幕間「或る少女の足跡⑬ ~どういたしまして~」
イフェイオンから西に位置する王都。その中間地点に位置する町、カマル。王都まで馬車で数時間の距離にあるその町は、画一的な三角屋根の家々が立ち並び、道は石畳で舗装されている。食料品店や宿屋はもちろんのこと、服飾、雑貨、家具屋といった生活用品の専門店が揃っており、果ては酒場や賭場までずらり。王都から距離がもっとも近い町ゆえ、文化的にも発展している。人々曰く、小王都。町を囲う外壁こそないものの、町の守護を担う魔術師ならびに魔具使いは常に三人体制で、武装した自警団まであった。
ジョゼたちがカマルに到着したのは陽が落ちて間もなくのことである。早速宿屋を取り、食料品店で材料を買い揃え、ジョゼの手料理がテーブルにずらりと並んだ。それらひとつひとつについて、ジョゼは丁寧な解説をしてくれたのだが、シフォンはよく覚えていない。当然のごとく、味もしなかった。
部屋に備え付けられた光源が永久魔力灯であり、わずかではあるが、その魔力がジョゼを蝕んでいることなどシフォンは分からなかったし、たとえそれを理解していたとしても、なにも感じなかったのは言うまでもない。
シフォンは永久魔力灯のほか、町で様々な光を肌で感じた。現実の光ではなく、魔力のことである。道行く人の光。馬車に宿った光。噴水の光。それら数々の光のどれも、今のジョゼには遠く及ばなかった。約二年前――最初に出会った頃よりも、彼の持つ光が広く強くなっていることまでは気付かない。記憶に残っていないのだから、比較のしようがないのだ。そのくせ、誰かから教わった学問の知識だけは、暗唱出来るくらいよく覚えている。
『今日はトレーニングも剣術修行もなし。明日は学校に入る手続きがあるからね。のんびりしよう。それでいいかな?』
食事を終えると、ジョゼはそう告げた。問いかけだったが、シフォンは命令として受け取ったので、頷く。スケジュール通りにいかない日は、これまでもしばしばあった。別段憂うものでもないし、憂いの感情もない。
『魔物の時間になったら、シフォンは眠るといい。おじさんは戦ってくる』
町や村に宿泊するときの、いつもの行動だった。カマルはジョゼの助力を必要としない程度には戦力の整った土地だったが、それでも彼が夜間防衛に参戦しようとしているのは、ひとえに、性格ゆえだろう。守られるよりも守ろうとする。過剰なほどの魔力で魔物を引き寄せて戦うのは、彼の体質上やむを得ないことではあったが、結果として他の人々に訪れたかもしれない悲劇まで吸い寄せ、討ち果たすことへの喜びはあった。
『シフォン。約束はちゃんと覚えているかい?』
覚えていたので、頷いた。ジョゼが倒れたら、手紙と小袋を誰かに渡す。その約束事に新たなルールが加わったのは、イフェイオンからカマルへ向かう途中で休憩したときのことだった。もともと持っていた手紙と小袋に加え、カトレアの用意した願書一式と、同じく彼女から貰ったもうひとつの小袋も一緒に渡す。それも、王都内の学校まで行って、そこにいる大人に渡すことになっている。ジョゼは王都の東門から学校――魔具訓練校までの地図を書いてくれた。付け加えて、もし道が分からなくなったら誰かに聞くように、とも。
もちろん、このルールは明日には消えるものだった。ジョゼはまだ自分が死なないことを体感していたし、注意して過ごせば、もうしばらくは王都でシフォンと生活出来るだろうと踏んでいた。故郷に帰るのは約二十年ぶりになる。遍歴の旅で懐郷心に駆られることはなかったが、王都に戻ると心に決めてしまえば、懐かしさが心に染みていく感覚になった。
ただ、長くはないことも、ジョゼは悟っている。カトレアとの対話で、それははっきりとした。あれだけ彼女が引き留めようとしたのだから、嫌でも分かってしまうというものだ。しかし彼女を恨む気など毛ほどもない。むしろ、死期の輪郭がくっきりとしたぶん、常より持っていた覚悟がより強固になった気さえした。だからだろう、食後、ジョゼはシフォンにこんな会話を投げかけた。
『シフォン。大事な話がある。覚えていてほしい話だ』
シフォンは相も変わらず無表情だったが、視線はジョゼにしっかりと向けた。
『これからシフォンは、色んな人に出会ったり、色んな出来事を経験する。今までよりもずっと複雑で、よく分からないことがたくさん待ち受けてる』
ジョゼがそう言うのなら、そうなのだろう。だからシフォンは頷いた。
『もしなにかに迷ったときは、自分が正しいと思ったことをするんだ』
『正しい、が分からない』
正誤の判断など、シフォンには出来ない。それはジョゼもよく知っていることだった。だから彼は少しの間だけ目を瞑って、『いつか分かるときが来るかもしれない。今は分からなくても、おじさんの言葉だけは覚えておいてほしい』と補足する。
『なにが正しいのか判断出来ないときには、正しいと思える人の言葉を信じて、進めばいい』
シフォンは彼の言葉に対し、はっきりと頷いた。彼女のなかで、信じる、が、従う、に変換されたことをジョゼは知らない。服従からの連想で、正しさ、が、強さ、に変換されたことも。
強い者に従えと言ったのが誰だったのか、シフォンは覚えていない。ただ、これで、自分では正誤の判断など出来なくとも、誰が正しくて誰に従うべきなのかは理解出来た。言うまでもなくシフォンの曲解でしかなかったが、それは誰にも正せない類の誤解である。
やがて夜が深くなり、ジョゼは出かけていった。シフォンはというと、彼の指示通り、とりあえずベッドに入って目を瞑った。ちなみに、彼女はエストックを買い与えられて以来、寝るときもそれを背負っている。折れるぞと注意されてからは、仰向けではなくうつ伏せで眠るようになった。なんのためにそんな習慣が生まれたのかは、彼女自身にも分からない。ただ、約二年間のジョゼとの生活のなかで、彼女が自発的に身に着けた数少ない習慣のひとつだった。
窓外が騒がしくなったのは、それから半時間も経たないうちのことである。飛び交う叫び声の断片を拾い集めるに、大型の魔物が出たらしいと、シフォンにも分かった。ただ、自分がなぜジョゼの言いつけを破って宿屋の外に出たのかは不明である。単に、騒がしくて眠れなかったからかもしれない。
ジョゼの放つ光は、遠くからでも感じ取れた。彼のそばに巨大な別種の光――魔物の気配――があることも。ジョゼの光は、町から百メートルも離れた地点にあった。シフォンはぼんやりと、そちらへ足を運んでいく。なにも考えずに。なにも思わずに。ただ両足を規則的に目的地へと運んでいた。
町を出ると、ささやかな林が広がっている。シフォンは木々を避け、藪を突っ切って、進み続けた。途中で倒壊した木々や、いくつかの死体を目にしたが、なにも感じなかった。実のところ空気には焼け焦げる臭気が漂っていたのだが、彼女の嗅覚は機能していないため、それに気付くことはない。
やがて林を抜けると、ジョゼの光が視えた。それは食事のときよりも遥かに強くなっている。彼の眼前の魔物がちっぽけに思えてしまうくらい。
ジョゼが相手取っている魔物を、シフォンは知っていた。というより彼女は、王都で把握されている魔物に関して、すべての種類と生態を網羅している。
ケルベロス。三つ首の、巨大な犬の魔物。それぞれの首から火炎を吐き出し、動きは機敏で、皮膚は硬い。知性こそないが、キマイラよりもずっと生命力がある。そして弱点らしい弱点を記した書物は、シフォンの読破した限りでは存在しなかった。獰猛で強力な魔物。どの本でもそんな文言ばかりが踊っていた。
ケルベロスの周囲に魔物は存在しなかったが、暗闇の先で様子を窺っている別種の光――魔物が控えていることにも、シフォンは気付いていた。
魔犬。ケルベロスほどの巨躯は持たないものの、一般的な大型犬の倍ほどの体躯を持ち、鋭い牙で獲物を食らう。ケルベロス同様に獰猛とされているが、より大型の魔物がいれば大人しく様子見をする習性があるとされている。この場合も例外ではなかった。ジョゼと対峙するケルベロスを、随分と遠巻きに見つめるばかり。不幸中の幸いと言えば聴こえはいいが、不幸自体があまりにも強大だった。
前進して刺突し、強靭な爪を掻い潜り、腹部への連撃を入れ、巨体による圧殺を回避し、後ろ脚を突き刺し、放たれる火炎を跳躍して避ける。一連のジョゼの動きには、一切の乱れがなかった。強敵を前にした怯えや気負いはなく、さながら演舞のように敵の身に傷を負わせていく。しかしレイピア一本で楽に討てる魔物ではなかった。致命的な一撃一撃を回避し、ほんの少しずつ敵の命を削っていく。そんな途方もない戦いが繰り広げられている。加えて、ケルベロスの火炎には魔力が宿っていた。どれほど上手く避けようとも、ジョゼの身体は否応なくそれを吸い込んでしまう。
ジョゼがシフォンの姿に気付いたのは、すぐのことである。苛烈な戦闘を演じながらも、その目は確かに少女を捉え――。
『シフォン! 町まで逃げろ!』
それは確かに、命令だった。提案でも質問でもなく。洞窟での一事とは違って、逃げる場所まで明示されている。ジョゼの言葉は、シフォンの耳にもちゃんと届いていた。
ただ、少女が踵を返すことはなかった。シフォンの両目はまっすぐに、ジョゼを見つめるばかりである。
どうして従わなかったのか、シフォンにも分からなかった。呆気に取られたわけではない。恐怖したわけでもない。そもそも、それらの感情は持ち合わせていないのだ。ジョゼのそばを離れたくない――という想いですらない。正体不明のなにかが、彼女をその場に留まらせたのだろう。
見る者によっては、それは意志に映ったかもしれない。
ジョゼは戦闘を続けながら、シフォンの様子も見ていた。彼は少女のことをおおむね正確に理解している。最初の一回目は必ず失敗し、二度目は成功させること。眠るときの姿勢はまっすぐの仰向けで、エストックを与えてからはうつ伏せに変わったこと。二時間きっかりで目を覚まし、寝ぼけた雰囲気など一切見せないこと。喋れるようになったこと。絶対に食事を残さないこと。町の名前や草花の名前は覚えていても、人の顔と名前を覚えるのが不得手であること。どんなにまっすぐ整えようとしても、髪は頑固に外側にハネてしまうこと。自己主張をしないこと。身体に無数の傷を持つこと。昔のことを、ほとんど覚えていないこと。
感情と思考を持たず、したがって意志もまた、持っていないこと。だから、人の言うことには逆らわない。
ジョゼの口元に浮かんだ柔らかい笑みが、シフォンの目に映った。火炎に煌めく、何滴かの涙も。彼が笑いながら涙した理由をシフォンは知らないし、分かることもない。
『シフォン!』呼びかける声は、最前よりも随分と丸みを帯びていた。『今は、そこで見ていてくれ。でも、決して手出しはしないこと。おじさんとの約束だ。あと、危なくなったらちゃんと逃げるんだぞ』
『分かった』と返したシフォンの声は、はたしてジョゼの耳に届いただろうか。ケルベロスの咆哮にほとんど掻き消されてしまっていても、彼女の声を拾えただろうか。
それから、ジョゼの動きはより激しく、鋭さを増した。当然だろう。死ぬ気で守るべき命がすぐそばに立っているのだから。
やがて援軍の兵士や魔術師が駆けつけたが、ジョゼは彼らの援護を固辞した。他の方角を守るよう厳命したのである。カマルの守護者たちは、決して軟弱ではない。通常であれば、部外者が自分たちの代わりに戦うなど、誇りが許さなかっただろう。しかし誰ひとり、ジョゼの言葉に反する行動を取らなかった。ひとつには、敵があまりに強大だったことが挙げられる。しかしそれ以上に、もはやケルベロスを圧倒するかのごとく熾烈な剣術を見せる男の気魄に呑まれたのだ。ゆえに援軍の多くは別方面の守護へと駆けていき、わずか数名だけが、この戦いを見届けるかのように呆然と立ち尽くした。
どのくらい時間が経過しただろう。その場の誰にも定かではないが、長いこと戦っていたのは確かである。敵の胸に深々と突き刺したレイピアが引き抜かれ、怪物の巨躯が崩れ落ち、その身が霧散した。
ジョゼが仰向けにばったりと倒れるのと、シフォンが彼へと駆け寄ったのは、ほとんど同時だった。ジョゼはこの戦闘で一撃も食らうことはなく、体力を使い果たしてもいない。ただ、その身に宿った光は、今や周囲のあらゆるものを照らすほどに強烈で広範だった。
ジョゼのそばまでたどり着いたシフォンに、彼はニッコリと笑いかけた。
『シフォン』
呼びかける声は、相変わらず丸っこい。
『ここでお別れだ』
涙の名残りなど、どこにもない。
『おじさんはこれから、遠い場所まで旅に出る。残念だけど、一緒には行けないんだ』
勇姿の影もない。
『シフォンは明日、王都に行くんだ。学校に入って、しっかり勉強するんだぞ。でもお前は真面目だから、思いっきり遊ぶくらいがちょうどいい』
哀しみなど、微塵も表さない。
『シフォン』
急激に光が弱まっていく。
『おじさんと一緒にいてくれて、ありがとう。楽しかった』
やがて彼の身から、すべての光が失われた。満足気な笑みだけが、そこに残っている。
その瞬間にジョゼが事切れたことが、シフォンには分からなかった。光がないことは死を意味しない。カトレアだって、光がなかったのだから。
本来であれば、シフォンはずっと、ジョゼを見つめ続けただろう。ただし、夜はまだ終わっていない。遠巻きに様子を窺っていた魔犬が、一斉にシフォンへと――あるいはジョゼへと――飛びかかったのである。
やや前傾し、背負ったエストックを抜き去り、一体目の魔物を木端微塵にするまで、わずか数秒のことだった。それだけの剣戟速度をシフォンが見せたのははじめてだったし、彼女も意識してやったことではない。倒すべき敵がおり、自然と身体が動いていたというのが正しいだろう。あるいは、休眠状態から無理やり目覚めさせられ、再び深い眠りについた筋肉が、ようやく覚醒したとも言い換えられる。
近寄る魔物を蹴散らしていても、シフォンの耳ではジョゼの最期の言葉が繰り返し響いていた。
何度も。
何度も。
やがて朝陽が昇り、大地を染め上げ、残存する魔物が霧になって消えるまで。
『ジョゼ』
暁を浴びて横たわる男に、シフォンは視線を落とした。
『どういたしまして』
何度も耳の奥で鳴っていたジョゼの言葉が、その返事とともに、ふっつりと絶えた。
夜明けの光に満たされたその瞬間、シフォンがちょうど十一歳の誕生日を迎えたことを、誰も知らない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ケルベロス』→三つの頭を持つの魔犬。機動力が高く、火炎を吐く。詳しくは『286.「魔獣の咢」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『魔犬』→黒い体毛を持つ凶暴な魔物。一般的な大型犬の倍ほどの体躯を持ち、鋭い牙で獲物を食らう。ケルベロス同様に獰猛とされているが、より大型の魔物がいれば大人しく様子見をする習性があるとされている。詳しくは『286.「魔獣の咢」』にて




