Side Sinclair.「そっか」
※シンクレール視点の三人称です。
シンクレールとリクが前線基地に帰還する数分前――。
「ホ、ホントにそんなことやるんですの!?」
「いくらなんでも危ねえだろ、やめとけよ。もっと安全な方法だってあるんじゃねえか?」
忙しなく揺れる地下室で、リリーとクラナッハは頓狂な声を上げた。エイミーは蒼褪め、カリオンは眉間に皺を寄せる。
「これが一番いい方法なんだよ。安全性はともかく、速さって意味ではね」
そう言って、シンクレールはリクに目配せをした。半径二メートル程度の狭隘な空間で隣り合う二人は、十数センチの距離で互いに頷きを交わした。
「総隊長殿が決めたのなら、俺はかまわん。派手に砕け散るのも一興だ」とカリオンが不穏なことを言う。リリーが睨みつけるのを完全に無視して、彼はさらに言葉を重ねた。「死地にトンボ返りをすると決めたのも総隊長殿だ。自分の命の使い道は自分で決めればいい。俺は知らん」
言葉だけ切り取れば拗ねているようにみえるが、厳めしい表情で口にするものだから、どこかどっしりとかまえている印象があった。知らぬ存ぜぬと言いながらも、実のところ心配で仕方ない気持ちを抱える家父長的な態度とも思え、シンクレールはむしろ心強く感じた。
それに、すべてカリオンの言った通りなのである。前線基地に戻ってシフォンと対峙すると決めたのはシンクレールであり、リリーが合意を示してくれたからこそ、彼女の『陽気な浮遊霊』で地中を移動しているのだった。もはや形骸化しているとはいえ、前線基地の総隊長であるシンクレールと、安全かつスピーディな移動手段を持つリリーが戻ると決めたのなら、ほかのメンバーはついていくほかない。絶対に反対だと思っていても、折れなければ地上に置き去りとなってしまうわけで、そうなれば野生の魔物に襲われる事態は目に見えている。カリオンもエイミーも、背に腹は代えられず同行している状態だろう。そうシンクレールは推察していた。二人の意志は否定しないが、それでも道はふたつにひとつであり、我を通すだけの理由は持ち合わせている。
シフォンを放置出来ない。
そしてなにより――。
「シャンティ様は生きている。必ずだ。だからこそ、なによりも速く戻るべきだ」
リクは断固とした口調で言い放った。
シャンティを助ける。シンクレールとしても、同じ意志を持っていた。自分を拷問し、他者を徹底的に虐げた事実は消えないが、たったひとり犠牲になろうとしているのも事実である。シンクレールとリクを死地から遠ざけたのも、彼女からすれば『救ってやった』ようなものだろう。実際、出戻りを決めなければ、二人とも生き延びたはずだ。キュクロプスは二人を王都まで運ぶよう定められていたのだから。
シンクレールは、そんな女性を放っておける人間ではない。
そして戻ると決めたのなら、最も速い方法を採用すべきである。ほんの僅かであれ、シャンティが生き延びる確率を上げるために。
かくして二人は前線基地の末端に到達するや否や、それぞれ岩塊をシェルターとして射出されたのである。リリーの『陽気な浮遊霊』によって。ダミーとして放った複数の岩塊とともに。
岩塊の群れがシャンティに直撃せず、彼女の周囲だけに突き刺さったのは、もちろん偶然ではない。あらかじめ岩塊に入れておいた亀裂から進行方向――当初戦場と決めていた岩場の様子を確認し、シンクレールの魔術によって着地点を微調整したのである。岩塊に氷の魔術をぶつけての調整は難事ではあったが、完璧と言えるほどにやり遂げたのは、ひとえに集中力と意志の賜物だったろう。
「シャンティ様!! ご無事ですか!?」
リクの必死な声がシンクレールの耳に入り込んだ。
道中、リクは一度もシャンティの生存を疑う様子を見せなかったことを思い出す。不安はあったろうが、それを態度に示すことはなかった。ただじっと、前線基地の方角に視線を送っていた姿がシンクレールの記憶に焼き付いている。
リクが押し潰されそうな焦燥と不安に抗っていたことの証明が、今の叫びだった。剥き出しの感情が声に表れている。
遠方から確認したシャンティの姿は小さく、岩塊が岩場に突き刺さる際には粉塵でほとんど彼女の様子は見えなかった。今も、振り返ってシャンティの容態を確認出来てはいない。ただ、目視は必要なかった。
「戻ってきちゃったんだ……せっかく逃がしてあげたのに」
そのか細い声を拾ったとき、シンクレールは前方を見据えながらも、万感の思いで拳を握った。
生きている。
自分を死地から逃がそうとした女性は、まだ息を吸い、声を発することが出来る。
それが途方もなく嬉しい。
「戻ってきますとも。貴女だけの従者ですから」
「……呆れた」
言って、シャンティは小さく笑った。ささやかな笑いの最後に、一度咳き込み、それから地を打つ水音が続く。
「シャンティ様! 血が……! じきリリーがここに参りますので、安全な場所で治療を――」
「ねえ、リク。あんたは私の奴隷でしょ? ご主人様の言うことに逆らっちゃ駄目なんじゃない? ……今すぐここを離れな。シンクレールくんと一緒に。全速力で」
「シャンティ様の命令といえども、それだけは聞けません。死にゆく主人を放って逃げ出す従者なら、ここに舞い戻ることはございません。おれは貴女の盾で、剣です。貴女の双手であり、足です。貴女に災いを為す一切を討ち滅ぼすべく、おれはここにいます」
シンクレールは岩塊のひとつに立ち、じっと岩場の一点に視線を注いでいた。リクとシャンティのやり取りを聞きながら、片時も油断することなく。
闇に映える銀の髪。銀の鎧。少女の持つ針状の剣も、月光を反射して鈍く銀色に輝いている。
シフォンは足を止め、じっとシンクレールを見上げていた。彼もまた、少女の目を真っ直ぐに見返していた。
「リク」敵から決して目を逸らすことなく、シンクレールは言い放つ。「そうじゃないだろ」
しばしの沈黙が流れる。前線基地の風音に混じって、ひとつ、震える吐息が耳に届いた。
「……おれは、従者だからという理由だけで戻ったわけではありません」
たったひとりの家族を失いたくなかったんです。
そう言い切ったリクの声は震えていて、多分、必死で抑えているのだろうとシンクレールには思えた。涙を。あるいは、怖れに似た感情を。
第三者から見れば至極簡単な台詞でも、当人にとっては分厚い鉄扉のような言葉があることを、シンクレールも知っている。トリクシィとの関係性もきっと、似たようなものだったから。拒絶するのは困難で、諦めるのはあまりに容易で。だからこそ、踏み出した一歩が、ひと言が、巨大なものになる。当人にとって。
「そっか」
丸みを帯びた短い返事は、リクが獲得した報酬だ。彼にとって途方もない宝物だろうと思う。命を賭けるに値する感情を、一秒にも満たない言葉から充分に掬い上げることが出来る。束の間、シンクレールはリクを羨ましく思った。
それから間もなく、岩塊を足場にして接近する身軽な足音を聞いた。
「待たせてすまない、シンクレール。もう大丈夫だ」
「覚悟は出来てるか?」
戦う覚悟と死ぬ覚悟。その両方。
「もちろんだ」
リクの声は晴れやかで、満ち足りていて――幸福さえも感じられる。
抜刀の音が涼やかに鳴り響き、岩塊を渡って岩場へと降下するリクの姿が、シンクレールの目に映った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『クラナッハ』→灰色の毛を持つ獣人(オオカミ族)。集落には属さず、『黒の血族』であるリリーとともに行動していた。気さくで遠慮がない性格。二度クロエたちを騙しているが、それはリリーを裏切ることが出来なかった結果としての行動。可哀想な人の味方でいたいと日頃から思っている。詳しくは『613.「饒舌オオカミ」』『650.「病と飢餓と綿雪と」』
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『陽気な浮遊霊』→周囲の無機物を操作する呪術。リリーが使用。初出は『618.「大人物の愛娘」』
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて