Side Sinclair.「聖印紙」
※シンクレール視点の三人称です。
四肢を失ったリクの身が、地に落ちる。シフォンはその場に立ったまま微動だにしない。
そんな状況でシンクレールは、なにかを考える余裕などなかった。
「氷の跳ね戸!」
シンクレールが地に突き立てた両手から魔力が伸び――やがてリクの身体を軽く跳ね飛ばした。紫の肉体が放物線を描き、やがてシンクレールに抱きとめられる。
「リク!! 大丈夫か!」
瞳に生気はなかったが、虚ろではなかった。呼吸もある。ただ、シンクレールは今しも自分の口にした言葉にこそ虚無感を覚えてしまった。咄嗟の声だったとはいえ、自嘲を感じて仕方ない。
リクは四肢以外にも、脇腹から心臓にかけて深い傷を負っていた。いくら血族が丈夫だといえ、到底助かる見込みはない。両腕のなかの生命が刻一刻と失われていく感覚があった。
不意に、リクの視線がシンクレールの頭上を通り過ぎた。そして、瞼がやんわりと細くなる。
振り仰いだシンクレールが目にしたのは、満身創痍でこちらを見下ろすシャンティの姿である。過剰な装飾の施された顔は、今にも崩れそうな印象だった。
「シャンティ……様」
リクの呼びかけに応じたのかどうなのか定かではないが、シャンティはシンクレールの腕からリクをそっと奪うと、ゆっくりと地面に横たえた。まるで脆いガラス細工でも扱うかのように。
「生きて……ください……。シャンティ……様」
リクはうわ言のように、そればかりを繰り返した。シャンティは彼になにも返すことなく、ただじっと、死にゆく従者の――弟の――顔を見つめていた。
「シャンティ様……貴女にずっと……謝り……たかった」
リクの掠れ声は、きっと彼女の耳に届いたことだろう。反応はなくとも。
「おれは……貴女に……ひどいことを……してしまった。……未熟だったおれは……貴女の気持ちなど……ひとつも理解せず……自分のことばかりを……」
「……もういいって、そんなこと」
ぽつりと返ったシャンティの声は、微かな震えを帯びていた。そして、ひとつふたつと水滴が落ちる。リクの顔を打つそれは、きっとなにより温かいだろう。
不意に、シャンティがリクの顔の数センチ先に手のひらを向けた。彼女の手からみるみるうちに水色の流体が湧き出し、ひとつの大きな雫を形作る。その内部には、一枚の紙札が収められていた。抽象的な紋様の描かれた紙札。
やがて雫は消え去り、紙札が、はらりとリクの胸に落ちた。
「この『聖印紙』は……」
リクはいささか面食らったような声色でたずねる。
『聖印紙』と聞いて、シンクレールはリクの語った言葉をほとんど瞬時に思い出していた。皮肉めいた口調で語られたそれは、シャンティの故郷に伝わる工芸品であり、信仰の品なのだと。それを持っている限り、死後の世界での寵愛が約束される。
「これは、リクの『聖印紙』だよ」
そう言って、シャンティは目尻を拭った。
「燃やしたのでは……?」
「燃やしたりなんかしない」
「……なぜ?」
リクの問いは宙に浮かんだまま、返事らしいものは得られなかった。
ただ、シャンティの漏らした嗚咽は充分な答えだったろう。
リクはかつて、自分の持つ『聖印紙』をシャンティに渡した。シャンティがそれを残酷無比な調子で『燃やす』と宣言した。しかし、ずっと保管されていて、今彼の前に戻されたのだと、シンクレールはざっと想像をめぐらせる。正しいかなんて決して分からない。それは、二人だけの記憶なのだから。ただし、この瞬間『聖印紙』の持つ意味がどれほどの重さなのかは、第三者でしかないシンクレールにも理解出来た。
「リクはね」シャンティは涙声を、もう隠そうとしなかった。「とっても罪深い。でも、それは『聖印紙』で帳消しに出来るくらいの罪なの。だからリクは、死後の世界で幸せになれる。約束する。だから――」
その先は言葉にならなかった。
だから、安心して死んでいい。そんなこと、どうして家族が言えるだろう。
「おれは……先に、逝きます。……シャンティ様は……姉さんは……どうか……生きて、ください。ずっと……幸せに……。愛して……いました……」
それきり、彼の言葉は絶えた。
シャンティは何度も何度も彼の名を呼び、身体をそっと揺さぶり、やがてそれらが叫びを伴うものになっても、黙したリクはなにひとつ返さなかった。
