幕間「或る少女の足跡⑦ ~強い注射~」
『このことは、メアリーには内緒にしてくれたまえ。いいね?』
診断室のベッドに裸で横たわったシフォンは、例のごとく首を縦に振った。
メアリーは今朝から町に買い出しに出かけている。戻るのは昼頃になるだろう。メアリーと同居するようになっても毎朝の注射と採血、魔術による全身の診察は続いていた。だから、内緒に、という言葉が普段以上にシフォンには分からなかった。
『先に言っておくとね、今回の注射はかなり強力な奴なんだ』
曰く、麻痺毒を持つ微睡草という植物の特定の成分を抽出し、濃縮させ、そこに浸透剤のごとく魔力を混ぜ込んだものらしい。王都の歓楽街には水蜜香なるドラッグが横行しており、恍惚と酩酊をもたらす代物として認知されている。その原料が微睡草なのだ。水蜜香には何段階かの副作用があり、そのひとつに肉体の活性化がある。ビクターの抽出したのは活性化をもたらす成分だった。単に濃縮した薬液を注入するだけでは一過性の効果しかないが、魔力を織り交ぜ、それを浸透させるわけである。一度浸透した魔力は被験者自身の魔力と混交し、活性化の維持を半永久的なものとする。ビクターの見立てでは、だが。
ビクターはシフォンの両手足の付け根を拘束具でがっちりと固定し、まずは右腕に針を刺した。
注射液がどんどん減っていく――つまり自分の身体に注入されていくのを、シフォンは黙って眺めていた。なんの感慨もなく。
『メアリーが外出するのも、そう頻繁ではないからね。四肢全部にやってしまおう。なに、失敗はない。安心したまえ。といっても、君に不安などないだろうが』
そんなことを言いながら、ビクターは次々と注射をしていった。両腕と両足。計四本の注射器が空になった頃、右腕に異変があった。
ぐにゃぐにゃと、のたうつように動いている。シフォンが意識してそうしているわけではない。勝手に動いているのだ。じき、左手と両足も、不安定な蠕動をはじめた。
『素晴らしい! 見立て通りだ! 君の筋肉はこれで活性化された。長い眠りからの解放だよ! これ以上筋肉はつかないだろうが、運動能力は飛躍的に上がる。私が保証しよう。これで大型魔物にも――』
ビクターが言葉を切ったのも無理はない。シフォンの両手足は、関節を破壊するかのごとく激しい動きへと移行していたのである。当の本人は自分の手足の異常に戸惑うことはなかったものの、激痛に苛まれていた。決して痛みが表情に表れることはなかったが、永遠に終わらないかのような、皮下を食い破られる苦痛は現実のものとして存在したのである。
『これは少し異常だね。収まる気配もない』
ビクターの声は冷静そのものだった。珍奇な動物でも見るような、そんな眼差しである。
それから数分間、ビクターはじっと様子を見ていた。それからようやく、魔術で彼女の両手足を固定し、壊滅的な運動は収まったのである。
『しばらくはギプスをつけよう。鋼鉄製がいいだろうね。大丈夫。こんなこともあろうかと用意してあったんだ。しばらくは横になって過ごすといい。今は筋肉が寝起きの状態で、きっと混乱しているんだろうね。そのうち薬が浸透して、自由に手足を動かせるようになるよ。多分』
ビクターは疑いようもなく、優秀な科学者である。魔術訓練校在籍時から、首席の名をほしいままにしていた。そして、ごく個人的な魔物研究で、第一線の研究者の鼻柱を折ったこともある。魔道具の設計・製造もお手の物で、魔術についてもひと通りの知識と、実践的な能力も持ち合わせている。理論にもおおむね綻びはない。そんな男の口にする、多分、がどれほど不吉なものかは、多くの者が理解出来るだろう。シフォンを除いて。
帰宅したメアリーが、手足を縛められたシフォンの姿を見て激怒したのは言うまでもない。
『なんでこんなひどいことするの!?』
『シフォンには特別な能力があるのさ。この幼さでグールを捕獲出来る力は、君も知っているだろう? しかしながら、彼女の筋肉はほぼすべて休眠している。これを目覚めさせれば、大型魔物にも簡単に対応出来る。それも、魔術や魔具なんていう小細工なしに、純粋な肉体の力でだ。そうなれば、より多くの種の魔物を捕獲出来ることになる。私の魔物研究も進む』
『……自分の研究のために、子供を犠牲にしてもいいと思ってるのね』
『シフォンは犠牲なんかじゃない。私の大切な助手だ。それに、私の研究を否定するのなら、私の描く未来も遠ざかってしまう。いいかい、メアリー。君だって、魔物に怯える日々を抜け出したいと思っているんだろう? 全人類がその恵みを享受出来るよう、願っているはずだろう? だったら、踏み越えるべき倫理観はあるんじゃないかね? 犠牲という言葉に拒否反応が出てしまうなら、礎と呼べばいい。もっとも、シフォンは礎などではないがね。彼女は未来そのものだ』
ビクターの言葉の途中でメアリーは泣き出し、崩れ落ちた。そんな彼女の精神構造をシフォンが理解出来るはずもなく、ただ黙って天井を眺め、ひとりの嗚咽とひとりの饒舌を耳にし、手足の絶え間ない痛みを感じ続けた。
痛みが引いたのも、ギプスが取れたのも、それから一週間後のことだった。
朝の診断で、ビクターはひどく失望していた。というのも、シフォンの筋肉が再び休眠状態に戻ったと言うのである。
『魔力の定着具合が悪かったのかもしれない……いや、配分はこれ以上なかったはず……ではなにか……被験体自身が無意識に非活性化を選んだ……? それとも、活性剤が浸透するまでの一時的な状態なのか……?』
ぶつぶつと言っていたビクターだったが、『ともかく』と表情を繕った。『トレーニングは続けなさい。いいね? メアリーの都合でスケジュールが変更されるのは仕方ないが、君自身の身体の問題でもある。なに、きっと良くなる』
なら、今は良くないのだろうか。そんな疑問さえ、シフォンの頭に浮かぶことはなかった。立ち上がると、手足に少しだけ違和感がある。長期間固定されていた名残なのか、それとも薬液のせいなのか、判別するすべはなかった。
メアリーは、シフォンがギプスで身動きできなくなっている間も、拘束が解かれて自由になってからも、足繁く彼女の私室に現れた。ビクターと同じく白衣をまとった姿は学者然としていたが、表情は常に柔和で、シフォンにかける言葉や態度も同じく柔らかかった。
『わたしになにか出来ることはない?』
何度もそう言われたが、シフォンはなんと答えていいのかも分からず、ただ首を傾げるばかりだった。
ビクターに強力な注射を射たれてから、グールの捕獲をメアリーが行うようになったのも、シフォンには謎である。自分のときとは違って、メアリーを必死で守ろうと防御魔術を施すビクターの態度も、分からなかった。
ビクターとの共同研究でほとんど睡眠も取れていないのに、三食必ず手作りして、栄養バランスがきちんと整っていたことも、少女は知らない。
好きな料理は何かと訊ねられて、首を横に振ったときのメアリーの苦笑の意味も分からない。
ときには、シフォンが寝付くまでそばにいたこともある。
髪を切ったときには、鼻唄を歌っていた。この髪型が丁度良い、似合ってる、外側にハネちゃうのは仕方ないわね、と告げたのも、理解出来なかった。
耳のあたりまで切られた銀の髪を鏡で目にしたとき、シフォンはなんにも思わなかった。それまでぼうぼうに伸ばし続けていた髪とは違っていたが、鏡が映すその姿は、髪を切る以前も以後も、自分だというようには見えなかった。町で擦れ違う人の印象に似ている。次の瞬間には忘れている。
『とりあえずは魔物の血液維持と、その成分に関する論文が完成した。明日の朝、王都まで届けに行く予定だ。もちろん、私たち三人でだよ。たまには気晴らしも必要だからね』
ビクターがそう言ったのは、夕食時のことだった。彼のもとでシフォンが生活をはじめて、二年近くになる。彼女は九歳になっていた。
『いいわね、観光』
そう言って、メアリーはシフォンに目配せしてみせたが、それがなんの意味なのか、彼女には分からなかった。
が、次のビクターの言葉で食卓は凍りついた。
『魔物の血液と人間の血液の癒着に関しても、理論は完成している。これはもう少し温めてから発表しよう。なにせ、頭の硬い連中には空論扱いされるだろうからね。実地検証してからでないと話にならない』
食器が激しく音を立てた。
『それって、どういうこと? シフォンに魔物の血を打つってこと?』
『いや、まだその段階ではないさ。とりあえずは採取したシフォンの血と魔物の血を混ぜ合わせて様子を見る。それで問題なければ、本式に実験する。……シフォンは今以上に強くなるだろう。一度は吸収された活性剤も効力を取り戻すかもしれんね。血族さえ屠ってしまえるかもしれん』
メアリーは立ち上がったまま絶句していた。ビクターは平然とサラダを口に運んでいる。シフォンは一連の会話を他人事として聞き流し、魚のすり身を団子状に丸めた料理を咀嚼していた。
『ビクター。あなたは、この子の人生のこと、考えてあげてるの……?』
『もちろん。シフォンの人生は人間の未来そのものだ。誰かが導いてやらなければ、人類を照らす明かりにはなれない』
『……ねえ、ビクター。わたし、あなたのことを愛してるの』
『ありがとう、メアリー。私も君を愛してる。誰よりも深く』
『……あなたの愛を、少しだけでもシフォンに向けてあげて』
『なにを言っている? 私はシフォンのことも愛してる』
『それは実験体としてでしょう!? わたしと同じように、愛してあげてほしいのよ……』
シフォンは食事を終えて、私室に戻った。勉強の時間だったから。
その晩遅く。シフォンが寝入る直前に、ドアが開いた。白衣ではなくコートを来たメアリーが、廊下の光を受けて佇んでいる。
『シフォン。今すぐ着替えて、わたしと一緒に来て』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。精神は『鏡の森』で生きている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照
・『水蜜香』→微睡草と呼ばれる、麻痺毒を持つ植物を刻んで干したもの。燻した煙を吸引することで、酩酊状態に誘う。中毒性が強く、量を誤れば廃人となる場合も。『煙宿』で生産された水蜜香が、王都の歓楽街に密輸されている。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて
・『微睡草』→麻痺毒を持つ植物。『水蜜香』の原材料。詳しくは『393.「甘き煙の宿場町」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔術訓練校』→王都グレキランスで、魔術的な才能のある子供を養成する学校。魔具訓練校とは違い、卒業後の進路は様々
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて