。真実は分からないが、彼がこの行為そのものに恐怖を覚えながら、それでも手を止めることが出来なかったのは確かだ。
やがて夜が深まっていく。彼女のいる林の近辺は、通常、騎士たちが夜間防衛を行う範囲の外にある。じき現れるであろう魔物に対し、丸腰で、しかも縛られたままのシフォンにはどうすることも出来なかっただろう。おそらく。
枝葉の合間から見える夜空を眺めながら、シフォンはふと、夜になると空の蓋が取り外される、という言葉が頭に浮かんだ。夜の先に本当の世界があって、それを見つめていると自分がちっぽけに思えてくると、誰かが言っていた。ちっぽけでも生きていていいんだと、言い聞かされるようだと。
その人が誰だったのか、彼女はもう覚えていない。ただ、自分が小さくて、しかし生きているというのは事実であり、シフォンにも理解出来た。
ゴーリーは来ない。
いつまで待っても。
それでもシフォンは待ち続けた。今頃王都の門は夜間防衛のために閉ざされたことだろう。
『……ここでなにをしている?』
一ヶ月ほど耳にしていなかった声がして、シフォンは聴こえたほうを向いた。落ち窪んだギョロ目に、肩を越える長髪。表情らしい表情のない顔。
『ゴーリーを待ってた』
少しだけ間を置いて、ゴーリーは『そうか』と呟いた。そしてシフォンの縄を器用にほどく。
『シフォン。これからは、先生が直接言ったことだけ聞くように。分かったか?』
彼女は頷いた。
シフォンがまた騙されたことなど、ゴーリーは瞬時に悟っていた。それにしてもたちが悪すぎるが。
シフォンの手を引いて、ゴーリーは林を抜けた。王都の門を目指して。彼女の手を繋ぐのは――というより、生徒の手を引くのは――彼にとってはじめてのことだった。
ゴーリーの手が少しだけ震えていることを、シフォンはとっくに気付いている。
この日、ゴーリーがシフォンを発見したのはまったくの偶然だった。そもそも魔物の時間が接近しているのに、門の外へ出ることなどない。それでも彼が外出したのには理由がある。林の先。騎士の防衛範囲のさらに外側で、魔物と対峙しようとしていたのだ。もちろん単身で。自殺行為かもしれない。ただ、本望だった。シフォンとマオの、なかば決闘じみた試験を目にして、ずっとこびりついていたものがある。いや、騎士団を辞めてからというもの、心の奥底で小さく爪を立てていた感情が、シフォンの一件で強く主張をはじめたと言うほうが正しい。
再び王都の夜を守る。つまり、騎士団への復職。ゴーリーの頭にはそんな希望が萌していた。それゆえ、魔具訓練校の校長に免職を願い出たのである。結果として保留となったものの、それに頓着してはいなかった。はたして今の自分が魔物相手に戦えるのか、それだけが不安だったのである。前線で負傷してからというもの、魔物相手に魔術を使えなくなってしまった無能さが、まだ自分のなかに居残っているのか確かめるのに、一ヶ月も足踏みしまった。結果的にこうしてシフォンと偶然の再会を果たすことになったわけだが、彼の目的は達成されていない。
生憎、林を抜けたときには周囲に魔物が出現していた。グールのみだったが、ちょうど進路を妨害するような位置に出現している。
ゴーリーは意識を集中させ、ひとつの魔術を結実させた。一本の剣。水の魔術で生成されたそれは、鉄ほどの硬度は持っていないものの、小型魔物程度であれば討ち取れる。
『シフォン。これを持て。危なくなったら――』
武器を受け取るや否や、シフォンは目先のグールへと駆け、その身を切断した。マオの木偶相手に見せた剣技より、よほど無駄のない動きで。
ゴーリーが呆気に取られたのは一瞬である。もとより、シフォンに途方もない才能があるのは察していた。おそらく魔物討伐の経験があることも直感的に理解していた。ただ、ゴーリーとて彼女に任せるつもりはない。優秀な前衛がいる以上、後衛もそれに匹敵する能力を見せなければならないのだ。
『なぜ』集中力を振り絞りつつも、ゴーリーは自身の声を耳で拾った。『なぜ……魔球ひとつ、創れんのだ……!』
魔力は、攻撃魔術になる前に霧散してしまう。何度繰り返そうとも。一方で、シフォンは皮肉なほど華麗に敵を撃破し続けていた。
やがて、そうか、とゴーリーは気付く。
自分は騎士ではない。そしてもう二度と、騎士にはなれない。自分は一介の講師に過ぎないのだ。
ゴーリーの震えは収まっていた。集中力を高めようとする過剰な意識も失せている。
ところで講師とは、教え子の後ろで守られ続けている存在だろうか。
シフォンの周囲の魔物はあらかた消えていた。
『シフォン。止まれ』
ゴーリーの背後数メートル先で蠢く魔物へと足を踏み出したところで、シフォンの動きは止まった。
素直な子だ、とゴーリーは思う。こんな状況でもなければ、もっと教えてやれたろうに、と。けれど、こんな状況でなくては教えられないこともある。
『これから君は、自分の周囲五メートルに近寄って来る小型魔物だけを相手にしろ。大型や中型の魔物は相手にせず、回避に徹するんだ』
シフォンの頷きを確認し、ゴーリーは『よろしい』と呟いた。
彼の真後ろにはグールが迫っており――。
『水衣』
そう呟き、ゴーリーは背後のグールを両断した。水の魔術で生成したサーベルで。
『案山子』
もう一種の魔術を展開すると、周囲の魔物の意識がすべてこちらに向いたことが分かった。魔物を引き寄せる魔術を自身に施したのである。シフォンが標的とならないように。そしてやや遅れて、自分の右足に強化魔術も施した。これで朝まではまともに動いてくれるだろう。
二体目のグールを水の刃で引き裂くと、ゴーリーはゆっくりと振り返った。
自分は講師だ。だから、教えることしか出来ない。騎士として戦うことは叶わずとも、騎士の在り方を教えることは出来る。
『さて、シフォン。特別講義をはじめよう』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『魔具訓練校』→魔術的な才能のない子供を鍛えるための学校。卒業生のほとんどは騎士団や内地の兵士になる。
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『案山子』→魔物を引き寄せる魔術。自身の肉体を中心に、魔力のハリボテを作ることで実現させる。詳しくは『223.「神経毒」』にて