家族を亡くした経験は、まだシンクレールにはない。幸福なことに、心の底から大切といえる他者の死に直面したことも。騎士団時代に仲間の死は何度も目にしたし、心が裂けるような哀しみと無力感を覚えたものだったが、それが今のシャンティの気持ちに及ぶものじゃないことくらい、シンクレールには痛いほど分かった。
たったひとりの家族。
いくら歪な関係が続いていたとしても、彼女の慟哭はそんな経緯を軽々と踏み越えていた。四肢のぶんだけ小さくなった亡骸を抱きしめて、ほとんど言葉にならない声で何事かを叫ぶ彼女にはもう、嗜虐的な要素も冷笑的な態度も傲慢さもない。弟を喪った姉でしかなかった。
美しき魂は生きねばならない。リクが何度か口にした台詞だ。シンクレールにとってシャンティという存在に美しさなんて到底感じられなかったが、それでも、シンクレールとリクを、身を挺して死地から逃がそうとした事実がある。彼女の魂にも美しさの片鱗は見出だせる。
この間、シンクレールはリクとシャンティの様子ばかりに目を配っていたわけではない。ほとんどの時間、視線の先にはシフォンがいた。
――まだなにも終わってない。
シフォンは相変わらず棒立ちになっていたが、自分の腹部に突き刺さった刃をまじまじと見ていたのだ。まばたきひとつせず。無表情で。その姿は、意識を喪失していないことを意味している。つまり、リクの貴品が破壊されたことで、刃も『意識を奪う』能力ごと喪失したに違いなかった。
もし効力が残っていたら、とシンクレールは歯噛みする。もしそうだったなら、命がけのリクの攻撃は勝利に直結した。
シフォンが硬直しているのは、驚きからだろうか。なんの感情も読み取れない。そもそも感情というものがあるのかどうかも分からない。
「リリー」シンクレールはシフォンから目を離さず、静かに、しかし決然と言葉を紡いだ。「僕とシフォン以外の全員を地下に匿うんだ」
「なにを言ってるの!? そんなことしたらシンクレールがどうなるか――」
「リリー。一生のお願いだ。なんだってするから、大人しく全員を守ってくれ」
リリーは何事か反論めいた声をもごもごと口にしたようだったが、いずれもまとまった言葉にはならなかった。シンクレールの口調がどこまでも真剣だったからかもしれないし、彼女自身、リクの死に対する負い目があったのかもしれない。やがて、「分かったわよ。でも約束よ。絶対生きて、ワタクシの願いを叶えること。よくって?」と聞こえたとき、シンクレールは多少の安らぎを覚えた。それでも、意識は緊張で張り詰めている。
近くでまとまった音がして、リクとシャンティの姿が消えるのが分かった。そして、息絶えたであろうカリオンも、リリーに回収されたことだろう。
ただ、意外なこともひとつあった。
「エイミー! 早くしなさいな!」
遥か後方から響くリリーの声で、はじめて、エイミーまで地上に出ていることを知ったのである。彼女の性格なら、ずっと地下に閉じ籠もっていそうなものだったが、もしかするとリリーに感化されて出てきたのかもしれない。彼女にはキュクロプスの進行が止まった段階で、各拠点に必要な情報を届けてもらっている。シフォンの存在も含めて、だ。ゆえにエイミーが地上に出たのは、もっと粒度の高い情報伝達のためかもしれない。シフォンの攻撃手段や、今しも負った傷のことだとか、あるいは片目の視力を失ったことだとか――。
ひとりの意志が、また別のひとりの意志へと繋がっていく。
思えば、前線基地での戦いはその連続だった。カリオンによる叱咤はシンクレールの行動を確かに変えたし、リクとの共同戦線に繋がったのも、自分が克己したからだと思いたい。否、実際そうなのだと確信している。
シンクレールは魔力を集中させながら、シフォンを睨んだ。彼女はたった今、腹部の刃をあっさりと抜き放ち、捨てたのである。なんの価値もないガラクタ同然に。彼女にとっては宝物もゴミも違いなんてないのだろうけど。
腹部から溢れる血を意に介すことなく、シフォンはこちらを見据えていた。シンクレールもまた、彼女から視線を外すことはない。
絶対生きて、というリリーの声が頭のなかに反響する。シンクレールは薄っすらと笑みを浮かべ、独白した。
――ごめんよ、リリー。その約束だけは守れないんだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場