幕間「或る少女の足跡⑲ ~卒業試験~」
魔具訓練校の卒業試験は二日に渡って行われる。一日目に筆記試験と体力測定。二日目に対魔術試験と、対魔物試験。その二日間は卒業見込みの生徒以外は休みになっている。大事な試験であり、卒業見込みの生徒数も少なくないため、講師全員が注力する必要があったのだ。
もちろん、シフォンもその二日間は休みだと聞かされていたのだが――。
『おい』
卒業試験前日の下校時に、シフォンは声をかけられた。相手はエイダを刺した例の男子である。といっても、シフォンはその子の顔も名前も体格も記憶していなかった。
『明日と明後日は休みだけど、お前だけは学校に来いってゴーリーが言ってた。試験を受けろってな』
その男子はニヤニヤと笑いを浮かべながら告げた。シフォンにとって、その笑みの理由など分かりはしないし、分からない以上、関心事ではない。そんなことより、ゴーリーの指示なのであれば登校しなければならないと感じた。編入の際、ゼールから『先生の言うことをしっかり聞くように』と言い含められていたのである。
頷いて去りかけたシフォンの肩に、男子の手がかかった。『待てよ』
そして彼はなかば強引に、シフォンの手に紫の布を押し込んだ。
『明日と明後日は、いつもの赤いスカーフじゃなくて、そのスカーフを巻いてけ。これもゴーリーが言ってた』
訓練校では生徒の年次に合わせたスカーフの着用が義務付けられている。赤は一年次。紫は四年次を示している。なぜ男子が紫のスカーフを持っていたのかは、簡単な話だ。彼の兄が四年次に在籍しており、その予備の品だったのである。
これら一連の指示がゴーリーによって行われたのではなく、男子の個人的な腹癒せだったことは言うまでもない。彼は根に持つタイプだった。そして自尊心がとびきり高い。自分よりも優秀な成績を収めており、なおかつ他人を歯牙にもかけないシフォンの態度は、彼にとって許しがたいものだった。ゴーリーに目をかけられている点も気に入らない。だからこそ卒業試験で赤っ恥をかかせて、シフォンに泥を塗ってやろうと画策したのである。
そんな背景など知るよしもなく、シフォンは黙って男子の言う通りにした。かくして卒業試験の一日目、彼女は迷いなく訓練校へと足を向けたのである。紫のスカーフをきっちり巻いて。
『名前は?』
『シフォン』
『……名簿にないな。書き漏らしか』
試験の受付を担っていた講師は、シフォンが目にしたことのない男だった。当然、男のほうでも彼女との面識はない。卒業試験が迫る期間は、講師にとって、通常の講義に加えて試験準備に忙殺される持期である。試験後の進路に関する手続きも控えているため、講師間では地獄の季節や徹夜行軍などと暗に囁かれていた。ゆえに、試験対象の生徒のひとりが名簿に載っていなかったのは、多忙ゆえのミスだろうと受付の男は判断した。なにより紫のスカーフが、四年次であることの証明にもなっている。試験対象者にシフォンを加え、彼女を指定の教室まで行くよう指示したのは、同情に足るだろう。
一日目の筆記試験は複数の教室で生徒を分けて、それぞれ同時に行われた。その後の体力測定は、いくつかの組に分かれて、順番に運動場で実施された。そのいずれもゴーリーとは別の講師によって監督されたため、彼の関知するところではない。筆記試験の採点や体力測定の結果をまとめるのが後日と決まっていたのも、その一因だろう。でなければ、とっくに講師が快哉を叫び、ゴーリーも招かれざる生徒が紛れていることを把握したはずだ。
後日発覚することとなったが、体力測定の異常な結果はまだしも、筆記試験まで満点というのは異例だった。シフォンにとっては筆記試験など、なんら問題ではない。彼女の頭には、一年次から四年次までのすべての教科書の内容が、一言一句違わず記憶されていたのだから。
さて、二日目である。その日も午前と午後で内容が分かれていた。午前は対魔術試験。午後は魔具を使用した対魔物試験。この日もいくつかの組に分かれて順番に実施される運びとなっていたが、講師たちはその限りではない。特にゴーリーは魔術師であるため、すべての生徒を試験する必要があった。その代わり午後は休憩しても良いことになっていたが――シフォンの出現で彼の予定は完全に狂ったといえよう。
午前の最終組。そこに現れた銀髪の少女を目にして、ゴーリーはいくつかの想像をめぐらした。彼女のスカーフは、試験への闖入が単なる勘違いではないことを示している。そして、意図的に卒業試験に潜り込むような性格ではないことも知っている。おおかた、悪意ある生徒によるものだろうと判断した。どんな経緯があるにせよ、本来ならつまみ出さねばならない。が、ゴーリーはシフォンが一年次であり、したがって卒業試験の対象者ではないことを、他の試験官に一切告げなかった。
『これから行う魔術試験は二種類だ。まずは基本的な魔術対策。諸君も知っての通りだが、魔物には呪術を扱う種がいる。それらへの対抗策を持っていなければ、魔物との戦闘はままならない。具体的には、呪力球への対策だ。武器は使用してかまわない。回避してもかまわない。ただ、肉体にダメージを負うのは減点だ』
本来、このような説明をするつもりなどゴーリーにはなかった。試験内容は卒業見込みの生徒たちには事前に知らされている。
『次に、水中訓練を行う。今後、近衛兵になる者も内地の警備兵になる者も、いついかなる場所でも最大の力を発揮する必要がある。鎧を着けた状態で、水球内で武器を扱う訓練は三年次に受けたことと思うが、今から行うのもそれと似たようなものだ。こちらが創り出した水の魔術の内部で、諸君には――』
言葉を切って、ゴーリーは指先を足元の木箱に向ける。すると彼の指から魔力の糸が伸び、一本の木剣が宙に浮かんだ。ゴーリーはそれを、すいすいと操って見せる。さながら、見えざる戦士が剣を操っているかのごとく。
『木剣の攻撃に対処してもらう。諸君らが扱うのも木剣だが、そちらは修繕魔術が籠められた魔具だ。木剣が破損したら修繕して対処を継続すること。時間はひとり五分。酸素は都度、水球内に供給するので、溺れる心配はしなくていい』
この間、ゴーリーはシフォンを一瞥もしなかった。ただ、彼女が一音さえ聞き逃していないことを、彼はちゃんと把握している。課外授業においても、通常の講義においても、彼女は一度だって同じことを聞き返したりしなかったのだから。
かくして、試験はひとりひとり行われた。シフォンを最後に回したのは、ゴーリーに意図があってのことだろう。
生徒たちの多くは、呪力球を模した魔球の対処に手間取り、直撃した。無論、ダメージは皆無である。ゴーリーの魔球は速度こそそれなりにあったものの、威力は最低限に抑えられていた。魔球を凌ぎきった一部の優秀な生徒も、次の試験で苦戦を強いられた。ゴーリーの創り出した半径五メートル程度の魔術製の水球とはいえ、水の抵抗は本物と変わらない。そのなかで剣を振るうのは簡単なことではなかった。とはいえ、何度かゴーリーの操る木剣を受けた程度で失格になるようなものでもない。筆記試験や体力測定も加味し、総合的にほとんど成果の上げられなかった数名だけが留年になる程度だ。
いよいよ最後――シフォンの番が回ってきた。まずは魔球への対処である。彼女は小ぶりの鎧を身に着け、十メートルほどの距離をおいてゴーリーと対峙した。
ゴーリーの放った魔球が、シフォンの身体の正面に迫る。彼女はそれを、手にした木剣で明後日の方角へ弾き飛ばした。『おぉ』と小さい驚きが講師陣の間に広がる。初撃を剣で弾いた生徒はこの日、彼女だけだったのだ。ただ、それはシフォンにとっての成功だったろうか。
答えは否である。
二発目。異なる軌道で迫る魔球。ゆるくカーブしたそれは、彼女の膝を狙っていた。足を引くか、いっそ後退すれば回避出来るだろう。
実際、回避は行われた。避けたのはシフォンではなく、ゴーリーだったが。
シフォンは木剣で魔球を捉え、正確にゴーリーの額へと弾き返したのである。これには講師陣も絶句していた。ゴーリーもまた沈黙していたが、彼の場合は事情が違う。
しばしの間をおいて、ゴーリーは二発の魔球を放った。彼女の顔面へまっすぐ飛ぶ魔球と、彼女から遠く離れた場所へと進む魔球の二種類。彼女が対処したのは、そのうちひとつだけである。顔面への攻撃は無視し、急カーブを描いて横腹へと向かう魔球を、今度もゴーリーの額へと打ち返した。顔面へ向かった魔球はというと、彼女に直撃する一メートル前で急に進路を変え、空へと消えたのだ。それら二発の軌道は、事前に計算されたものである。シフォンはそれらふたつとも、魔球が放たれる直前に把握していた。ひとつは攻撃で、ひとつは攻撃ではない。攻撃ではないものに対処する必要はないという判断である。
ゴーリーは何事もなかったかのように『それでは水中での試験に移る』と告げ、他の生徒たちと同様のサイズと密度の水球を形成した。シフォンもそれまでの生徒たちに倣って、宙に浮かぶ水球内へと潜った。
やがて、ゴーリーが遠隔で操る木剣が彼女へと迫る。一撃目を弾くと、シフォンの木剣は衝撃で叩き折れたが、即座に修復された。無論、魔具の能力を行使しただけのことである。講師陣の控える方角から、水に歪んだ感嘆の声が伝わる。水中での剣の速度と、魔具の扱いの熟練具合に感心したのだろう。しかしそれもまた、シフォンにとっては失敗だった。
そう。彼女は別のものを狙っていた。そして次にゴーリーの木剣が迫ったとき、成功を収めたのである。
生徒の目にはもちろんのこと、講師陣の目にも、水球が自然に瓦解したようにしか映らなかったろう。シフォンの斬撃速度さえ、正確に捉えたものはいないはずだ。ゴーリーを除いて。
『……先生がた』ゴーリーは唖然とする講師陣に、容易な答えを与えてやった。『どうやら少し、練度が落ちてしまったようです。見ての通り、水球を維持出来ませんでした。もう一度やり直してもよろしいでしょうか?』
『あ、ああ。それはもちろん。ゴーリー先生もさすがにお疲れでしょう。少し時間をおいて――』
『時間は不要です』
ゴーリーは先ほど同様のサイズの水球を即座に創り出した。ただし、最前と異なる点がふたつ。酸素供給はなく、身動きの困難なほど水圧を強くした。
シフォンの目には――厳密には肌には、それら一切の変化が把握出来たことだろう。そして、自分にとってはなんの問題にもならないことも。
彼女は水球に潜るや否や、ゴーリーの木剣での攻撃を待つことなく、刃を振るった。魔術の中核を担う箇所を一閃すべく。
かくして水球は一度目と同様、瓦解を迎えた。
ゴーリーは普段通り、なんの表情もなく、ぎょろっとした目で講師陣を見やり、『魔力の限界です。とはいえ、もう充分でしょう。彼女は及第点だ』とこぼす。
及第点どころの話ではないことは、ゴーリー自身、よく理解していた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『魔具訓練校』→魔術的な才能のない子供を鍛えるための学校。卒業生のほとんどは騎士団や内地の兵士になる。
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『呪術』→魔物および『黒の血族』の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪力球』→呪力の塊を放つ攻撃手段。魔物が使用する。
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。