幕間「或る少女の足跡⑥ ~メアリー~」
三人での食事を終えると、シフォンはスケジュール通り、歯磨きと水浴びを終えて私室で勉学――書物の暗記――に励んだ。
シフォンの関知するところではないが、食卓での会話は当たり障りのないものだった。ビクターが料理下手であることをなぜかメアリーに謝られたが、意味は分からない。明日からは食事も家事もやるので安心してくれていい、とも彼女は言っていた。ビクターは苦笑ひとつ浮かべず、そんなメアリーをうっとり見つめるばかりだった。
不意にノックの音がしたが、シフォンは反応しなかった。ノックが意味するところが分からなかったし、どう反応すればいいのかも分からなかった。
やがて『失礼します、邪魔しちゃったかしら?』と言いながらメアリーが部屋に現れても、別段なにも反応しなかった。邪魔された感覚はない。
『お勉強熱心なのね』
『髪も切ってあげなきゃ……きっと短いほうが似合うわよ』
『その服、ビクターが買ったんでしょう? あの人センスがなくって……』
『そうだ、好きな食べ物はあるかしら?』
彼女の言葉のほとんどは、どう反応していいか分からなかった。好きな食べ物についてもそうだ。好きも嫌いも、今のシフォンにはない。
それから急に、メアリーは声を潜め、気落ちしたような様子で呟いた。
『ごめんなさいね、シフォン。あの人、きっとあなたにひどいことをしたでしょう?』
首を傾げて見せる。するとメアリーは、沈痛な面持ちで目を瞑った。
『あなたが水浴びしてるところ、少しだけ覗いちゃったの。本当にごめんなさい……。傷のことはビクターの手紙で知ってたわ。でも、縫ったばかりの傷はそうじゃないでしょう……?』
そう言って、彼女は両手で顔を押さえた。小さな、押し殺した嗚咽が漏れる。
ビクターと二人で過ごした日々のことは、彼の恋人――つまりはメアリーに内緒にするよう命じられている。だから、なにも伝えるつもりはなかった。が、その必要はなかったらしい。具体的なことはさておき、この一年間シフォンが味わった日々が決して人道的ではなかったことを、メアリーは見抜いていたのだろう。おそらくは、シフォンをサンプルと呼んだ瞬間には。確かに、少女に課せられた諸々のことは、八歳の少女には過酷と言って差し支えないだろう。ただ、なんとも思っていないだけで。
ひとしきり涙すると、メアリーは顔を上げ、ぎこちない笑顔を見せた。
『もし辛いことがあったら、わたしに言ってね。ちゃんと、やめさせるから』
辛い、という感情もシフォンにはない。したがってメアリーに頼ることは金輪際ないだろう。
去り際、彼女はぽつりと、雨滴のように言葉を残していった。
『それでも……ビクターのこと、恨まないであげて』
当然のごとく、シフォンには無意味な言葉だった。
メアリーがビクターの目指すところを強く信じていることも、しかし一線は越えさせまいと固く自身に誓っていることも、シフォンは知り得ない。
しばらくの間、シフォンが夜間戦闘に駆り出されることはなかった。といって、メアリーがその任を負っていたわけでもない。ビクターはもっぱら魔道具の製作に打ち込んでおり、メアリーもそれを補助していたのである。
夜を維持する装置。のちに、魔霧装置と呼ばれるものだ。
『魔道具の密造なんて、見つかったら牢獄行きよ』
『そんなことはない。メアリー、君は王都の法をちゃんと学んだのかね? 研究の名目において試作は許されている』
『でも、試作まででしょう? 実際に使うとなったら認可が必要なはずよ』
『ご高説ありがとう。君の言う通りだ。事前に申請が必要となるわけだが……なに、王都の壁外まで役人の目が届くこともあるまい』
二人の会話を聞きながら、シフォンはぼんやりと佇んでいた。いつの間にか地下に作成した、実験室と呼ばれる場所に連れてこられたのである。どこで用意したものやら、壁も床も天井も、真っ白で硬質な素材で出来ていた。床には工具類が散らばり、魔道具の部品であろうものも、そこここに落ちている。
メアリーがやってきて、勉学以外のスケジュールは白紙となった。無論、ビクターの指示である。まだ幼い子供に何時間もトレーニングを行わせる様子をメアリーに見せるのは悪手と判断したのだろう。そして勉学も夜までの数時間に限られる。あとの時間はというと、ビクターのそばにいることだけを要求された。メアリーはしばしば『外で遊んできてもいいからね』と言い、ビクターはというと『とんでもない! シフォンは我々の大切な仲間だ』などと返す。そんな二人のやり取りを聞いていても、疎外感ひとつなかった。というより、なにも感じない。なにも思わない。
