幕間「或る少女の足跡⑨ ~空の蓋~」
『まず、簡単な自己紹介をしよう』
シフォンは遍歴の戦士――ジョゼの持つ馬の上で、前方の景色を眺めていた。手綱は後ろのジョゼが握っている。彼女の荷物もまた、彼が背負っていた。
秒間数体の速度で出現するグールや子鬼を器用にかわして馬を操るジョゼの手捌きは、夜間の行軍に慣れきっていることを示していた。
『さっきも言ったが、おじさんの名前はジョゼだ。今年で三十四歳。王都――でっかい街の生まれで、そこの学校で魔術を勉強してたんだが、ずっと前に辞めた。それ以来、色んな土地を回って暮らしてる。弟も魔術の学校に行ってたんだが、おじさんよりも優秀だった。きっと今頃きっちり魔術師になって、どこかの町や村を守ってる』
ジョゼの言葉は誇らしげで、なんの後ろ暗さもなかった。シフォンがそれについてなにか感想を持つことはなかったが。
『お嬢ちゃんは――いや、シフォンちゃんは……違うな、なんて呼べばいい?』
ジョゼはそんなことを訊ねたが、シフォンは首を傾げるばかりだった。今まで呼び方についてどうこう訊かれたことはないし、どう呼んでほしいという気持ちもない。気持ちというものすらない。
『そっか、喋れないんだった。ごめんな。とりあえず、じゃあ、シフォンって呼ぶことにする。それで良ければ、頷いてくれ』
なんでも良かったので、シフォンはとりあえず頷いた。馬上のジョゼはそれで満足したらしく、『よし、よし』と呟いている。
『ところでシフォンは何歳なんだ?』
彼女にも指を折って数えて見せることは出来る。が、自分が何歳なのかは分からなかった。
シフォンにとって、時間というものは絶えて久しい。過去は死に、未来は漆黒の闇のなか。ただ現在だけがあった。朝陽が昇って、沈む。それの繰り返しを数えることなどしなかったし、誰も教えはしなかった。いや、かつては彼女の年齢を教えてくれる存在はいたのだが、それが誰であったのかも忘れてしまったし、そこから何日経過しているのかも知りようがない。だから、首を傾げることしか出来なかった。
『そうか……分からない感じか。ま、年齢なんて些細なもんだ。気にしなくていい』
言われずとも、気にすることはなかった。なにかを気にしたことなどないのだから。強いていえば、命じられたことをまっとうする意識はあったものの、思考や感情を介さないそれを、気にする、という状態で示せるものか、甚だ怪しいものである。
『――おっと、グールに囲まれたな。しかもキマイラまでいる。シフォンは馬の上から動かないこと。いいね?』
シフォンの頷きを確認すると、ジョゼは歯を見せてにんまりと笑み、魔物へと向かっていった。まずは周囲のグールの心臓部を正確にレイピアで突き、次にキマイラを相手取りながらもグールの相手も怠らなかった。まったく危なげのない戦いと言っていい。キマイラの突進を優雅にかわしつつ、グールを五体ほど撃破する。キマイラの爪を回避して懐に潜り込むと、息もつかせぬ連撃を見舞う。怯んだキマイラが後退する前に後ろ脚を穴だらけにし、崩れ落ちる身体から脱出する。それからは前脚、胴体の順に刺突を叩き込むと、キマイラは蒸発した。
ひと晩にキマイラが二体も出現する事態は、シフォンのはじめて経験する状況だった。魔力の大きさが魔物を誘引する事実は、彼女も知識として知っている。自分が今まで目にしてきた光が魔力なのだと、彼女は直感した。
『さて』馬上に戻ったジョゼは、何事もなかったかのように話した。『今後のことを相談しよう。二人旅だ。何事も仲間の意思を尊重しながら進めるべき。そうだろう?』
首を横に振る。シフォンは意思など持ち得ない。
ジョゼとて、メアリーの言葉を忘れたわけではなかった。信じていないわけでもない。だとしても、少女を無理やり引っ張っていくのは彼自身の道義に反していただけのことだ。とはいえ、シフォンに意見がないのなら、どうにもしようがないのも事実である。
『そうか。まあ、それじゃあ、とりあえずはおじさんが色々アイデアを出してみよう。まず陽が昇ったら、次の村で宿を取って仮眠する。で、その日の夜におじさんが魔物退治をして、ちょこっとお金を稼ぐ。出発は次の昼。さすがにおじさんも徹夜はキツいからね』
その次の村には夜に到着してすぐ宿を取って、魔物退治をして、また昼に出発。基本的にこのルーティーンで路銀を稼ぎながら西へと向かうのはどうかと、ジョゼは訊ねた。シフォンに異論などあるはずもない。
かくして、二人旅がはじまった。
ジョゼはおおむね、どの村でも歓迎された。なにしろ腕がいい。性格も明るくて親切。それに、彼の来る日は決まって、村の自警団や魔術師でもなかなか手に負えない数の魔物や、あるいは珍しい大型魔物が出現するのだ。それをキッチリ仕留めるものだから、感謝されるのは当然だろう。
見る者が見れば、魔物の量と質の上昇はジョゼの魔力に起因することは看破されるだろうが、王都から離れた田舎では魔力が視える者は皆無と言っていい。魔力と魔物の相関性についても無知なケースが多かった。町程度の規模になると、常駐の魔術師から眉をひそめられることもしばしばだったが、ジョゼの実力は出現する魔物を完全に上回っている。それゆえ、魔物の大量出没がジョゼによるものだと悟っていても、口を噤んでくれる魔術師がほとんどだった。なにより、魔術師としては仕事が格段に楽になるのだから、ジョゼの来訪を快く思うばかりである。
シフォンはというと、宿屋でぼんやりしている時間が多くなった。勉強道具がないので、勉強の時間が持てない。ただ、トレーニングの時間になると、きっちり種目をこなしていった。懸垂出来る場所がなければ、他のメニューやランニング、あるいは短距離走に時間を費やす。はじめはジョゼも驚いたのだが、シフォンが、スケジュール、とひと言だけ紙に書いて伝えると彼は納得した。『無理はするんじゃないぞ。あと、怪我しないようにな』と言って。当然、はじめて彼女の生活を目にする村人には奇異に映ったが、ジョゼはその度に説明を繰り返し、村人の好奇の目から彼女を守ってやった。むしろ、村人が進んで見守ってくれるよう、彼女への理解を深めてやったと言うほうが適切かもしれない。そのために貴重な睡眠時間を削るのは、彼にとって苦ではなかった。シフォンの理解者を増やすことで、彼女が安心して生きていける場所を、ひとつでも多く作ってやりたかったのだろう。
ジョゼの親切心は、旅の道々で発揮された。泣いている子供を見れば絶対に放っておかないし、重荷に苦労している者がいれば、自分の都合など度外視して手を貸す。飢えに苦しんでいるであろう子がいれば、自分の分の食事を抜きにして、パンを与えたりした。もちろん、シフォンに与える食事を欠かしたことはない。
そして、ただ親切で素朴なだけの男でもなかった。
ある日、着替えている途中のシフォンを偶然目にしてしまって、すぐに顔を背けたのち、『シフォン。もう立派なレディなんだから、着替えるときはドアに鍵をかけたほうがいい。おじさんからの、ありがたーい忠告だよ』なんて冗談じみた口調で告げたことがある。子供の負った無数の傷を目にして、そんなことを口に出来る男がどれだけいるだろう。彼女の傷に対し、無遠慮に立ち入ることを、自分にも他人にも許しはしないと暗に示せる男が。
旅程の都合上、立ち寄れる村や町がなく、野営することもあった。魔物が出る前、夜が深くなるまでの時間、ジョゼはよく横たわって空を仰いだ。
『シフォン。横になって空を見てみないか?』
ジョゼの言葉は提案なのか命令なのか区別がつかない。だからシフォンは、無意識に提案であれなんであれ、彼の言う通りにするようになっていた。
その日は林の外れにある草地での野営で、夜になっても下草は真昼の温度をいくらか蓄えていた。
『夜空はいいものだ。おじさんはな、よくこう思うんだよ。夜になると空の蓋が取り外されて、ずっとずっと果てまで見えるんじゃないかって。それが世界の本当の姿なんじゃないかって。夜空の下では、自分が随分ちっぽけな存在に思えてくる』
ちっぽけでも、生きている。生きてていいんだって、思える。
ジョゼはそんなふうに続けた。
生きていることは状態でしかなくて、夜空とも、ましてや世界とも直接の繋がりなんてない。そんなふうにシフォンは感じた。もちろん、迂遠な思考など介さず、直感として。ただ、自分が小さいという感じは、どうしてか理解出来た。そこに論理はない。論理は、考える力を持つ者が拵える誤謬まみれの道のりであり、あるがままを受け取る力に対しては、ときとして遠く及ばない。
『それにな、星は綺麗だ。シフォンもそう思わないか?』
『思わない』
隣で、ジョゼの息を呑む音がした。
シフォン自身、なぜこのとき、蚊の鳴くような声であれ、言葉を発することが出来たのか、まったく分からなかった。首を振るでもなく頷くでもなく、声が出ていた。
ジョゼはしばらく無言だったが、やがて『そっか。思わないか。それでもいい』と、溢れそうになるなにかを押し留めるような、そんな具合で呟いた。
彼と一緒に旅をしてから、もう半年になる。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。精神は『鏡の森』で生きている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照