980.「摩天楼から天然要塞へ」
『煙宿』の中心に位置する摩天楼――『不夜城』の屋上は、かつては小さなあばら家がひとつあるだけのうらぶれた場所だった。今や、趣は異なる。簡素ではあるが石造りの小屋が点在し、常時数名がそこで寝起きしていた。ヨハンや、竜人のスピネルもそのひとりである。もちろんそこにはわたしも含まれるのだが、睡眠を必要としない肉体なので、厳密には『寝起き』していない。厚い霧のせいで見通せないことは承知の上で、血族の地と人間の地との境界線にあたる『毒色原野』の方角を向いて常時立っているだけだ。
『不夜城』の膝下にある大衆料理屋で働いているカシミール――かつて『マダム』と呼ばれる黒の血族の息子を自称していた男――が、何度かこの場所に足を運んでは料理を振る舞ったものだったが、近頃は姿を見ていない。おおかた、わたしの態度に失望したのだろう。ヨハンに命じられた『円滑なコミュニケーション』なるものを実践し、彼の料理を口にして感想さえ言葉にしたというのに、どうもがっかりした様子だったのを覚えている。理由は分からないし、今のわたしにとってはどうでもいいことだった。
「嗚呼、今宵も素晴らしい晴天なり! 魔術波は良好! 洗いたてのシーツのようじゃないか!」
甲高い男の声が靄の先に消えていく。声の主は確か、ナルシスという名である。王都から派遣され、『煙宿』に常駐することとなった交信魔術師らしい。元々騎士団で働いていたらしいが、顔も名前も知らない男だ。前線で戦う騎士と、王都の壁上や騎士団本部で情報伝達を担う彼らとでは役割が明確に異なるので、これまで一度も顔を合わせたことがなくたって不自然ではない。
「今宵も王都随一の交信魔術師があらゆる情報を網羅すると約束しようではないか、諸君!」
諸君、と言っているが、彼の言葉を言葉として耳にしている者はほとんどいないだろう。他者の心中など今のわたしに推し量れるものではないが、交代制で眠りに就こうとしている他の交信魔術師が舌打ちするのが毎夜のごとく聴こえる。
騎士団における交信魔術師のヒエラルキーは下位である。前線で命を散らす戦士と比較すれば、安全地帯で情報だけを届ける彼らが伝書鳩と揶揄されるのも違和感はない。それが、此度の戦争において重宝される立場になったのだ。浮かれるのも無理からぬことだろう。とはいえ、ナルシスはどう贔屓目に見ても生来の性格そのものな気もするが、まあ、どうでもいいことだ。
いつの間にかわたしの隣にはヨハンがいて、普段通りの不健康な顔を見せている。スピネルは寝ているか休んでいるかしているのだろう。『不夜城』での竜人の扱いに対し、当初は騒動に近い混乱が巻き起こったのだが、ヨハンが上手く立ち回ったようで、今は頂上での起居が許されている。そのあたりの詳しい事情はわたしには分からない。ひどくどうでもいいことだったので、すべてヨハン任せにしたのだ。今のわたしに誰かと平和的な交渉をするのは難しい。
「前線基地は今頃どうなってるでしょうねえ」
ヨハンが聞えよがしに呟く。
前線基地に簒奪卿が出現したとの報せが届いたのは数日前のことだ。血族の侵攻速度を鑑みれば異様に早い衝突である。簒奪卿がなんらかの特別な移動手段を有していることは容易に想像出来る。そして、前線基地の総隊長を任じているシンクレールが簒奪卿に敗北した報告も入っていた。
「王都は前線基地の方角に防備を固めているようですが、いまだに簒奪卿の部隊は到達していないようですなあ。すると、前線基地で足止めを食っているに違いありません」
分かりきったことをあえて言うヨハンに、わたしは沈黙を貫いた。彼との間に通常のコミュニケーションは必要ない。心が死んだことも知っているし、わたしが無駄を削ぎ落として生きていることも知っているからだ。
簒奪卿出没の報告に対し、ヨハンは一度わたしに水を向けた。行くのかどうか。
答えは否である。簒奪卿と直接対峙出来る状況ならまだしも、そうでないなら火中に飛び込むことになる。今のわたしが血族の群れに対してどこまで応戦出来るのか未知ではあったが、大軍勢に単身で切り込んでいくのは愚かだ。ゆえに、簒奪卿が王都に到達した段階で動くことに決めている。王都に配備された一定の実力者たちならば、血族の軍勢とも多少なりとも渡り合えるだろう。それでこそ、簒奪卿との一対一に近い構図が実現出来る。
そういえば、ヨハンはシンクレールのことも数日前に話していた。彼の敗北についてだ。なんとも思わなかったので、その通り返したところ、彼は目を瞑って首を横に振ったっけ。
ヨハンのリアクションがなにを意味しているのか、まるで分からなかった。前線基地の役割は、死んでも敵の戦力を目減りさせることにある。シンクレールと最後に会ったときにも、彼自身それを理解していた。
与えられた役割通り、死ぬ気で戦って、そして死んだ。
なにも不思議なことはない。以前のわたしは謎の後悔や痛みや哀しみを感じただろうけど、今となってはなにも感じないんだから仕方ない。
ヨハンはというと、シンクレールの死を信じているのかいないのかよく分からない。なぜか『もし次にシンクレールさんと会う機会があったら、生きてて良かった、と言ってあげてくださいね。いいですか。約束ですよ』なんて口にしていた。死者に会う方法は知らないが、まあ、とりあえずのところ承諾したことは記憶に新しい。
「もし前線基地が健在で、今も戦いが続いているとするなら、お嬢さんが乗り込むのも悪くないでしょうなあ」
「前線基地を敵が拠点にした可能性のほうが高い」
そう返すと、ヨハンは肩を竦めた。「シビアなご見解ですが、まあ、私としても異論はありません」
なら『乗り込むのも悪くない』なんて言う理由さえない。無駄なコミュニケーションだ。
わたしが霧の先に目を凝らしていると、不意に「ンンッ!」という雑音が耳に届いた。ナルシスだ。彼が交信魔術を受信すると決まって謎のリアクションをするというのは、ここ数日で学んだ事実である。
「前線基地より報告あり! これは――」
わたしが首を捻って、小屋の上に立つナルシスを見上げたのも自然なことである。彼は吐息を荒くし、身を仰け反らせ、恍惚としていた。日頃からわけの分からない男だが、ここにきて一層珍妙な様子を見せているのだから謎である。
が、彼がもたらした報告は確かに、奇妙奇天烈な動作を補ってあまりある重要なものだった。
「報告は三点! まず白銀猟兵は破壊される際に強烈な自爆を伴うっ! 嗚呼! 次に、王都から配布された剣には血族を憎悪する洗脳魔術が施されており、繊細微妙な作戦を損なう危険な代物であるっ! なんとっ! そして最後に、現在前線基地では血族も人間も壊滅状態であり、裏切りの勇者の懐刀である元騎士ナンバー2、嵐のシフォンが敵方として健在っ!!!」
最後の報告を聞き終えるや否や、わたしは踵を返した。背にヨハンの声が飛ぶ。「お嬢さん、どちらへ?」
分かりきっていることを聞かないでほしいものだ。無駄だから。それでも答えてしまったのは、わたしがまだ無駄を切り捨てられていない証明なのかもしれない。
「前線基地に行く」
眠りから叩き起こしたスピネルに全速力の飛行を依頼し、ようやく敵地へと降り立つと、奇妙なことにシンクレールがいた。てっきり死んだと思っていたのだけれど、どうやら敗北は死を意味していなかったらしい。
前線基地の大地に降り立ち、シンクレールを庇うようなかたちでシフォンと対峙することになったわけだが、そこでヨハンの約束を思い出した。
わたしには、どうやら言わなければならないことがある。
「シンクレール。生きてて良かった」
直後、背後から嘆息が聴こえたが、彼がなにを思っているのか知らない。知らない以上、考える必要性もない。
ただひとつ、彼が生きていて良かったのは事実だった。こうして討つべき敵と相まみえることが出来たのだから。
「ごきげんよう、シフォン」
そう口にすると、身の内にふつふつと、恍惚に近い感情の粒が湧き立つのを感じた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『不夜城』→『煙宿』の中心にそびえる塔のこと。富裕層や要人が住まう。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『スピネル』→二度目の『霊山』来訪で出会った、薄黄色の鱗の竜人。臆病で、長いものに巻かれる性格。クロエが無理やり『霊山』に押し入ったことにより、門番をしていた彼も裁きを受ける手はずになっていた。クロエが竜人の族長となったことで無罪放免となり、それから彼女を「至高の星」と呼んで心酔し、自ら下僕関係を望んだ。「至高の星」とは、竜人を含めた世界全部を良くする存在なんだとか。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『カシミール』→マダムの養子であり、レオンの弟。血の繋がりはない。粗暴な性格だが、料理の話になると打ち解ける。人形術により自身の肉体を強化する技を得意とする。現在は『煙宿』で料理人をしている。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて
・『マダム』→本名不詳。人身売買で私腹を肥やしていた『黒の血族』。買い集めた奴隷たちに作らせた町『ロンテルヌ』の支配者。血の繋がっていない二人の息子、レオンとカシミールによって命を絶たれた。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。破壊時に自爆する。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて