Side Sinclair.「結晶と烈風」
※シンクレール視点の三人称です。
岩陰に隠れたカリオンによる投擲。その不意打ちが成功した理由など、この瞬間のシンクレールにとって意識の外にあった。リリーと一緒に地下に隠れている手はずだったにもかかわらず、どうして今この瞬間地上にいるのかも、同じく些事である。
絶好のチャンスが生まれたこと。ただそれだけが重要だった。
岩塊がシフォンの頭に命中したコンマ数秒後には、リクが疾駆を開始していた。それにやや遅れるかたちとはなったが、シンクレールも即座に魔力を両手に集中させる。リクが標的を攻撃圏内に収めるまで三秒もかからないだろう。彼の刀がシフォンの意識を奪取出来るかどうかは定かではない。ただ、これ以上の好機は今後訪れないに違いないとシンクレールは予感していた。
――だからこそ。
シフォンの頭をしたたかに打った岩塊は、緩やかな放物線を描いて落下の軌道をたどっている。彼女は人形じみた無表情のままではあったが、意識の糸が切れたように、全身の力が抜け、前のめりに倒れようとしていた。
このまま地面に倒れてくれればもっとも都合がいい。たとえ岩肌に身体を打った衝撃で意識を取り戻そうとも、その頃にはリクの刃が彼女に到達し、永い眠りへと強制的に導くはずだ。
が、物事はそう上手くはいかないものであるのをシンクレールも身に染みて分かっていた。それゆえ、前傾したシフォンが不意に右足を踏み出し、身体を持ち直したところを目にしても、集中力に乱れは生じなかった。彼は歯噛みひとつすることなく、ただひたすらに魔力を両手のひらへと汲み上げ、展開する魔術を極めて現実的に想像した。
――このチャンスを失っちゃいけない。
リクとシフォンの距離は、すでに二メートルを割っている。
シフォンの目はリクではなく、踏み出した自分の足に向けられていた。しかし、接近するリクの姿は感知していることだろう。あまりにも鋭敏な魔力察知によって。千載一遇のチャンスをモノにすべく、渾身の力で躍動する両脚を識っている。突きのための予備動作として右半身を引いたことも識っている。一秒以内にやってくる決定的な瞬間を想像したのか、右腕が一瞬蠕動したこともまた、識っている。リクの発する呼吸、次に踏み出す歩幅、どのタイミングでどの強さの突きを放つかさえ、識っている。足を踏み出した状態で静止したシフォンには――たとえそれが刹那の時間であろうとも――そう思わせるだけの冷えた威圧感があった。
「氷の――」
シンクレールは腰を落とし、両手を地面へと突く。彼はただの一瞬たりともシフォンの様子に気を取られることなく、自分自身の魔術に集中していた。だからこそ、この短時間で、魔術の行使に必要なだけの魔力を練り上げられたのである。
放たれた魔力は地表を駆けた。展開位置へと一直線に。
俄かにシフォンが顔を上げた。右目で素早く魔力をたどり、身体を起こす。表情にはやはり変化はなかったものの、その反応の機敏さには、どこか不意を突かれた印象があった。
彼女のそんな動きを視界に捉え、シンクレールは少しばかり口角を上げる。
「――結晶病!」
シフォンの周囲の地面が隆起し、いくつもの結晶体が突き出した。不揃いな角度で地面を突き破ったそれらは、一瞬で彼女の刃によって砕かれ、無数の凍てつく欠片となって舞う。
あらためて、シンクレールはシフォンの持つ魔力察知が桁外れに強力であることを思い知った。卓越した剣術をもってしても捌ける量の結晶ではない。ひとつひとつの攻撃の角度と速度を予見し、なおかつ尋常でない速度と強さで剣を振るわなければ決して対応出来ないタイミングだった。シフォンだからこそ凌げたと言っていい。
地面に魔力を放った直後の彼女の反応には、確かに隙があった。あの瞬間はじめて、シフォンはシンクレールの魔力を感知したに違いない。カリオンの不意打ちで刹那的な意識喪失を味わい、恢復した直後、自分へと迫るリクをまず把握したはずだ。そこに全神経を集中したのだろう。なぜなら、この場においてもっとも脅威となるものがリクの貴品なのだから。そんな状況において、シンクレールが度外視されていたのはむしろ自然な成り行きである。もちろん、魔術が放たれるそのときまでは。
結晶の舞うなか、リクとシフォンの距離が一メートルまで迫っていた。
弓のごとく引き絞った腕を一気に解放し、渾身の突きを放つリクの姿が、シンクレールの目にはスローに映った。この一瞬を見逃すまいとする集中力の結果だろう。
シフォンの腕が、やや遅れて持ち上がる。リクの太刀筋を見切ったうえで、刃を合わせようと考えたに違いない。貴品を圧し折ろうという目論見は、ほかならぬ彼女の口から語られたことである。一度は後退した相手が好機とばかりに飛び込んできてくれたのだ。その一撃を避けるよりも、打ち合わせて破壊を狙うほうが得である。常人の神経ならば多少なりとも動揺し、回避を試みるところだろう。不意打ちから立ち直ったばかりのところに、立て続けに攻撃が訪れるのだから。これまでの状況と比較すればピンチとさえ言えるかもしれない。
しかし、シフォンは動じない。さざ波ひとつ立たない表情で、今の状況を検分し、的確な行動を選び取る。
――優秀だ、あまりにも。
引き延ばさた時間の流れのなか、シンクレールは内心で呟いた。
――だから、読めた。
リクの刃が彼女の鎧に到達する。血に染まった銀の鎧に一瞬で亀裂が走り、砕け散る。彼の刃は止まらず、彼女の胸へと一直線に猛進する。
シフォンの視線が右へと逸れた。自分の腕――すなわち、右手に持った剣へと。
――君が不意を突かれていなければ、きっと気付かれてた。僕の魔術がどんな効力かまで。
シフォンの剣には無数の結晶が生えていた。鉛よりもずっと重い結晶が。
――君が本来の状態だったなら、僕の魔術は回避されていたはずだ。砕くんじゃなくて、避けるのが正解だから。
砕け散ることで効力を発揮する氷の魔術。破壊された瞬間に、触れていたものへと魔力を推移させ、そこで再び結晶化する。それら結晶の重量は魔力による操作で過剰なまでに増幅される。重量操作と魔力の推移。既存の魔術を組み合わせて、シンクレールが生み出したのが『氷の結晶病』である。戦争に備えて彼が開発した攻撃手段だった。ヨハンのように狡猾に。そんな思いで完成させた魔術である。ただ、少しでも魔術に心得のある相手なら、すぐさまどんな魔術がブレンドされているのか見破られてしまう程度には隠蔽が甘い。シフォンならば簡単に見抜くだろう。こんな状況でなければ。
リクの刃が、彼女の胸先数センチのところまで迫るのを、シンクレールは確かに目にしていた。
意識を奪う刀に貫かれ、シフォンは短い痙攣ののち、静かに目を閉じて崩れ落ち、やがて寝息がはじまり、かくして勝利は決まるのだと確信していた。もう刃を避ける時間などない。結晶まみれの剣を頑張って振ったところで、先に相手に触れるのはリクの刀のほうである。
勝利。
勝った。
勝ったんだ。
シンクレールの内側で先走った達成感は、空気の爆ぜる音によって霧散した。
音の主はシフォンである。
そして音と同時に空震が轟き、彼女の周囲は塵埃に満たされた。強烈に吹きつけた風に顔を覆いながら、シンクレールはなんとか目を開ける。こちらへと吹き飛ばされるリクの姿と、鋭い結晶の破片が見えた。
風が猛威を振るったのは、ほんの一瞬のことである。
次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように収まっていた。
風が凪ぎ、静けさを取り戻した戦場に少女が立っている。砕けた鎧の破片はどこにもなく、剣を覆っていた結晶も消えている。
シフォンと視線が合い、シンクレールはようやく、最大のチャンスをものに出来なかったのだと知った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて