幕間「或る少女の足跡⑰ ~エイダ~」
訓練校に通いはじめて二ヶ月ほど経過した頃のことである。
『ねえ、一緒にごはん食べてもいい?』
校内の食堂で昼食を摂ろうとしていたシフォンは、同年代の女の子からそんなふうに話しかけられた。一緒に食べるという行為が具体的になにを示しているのか分からなかったので首を傾げる。すると相手はおずおずと隣に座って、こんなことを言った。
『ボク、エイダって言うの。あなたと一緒のクラスなんだけど……分かる?』
そこでようやく、シフォンは相手の顔をまじまじと見つめた。小麦色の肌に、黒髪。前髪は眉のあたりで切り揃えられており、それ以外は顔の下あたりまでの長さ。癖のないまっすぐな髪は特徴的ではあった。上は白の開襟シャツに、下は藍色のぴったりしたズボンを身に着けている。
『分からない』
シフォンは素直に答えた。人の顔と名前、そして姿を覚えるのは得意ではない。現に、クラスメイトのひとりたりとも顔を覚えていなかった。せいぜい、ゴーリーのことを記憶していたくらいである。
シフォンの返答に、エイダと名乗った少女は『そっか』と言って俯くと、急にぶんぶんと顔を横に振った。そうして、やけに力強い眼差しでシフォンを見つめる。
『ボクね、あなたみたいになりたいんだ。……ほら、あなたは授業でも堂々としてるし、武器の講義だって、ううん、トレーニングの講義だってそう。あなたはとっても優秀で、それなのに』
エイダはそこで言葉を切った。それなのに孤立している、と言うのは無神経すぎたからだし、なによりエイダ自身がシフォンと同じく、ひとりぼっちで学校生活を送っていたのもある。座学はともかくとして、武器の扱いや体力面で劣等生だったエイダが、シフォンへの羨望を抱いたのは、校内での孤独な境遇に仲間意識を感じたからだろう。
『ねえ。ボクと友達にならない? 駄目?』
そう問いかけたエイダの瞳も、身体も、ぶるぶる震えていた。彼女なりに勇気を振り絞って言葉にしたのである。
『駄目じゃない』
シフォンは友達というものが分からなかった。同等であり、交流をする相手。その程度の認識である。相手が友達になりたがっていることを止める理由はなかった。身も蓋もなく言ってしまえば、好きにすればいい、という感覚に近い。
エイダは返事を耳にして、破顔した。
『じゃあ、今日から友達。ね? ボクのことは呼び捨てにして。ボクもあなたのこと、シフォンって呼んでいい?』
『呼んでいい』
『ふふっ。シフォン』
『なに?』
『シフォンは好きな食べ物ある?』
『ない』
『嫌いな食べ物は?』
『ない』
『そっか……。とにかく、一緒にごはん食べよう』
かくして、シフォンは魔具訓練校ではじめての友達が出来た。そして一緒にごはんを食べるというのが、単に、隣に座って食事を摂ることを意味しているのも理解した。
それからというもの、エイダは事あるごとにシフォンに話しかけてきた。途轍もなく薄味な反応しか返さないシフォンだったが、それが彼女の特徴なのだと、エイダも理解していったふしがある。
エイダはよく自分のことを語った。魔術師の家系なのに、自分に魔術の才能がなかったこと。王都の生まれであり、宿舎ではなく自宅から通っていること。
孤立していた二人が一緒にいるのを見て、同じクラスの子たちは『気持ち悪い』だの『変人姉妹』だのと悪口をぶつけてきたが、シフォンは当然のごとくなにも感じなかったし、言い返しもしなかった。エイダは決まって俯き、そうした嫌な言葉が過ぎ去るのを身を固くして耐えるばかりである。
『シフォンは強いね。……なにを言われても堂々としてるんだもの』
友達になって半月ほどの頃、運動場に併設されたベンチでエイダはそんなことを呟いた。
『なにも感じないだけ』
『それが、強いってことなの』
消沈した様子のエイダに、シフォンは特になにも感じなかった。無感情が強さに直結しているわけではないことは知っている。王都に来るまで、自分は強い人のそばにいた。その人は、自分とは違って感情を持っていた。
自分を学校に入れようとしたその人の名前も容姿も、シフォンの記憶にはもう残っていなかったが。
『ボクが悪口を言われたり、意地悪されたりするのはいいの。でも、シフォンがそんなことをされるのは、許せない』
エイダの言葉は弱々しかった。それこそ雨粒に似た、小さな声。ただ、彼女の想いが偽物だったかというとそうではない。傷を舐め合うような言葉ではなかったことが、数日後に証明されたのだ。
どの年代の子供にも、自尊心が高く、乱暴な輩がいる。手下を侍らせ、弱者をいたぶって悦に浸るような連中だ。シフォンは最初から、その手合いに目を付けられていた。子供にしては身体が大きく、年齢もクラスの誰よりも高い、そんな男の子。彼女に対し、最初に石をぶつけたのは他ならぬその男子だった。
その日、シフォンはなにをするでもなくぼんやりと教室の窓の外を眺めていた。昼休みは食事を摂るだけにしては、シフォンにとって長過ぎる。友達――エイダがそばにいるようになってから、彼女とほぼ一方通行な会話をして過ごすのが通例になっていたが、今、彼女はトイレに籠っている。教室で待っているよう言われたので、シフォンはぼんやりと彼女の帰りを待っていた。昼休みは、ほとんどの生徒が運動場や食堂に出払っているので、教室に残る生徒は滅多にいない。このときもご多分に漏れず、シフォンひとりきりだった。そこに例の男の子と、その取り巻き連中が現れたのである。
『おい、鉄仮面』と言って、男子が大股で近寄り、シフォンの髪を引っ張った。『調子はどうだ?』
問いの意味が分からなかったので、シフォンは反応しなかった。それを見て、男は取り巻きに『やっぱこいつ、人形みてえだよな』なんて話しかけ、追従笑いが弾ける。
『鉄仮面。お前の髪型を俺が整えてやるよ』
男は手に持ったハサミを、脅すように、シフォンの目の前で何度か開閉させた。
髪はそこまで伸びていないけれど、そろそろ切り時なのは確かだったので、別段シフォンは抵抗しなかった。髪をめちゃくちゃにして自尊心を剥ぎ取ってやろうと彼が目論んでいるなんて、彼女には知りようがない。想像する力そのものがないのだから。
『やめて!!』
シフォンの髪に刃が触れるかどうかといったところで、少女の声が響き渡った。エイダである。
エイダは男の子に向けて突進し、手にしたハサミをなんとか奪おうとした。普段から怯えがちだったエイダにしては勇気ある行動だったが、彼女があまりにも非力だったのも事実である。彼女は男子に何度も殴られ、蹴り飛ばされ、それでもハサミを奪うべく立ち上がった。一種異様な気魄で。
シフォンはじっと椅子に座ったまま、その模様を眺めるばかりである。なにをすべきか分からなかった。分からないときは正しい者――すなわち強い者に従うべきだと教わったが、生憎、この場には誰も強い相手がいない。ゆえにシフォンはじっと傍観していたのである。しばしば、倒れたエイダを見下ろす視線になった。それをエイダがどのように感じたかは、彼女にしか分からない事柄である。
男子が諦めさえすれば、この場はエイダの勇気に軍配が上がったことだろう。しかし、そうはならなかった。男子は引っ込みがつかなくなって、エイダに馬乗りになり、彼女を殴打しはじめたのである。それでもエイダはハサミを奪おうとして揉み合うかたちになり――。
『あ』
と声を上げたのは、男子だった。仰向けに倒れたエイダから離れ、『お、おれのせいじゃねえからな! 全部シフォンが悪いんだ!!』なんて捨て台詞を吐いて去っていく。もちろん、取り巻きもすぐに消え去った。あとに残ったのは、椅子に腰かけたシフォンと、絶叫するエイダの二人だけ。勇敢なる少女の右目には、閉じたハサミが深々と刺さっていた。
じきにゴーリーがやってきてエイダを医務室に運び入れ、主犯である男子と取り巻き連中、そして傍観していたシフォンにも一週間の自宅謹慎が言い渡された。他者を傷つけるのはもちろんのこと、それを黙って見ているのも罪だとされたのである。正義にもとる態度だと。
シフォンには、それからエイダがどうなったのか知らない。
半年近く魔具訓練校を休んで目の療養に費やし、それでも失明してしまったことも知らない。
その後に訓練校に復帰したことも。
誰とも口を利かず、黙々と鍛錬に励んだことも。
四年かけて順調に卒業したのち、騎士になったことも。
見習いを経て経験を積み、ナンバー7の序列を得たことも。
魔眼のエイダの異名を得て、夜間防衛の最前線で魔物を蹴散らし続けたことも。
すべてシフォンが知ることはなかった。もしかしたらどこかで擦れ違ったかもしれないが、彼女の記憶力についてはもはや言うまでもない。覚えていないことと知らないことは、彼女にとってほとんど同じだ。
この一件以降、シフォンは卒業までひとりも友達が出来なかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『魔具訓練校』→魔術的な才能のない子供を鍛えるための学校。卒業生のほとんどは騎士団や内地の兵士になる。
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて