幕間「或る少女の足跡⑭ ~ゼール~」
『ケルベロスが出現したのはこの地点か』
夜明けから間もなく、厳粛な声がした。町の方角――シフォンが抜けた林の方角から、いくつかの駆け足とともに。厚手のブーツの音に混じって、鉄靴の響きがひとつ。
『あなたは――もしや王立騎士団の、副団長様?』
幾人かの兵士を連れて林を抜けた鎧姿を目にし、思わずといった調子で口走ったのは、ジョゼとケルベロスの戦闘に見入っていた援軍のひとりである。彼はジョゼが倒れてからも、ただ呆然と林の先に突っ立っていたのだ。朝になるまで。彼は決して臆病者ではないが、棒立ちになってしまった理由は別段、驚くに値しない。たったひとりの勇敢な戦士がケルベロスを討ち取り、その後ばったりと倒れ、襲いくる魔物を少女が単身で撃破し続けた様子は異様でしかなかった。少女の戦闘は加勢を拒むような、過激とまで言える強烈な印象を援軍の男にもたらしたのは想像に難くない。ゆえに、彼がなにもせず朝を迎えてしまったのは無理からぬことである。
『いかにも。俺は王立騎士団副団長のゼールだ。正確には次期団長候補であり、現在は騎士団のナンバー1を任じているが……まあ、それはどうでもいい。カマルに強力な魔物が出現したとの報せを受けて、被害状況を確認しに来た』
ゼールと名乗った壮年の男は、既にカマルの中心地で武装兵や魔術師から状況報告を受けている。この地にケルベロスが出現したこと。それをひとりの男が相手取ったことなどを。
本来、大型魔物の出没に関して騎士が直々に――それも現状の騎士団において序列の頂点に座す者が、近隣の町といえども被害状況の確認に向かうのは異例のことである。彼がそのような決断をしたのは、昨晩の王都の状況が影響していた。
数時間前まで、ゼールは王都の東門で夜間防衛の任にあたっていたのだ。その晩は通常よりも魔物の出現数も多く、大型の魔物も何体か出現していた。そこを縫って、カマルから訪れた使者により、ケルベロス出現の報告と、支援要請を受け取ったのである。ただ、王都とカマルでは馬でも数時間の距離にあった。今すぐ赴いたとしても到着するのは朝であり、夜明けを迎えてもしぶとく居残った大型魔物を討ち取る程度の意義しかない。いかに王都近郊といえども、たどり着く頃には壊滅的な打撃を受けていることは容易に想像出来た。それでもゼールは、配下の騎士に王都の守護と、自分の代わりに非番の猛者を数人用意して穴埋めをするよう速やかに命じ、単身、カマルへと馬を駆ったのである。
彼の行動の背景は、彼自身の性格に依るところが大きい。たとえ僅かであってもカマルに命が残っており、ようやく迎えた朝陽を前に、それらが潰えてしまう可能性を悲観したのだ。悲劇の影を感じたなら動かずにはいられない。剣を振るわずにはいられない。
朝陽の昇る頃、ゼールはようやくカマルに到着し、そこに魔物の気配が微塵も残っていないことを察知し、自分の胸騒ぎが杞憂に終わったことを安堵した。同時に、強烈な違和感があったのは確かである。ケルベロスは騎士団のメンバーといえども簡単に討ち取れる相手ではない。カマルの防衛力が高いのはゼールとて知ってはいたが、それでも町なかに被害が一切ないのは異様に思えた。数名の死者が出たというのは町の武装兵から聞かされたものの、ケルベロス相手に数名の命で済んだこと自体、奇妙である。ケルベロスの出現自体が誤報だったのではないかと訝ったほどだ。
かくして彼は、ケルベロスの出没地点まで案内を依頼し、林を抜け、朝陽を浴びる少女を見据えている。
『……ケルベロスは本当に現れたのだな?』
『ええ、確かにこの目で見ました』
『倒したのは――』
『あそこで倒れている男です』
『カマルの守護者か?』
『いえ、旅の者だそうで、ひとりでケルベロスの相手を買って出て――そして相討ちになったものと……』
『俄かには信じがたいな。それで、あの男のそばにいる少女は?』
『詳しいことは分かりませんが、旅の男の子供かなにかかと……。ケルベロスを討伐した彼が倒れてからは――あの少女が魔物を倒し続けたのです。たったひとりで、朝まで』
『……確かか?』
『ええ。相手は魔犬で、それも数え切れないほどいましたが……一頭たりとも討ち漏らしませんでした』
会話のすべては、シフォンの耳にも届いていた。が、それらは木々のざわめきや小鳥の鳴き声と同じく、自分に向けられたものではない以上、環境音と同じだ。彼女はただただ、仰向けに横たわったジョゼを見つめていたのである。林を一瞥さえしなかった。彼女の関心事といえば、今日、王都の学校に行くことだけ。ジョゼは昨晩、一緒には行けないと言っていたが、その意味が分からなかった。なぜならジョゼはここにいるのだし、今は眠っているだけにしか見えない。彼が口にした、遠くに旅立つという意味も分からない。だから、ジョゼが目覚めるまでこの場を動くつもりはなかった。
シフォンの隣まで鉄靴の音がやってきても、彼女は身じろぎひとつしなかった。
『君、名前は?』と問われて、ようやく隣の男に目をやった。
鷹に似た鋭い目付きをした、厳粛な顔の男。その身中の光はさして大きくなかったものの、腰に下げた二本の剣が煌々と輝いている。これまでも物が光っている――つまり魔力を帯びている――ことはあったが、その男の持つ剣以上に光の宿った物は目にしていない。ただ、総合的な光はジョゼに及ばなかった。
『シフォン』
そう答えてみせると、男は何度か頷き、彼女の背負った剣に視線を送った。
『私はゼールだ。王都で魔物と戦う仕事をしている。……ここで魔物と戦ってくれたのは、君なのか?』
事実なので、素直に頷く。
『ケルベロスを倒したのは――』
『ジョゼ』
シフォンは間を置かずに返した。するとゼールはしばし瞑目し、仰向けになったジョゼの心臓にそっと手を置く。
『彼は――ジョゼさんは、君のお父様か?』
『違う』
『では、親族の方だろうか』
『違う。ジョゼは、ジョゼ』
ゼールの目に、少女は十歳前後に映っていた。それにしてはコミュニケーションに難がある。そして表情に変化がない。背負った剣も、彼女の体躯には大きすぎる。たとえケルベロスを討ったのがジョゼという男なのだとしても、それ以降、単身で魔物の群れを撃破したというのは信じがたいことだった。
ゼールという男は決して疑り深い性格ではなく、むしろ直情的である。そしてやや思い込みが強い。同情心も人並み以上である。ゆえに、その後の何度かのやり取りを経て、彼が少女を孤児だと判断し、ジョゼという男――既に事切れたこの男が少女を引き取って育てていたのだろうと推断した。ほんの子供に過ぎない彼女が夜明けまで魔物と戦い続けたのは疑問として残ったものの、あまり拘泥することはなかった。真実がどこにあるにせよ、少女は無事であり、ジョゼという男は亡くなっている。
シフォンが不意に『学校に行く』と言い出したのは、なにも彼女の気まぐれではない。ゼールが王都から来たと知って、口に出したのだ。
『学校か。カマルに学校があるのか?』
『違う。王都の学校』
シフォンは自分の布袋から、学校の地図やら願書やら、金貨の詰まった袋――彼女はその正体を知らなかったが――やらを取り出して、ゼールに渡した。
願書にはなにやら、感情と思考に欠陥あり、との不穏な文字が刻まれていたし、手紙では感情と思考が無いとまで断定されていたが、コミュニケーションが不得手なだけだろうとゼールは解釈した。それよりも、願書そのものへの関心が強い。
『なるほど……魔具訓練校か。普通であれば低級訓練校を経て魔術訓練校か魔具訓練校かに進むものだが、君は魔術師ではなく、魔具使いになりたいのか?』
『魔術師にはなれない』
誰かがそう教えてくれた。それが誰なのか、シフォンはその声も姿も覚えていない。
ただ、ゼールにはそれで伝わったらしい。彼とて、人の身に宿る魔力が読めないわけではない。
『そうか。それで、魔具訓練校なのだな。いつ王都へ行く予定なんだ?』
『今日』
『今日か……。デリケートなことを訊くようで悪いが、それは彼――ジョゼさんが連れて行ってくれるはずだったのか?』
頷く。ただ、それだけでは足りなくて、シフォンは口を開いた。『でも、ジョゼは一緒に行けないって言った。遠い場所まで旅に出るからって言った』
シフォンの言葉で、ゼールは一切を理解してしまった。それがジョゼの遺言だったのだろう、と。落涙こそしなかったものの、惜しい人間を亡くしたと本心から思った。それはなにも、ケルベロスを討ち取った強さに対してではない。死を悟った者の最期の言葉として、少女への労りが強く表れていたからだ。ジョゼという男は、親ではないにせよ、正真正銘、彼女の庇護者として己をまっとうしたことを示している。
ゆえに、ゼールはジョゼの手紙を受け取った者として、真摯であろうと心に決めた。つまりは、彼女の一時的な保護者となるのだと。
『シフォン、と言ったな。私はこれからジョゼさんの代わりに、君を学校へ連れて行く。そして、君の親代わりになることも誓おう』
シフォンはしばしゼールの瞳を見返していたが、やがて、ジョゼへと視線を移した。
『それは、ジョゼに訊く。ジョゼはまだ旅に出てない。寝てるだけだから、起きたら、訊く』
ゼールは彼女に対して、上手い言葉を紡ぎ出すことなど出来なかった。それゆえ、不器用なまでに率直に伝えるほかなかったのだ。ジョゼはもう死んでいるのだと。
てっきり理解されないと危惧したものの、少女は心臓の鼓動を確かめてから、あっさりと首肯した。相変わらずの無表情で。
『ジョゼさんを埋葬して……君の心の整理がついたら、王都へ出発しよう』
『心の整理、が分からない』
『それは……つまり、落ち着いたら、ということだ』
『落ち着いてる。だから、もう出発出来る』
強い子だ、とはゼールは思わなかった。ここまでのコミュニケーションで、ようやくシフォンの感情の欠陥について――誤解はあるが――把握しつつあったのである。彼女は感情を表に出さないだけではなく、どうやら感情そのものに深刻な病を負っている、と。
『分かった。それでは、埋葬したら発とう』
ゼールがジョゼの亡骸を背負ったところで、シフォンが口を開いた。そしていくつかの事柄を淡々と伝えたのである。
――ジョゼの故郷が王都であること。
――ジョゼの父母は既に亡くなっていること。
――ジョゼは身体の理由で王都に帰れなかったこと。
――自分を学校に連れて行くために、王都に行く予定だったこと。
それらの言葉は、シフォンが耳にした事実を挙げただけであり、彼女自身の意志は含まれていない。ただ、聴く者にとっては、それがどれほど雄弁に方針を示しているか、容易に汲み取れたことだろう。
かくしてゼールは並々ならぬ感傷を抱きつつ、王都へと向かったのである。ひとりの少女と、猛者の亡骸とともに。
その日の晩までには、簡易的な葬儀と埋葬が執り行われた。王都で、だ。二度と足を踏み入れることの叶わなかった土地で、彼は永遠の眠りに就くこととなった。ひとりの騎士と、ひとりの少女に見送られて。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ケルベロス』→三つの頭を持つの魔犬。機動力が高く、火炎を吐く。詳しくは『286.「魔獣の咢」』にて
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。双剣の魔具使い。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔犬』→黒い体毛を持つ凶暴な魔物。一般的な大型犬の倍ほどの体躯を持ち、鋭い牙で獲物を食らう。ケルベロス同様に獰猛とされているが、より大型の魔物がいれば大人しく様子見をする習性があるとされている。詳しくは『286.「魔獣の咢」』にて
・『魔具訓練校』→魔術的な才能のない子供を鍛えるための学校。卒業生のほとんどは騎士団や内地の兵士になる。
・『魔術訓練校』→王都グレキランスで、魔術的な才能のある子供を養成する学校。魔具訓練校とは違い、卒業後の進路は様々
・『低級訓練校』→魔具訓練校や魔術訓練校の前段にある学校。一般的な学問はもちろん、生徒に魔術の才覚があるか否かを見極める役割が大きい。