実のところ、メアリーはシフォンの精神状態をあらかじめビクターからの手紙で知っていた。感情も思考も失われてしまっている、と。ここ数日のコミュニケーションで、メアリー自身もそれをほとんど確信してしまっている。それでもシフォンに話しかけることはやめないし、頭を撫でたりだとかのスキンシップも見せた。いつの日か少女の心が氷解すると信じていたのだろう。
試作品が完成したのは、それから二ヶ月後のことである。その晩、シフォンは以前の通り、グールの捕獲に駆り出された。
『あんな小さな子に剣を持たせて、なにを考えてるのよ!』
メアリーはこの地にきて、はじめて激昂していた。ビクターはそれを宥めるでもなく、ただ短く『見れば分かる』と返すばかりだった。
メアリーも魔術の心得はある。いざとなればシフォンを守るだけの魔術は展開出来る。
しかし、その必要はなかった。
グールを発見してから四肢を切断し、枷を嵌め、邸まで持ち帰るまでの動作に一切の淀みがなかったのだ。何度も繰り返し、手慣れた仕事。そんな趣さえある。メアリーは結局、なにひとつ出来なかった。なにひとつ、する必要がなかった。ただ、シフォンの卓越した動きがなにに裏打ちされているのか分からないほど、メアリーは愚鈍ではない。何日も繰り返されたであろう、魔物捕獲の夜。その日々のなかで、シフォンが現在に至るまで途方もない傷を負ったに違いない、と。確かに傷を負った日はあった。しかしそれも、素手でグールを消し去った日だけである。それ以降はほとんど危なげなく仕事を完遂してきたことまでは、メアリーの想像の埒外だった。
その後、魔道具の稼働により、グールは翌日の昼を過ぎても消滅することはなかった。霧状に噴霧した魔力の内部で、肉体も血液も維持され続けたのである。ただ、装置を停止させると、グール本体も、採取した血液も、肉片も、一様に消えてしまった。
『血液を維持する装置を別に作る必要があるね』とビクターは事も無げに言う。さして驚きのある発見ではなかったのだろう。予期していたに違いない。
『どうして血液を維持するの?』
『なに、それが人間の血液とどれほど類似しているか比較するだけのことさ。血液の比較にはなにかと時間がかかるからね』
『……それを知ってどうするの?』
『魔物と人間の相似を確認する。そして、魔物の血と人間の血を混ぜ合わせた場合の反応も見る』
『だから、どうして?』
メアリーの度重なる質問責めに、ビクターは淀んだ目付きで返した。
『誰もが魔物と戦える肉体を持ったなら、魔物は人間にとっての天敵ではなくなる。つまり、夜を凌駕したことになるのだよ』
『……それってつまり、わたしたち人間を魔物に変えようとしてるってこと?』
『それは勘違いだ。魔物の力を持った人間。強靭な力と、君のように、豊かで愛に満ちた人間性の同居だ』
『……人体実験は絶対に駄目よ』
『実験ではない。人体の進化さ。なに、血液同士で充分にテストを行ったのちに、人体に投与する。失敗はない』
そこからは水掛け論だった。メアリーの訴えは、ビクターという科学者の前では空疎に響くだけなのだろう。
ここでビクターの研究に歯止めがかかれば、彼らが王都を追放されることもなく、したがって、のちに『最果て』――ハルキゲニアで悪夢が展開されることもなかったかもしれない。すべては、虚しい仮定でしかないが。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。精神は『鏡の森』で生きている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔霧装置』→魔力を分解し空気中に噴射させる装置。この霧のなかでは、魔物も日中の活動が出来る。また、グールの血を射ち込まれた子供を魔物にするためのトリガーとしても使用される。ビクターの発明した魔道具。詳しくは『146.「魔霧装置」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて