121.「もしも運命があるのなら」
ヨハンが立ち上がる気配がした。足音が部屋の奥へと向かい、テーブルの辺りで止まる。
擦過音がして、部屋がパッと明るくなる。ヨハンは手にしたマッチでランプに火を灯した。灯心も油も切れてはいないようだ。
ヨハンの影が壁に揺らめく。
ここで彼との旅が終わると思うと寂しかった。決して口には出さないが、どうしてもそう感じてしまうのだ。過度に頼っているつもりも、依存しているつもりもなかったが、自分の感情を誤魔化せるほど鈍感ではない。
涙が零れる前に部屋を出よう。
踵を返したところで呼び止められた。「お嬢さん。大事な話があります」
足を止めて振り返ると、ヨハンは神妙な顔でベッドに腰掛けたところだった。その目付きは鋭く真摯で、有無を言わさぬ圧力を感じた。
ベッドの脇まで戻り、彼を見下ろす。
「落ち着いて聞いてください」と呟くと、彼は長いまばたきをした。「契約は終わりました。ここから先はお嬢さんの自由です。ただ、あなたが立ち去る前に告げておかなければならないことがあります」
それが良い内容でないことはヨハンの表情から読み取れた。彼の張り詰めた顔を見つめ、じっと次の言葉を待つ。
やがてヨハンは、重苦しく続けた。
「ノックス坊ちゃんとシェリーお嬢ちゃんのことです」
どくり、と心臓が高く打った。ヨハンはノックスに二重歩行者をつけていたので、彼らの様子は逐一把握出来たはずである。
「……なにがあったの?」
「順を追って話します。……彼らの乗った馬車がハルキゲニアに着いた後、簡単な書類上の手続きを経て、子供たちは『アカデミー』に移されました。『アカデミー』の薄暗いエントランスで待機を命じられ、ひとりひとり別室へ連れ出されたのです。目隠しをされて……」
目隠し?
すると、見られては困るものが『アカデミー』内にはあったのだろう。そしてヨハンの分身はそれを目にしているはずである。
「……それで、なにを見たの?」
彼は頷いて続けた。「回廊を辿って別室へと向かう途中、ずっと二重歩行者は坊ちゃんの影に潜伏させていました。なので詳しく確認したわけではありません。ですが……影からもある程度周囲の様子は把握出来ます。ノックスは白衣の女性に手を引かれ、広間を突き抜けました」
言って、ヨハンは目を見開いた。
「まるで地獄絵図でした。広間を抜ける一本道以外には、ベッドが所狭しと並んでいました。そこに子供が寝転がっていたのです。……彼らの身体にはチューブが取り付けられているようでした。管の先は天井に伸びていて、そこには赤黒い液体の溜まったタンクが、ベッドの数だけ吊るされていました。……思い出したくもない光景です」
広間に寝かされた子供。チューブとタンク。『アカデミー』という名称から想像出来る場所ではない。そんな魔術訓練は聞いたことがないし、広間いっぱいの子供が病に伏せているとも思えない。
すると、別の目的があってそうしているのだろうか……。
寒気が肌を這い回る。
「まるで別の施設のようでした。……その後、広間を抜けて奥まった部屋に通されました。……私が見たのはここまでです」
「え」と声が漏れた。「そこまでで二重歩行者を解除したの?」
あまりに中途半端ではないか。ノックスの安否に関わる問題なのに。
しかしヨハンは力なく首を振って否定した。「私から解除するはずがないでしょう。……倒されたんです……潜伏させていた二重歩行者が」
気付くと息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。ヨハンが巧妙に隠蔽した魔術を見破り、一瞬で葬ることが出来る人間が『アカデミー』にいたというのか。
「一瞬だけ敵の姿が見えました。シルクハットと片眼鏡……。お嬢さん、あなたは知らないかもしれないが、その男は騎士団長の『帽子屋』で間違いありません。猛者とは聞いていましたが、あれだけ正確に魔力を読み取れるとは……」
魔力を完璧に読み取ることが出来るなら、並大抵の魔術師では相手にならないだろう。
「二重歩行者が倒されたのはこれで二度目です。たったの二度……。あれは私の分身ですから、解除前に倒されてしまうと私自身にも深刻な影響が出るわけです」
すると『毒瑠璃の洞窟』でヨハンが倒れた原因は二重歩行者の消滅だろう。半身が消えたことにより、ヨハンの意識も恢復までに相当の時間を要したわけだ。レオネルはヨハンの様子を見て魔力の枯渇と表現したが、もし魔力が枯れたままなら本当に助からなかったかもしれない。
魔術師にとって魔力は生命力と同義である――という説もある。
「……じゃあ、あなたが見たのはそこまでなのね」
「ええ。不穏な広間と、必要以上に強力な護衛――『帽子屋』です。その後坊ちゃんたちがどうなったのかは分かりません……」
無事でいるはず……と考えることは出来ない。ヨハンの話を聞く限り、楽観視出来る状況ではなかった。
『アカデミー』で本当に魔術師の養成が行われているか。それすらも信じられない。
「……『アカデミー』の話は外部に一切漏れ聞こえて来ませんから、私は本当に魔術師育成施設だと思っていました。ただ、ハルキゲニアの主軸連中は信用に値しませんから護衛として二重歩行者をつけたわけです。……こんなことになるとは、正直に言って想像していませんでした」
ヨハンは悔しそうに拳を握った。
責任の問題ならわたしにもある。『ユートピア号』にノックスとシェリーを乗せるべく取り計らったのはわたしなんだから。
がり、と奥歯が音を立てる。知らず知らず噛み合わせた歯は、身の内に溢れる衝動を自覚させた。怒りと焦り。ノックスは、そしてシェリーは、どこまで不幸にならなければいけないんだ。
馬鹿にしてる。運命というものがあるのなら、それは二人を嘲笑っているに違いない。
「……気持ちは分かりますが、早まった真似は控えて下さい」
ヨハンは釘を刺す。
「早まってないわ。寧ろ遅過ぎる。……あなたが倒れてから何日経ったと思ってるの? ノックスとシェリーが危険な目に合っているかもしれないなら、今すぐにでも助けに行く」
「『アカデミー』に突っ込んだところで返り討ちです。いや、そもそも『アカデミー』に到達する前にハルキゲニアの騎士どもに捕らえられるだけですよ」
「邪魔する奴は全員斬る」
サーベルの柄に手を触れ、踵を返した。今すぐ動かなければならない。
「お嬢さん。私に考えがあります」
仕方なく足を止めたが、振り向きはしなかった。「なに?」
「充分な勝算を持って『アカデミー』に侵入するための計画は既に立ててあります。ただ、そのために乗り越えるべき障害がいくつかある。……お嬢さん。闇雲な方法で二人を救い出すことなど出来ません。本当に救出したいと考えるなら、私と手を組みましょう」
動き出そうとする足を必死に留めた。
空中に浮かぶ魔球が頭をよぎる。
ヨハンの言う通り、無暗に突っ込んで勝てる相手ではない。少なくとも、危険人物とされる四人は。
「ノックスとシェリーを助けられるなら、なんだってする」
「良い返事です。それでは――新たな契約を結びましょう。ノックスとシェリーを助け出し、二人の安全な未来を掴むためにハルキゲニアを徹底的に叩き壊す。これは共通目的であり、得る物も同等。――いいですね?」
振り向くと、彼は右手を差し出していた。
その手を握ると、彼も相応の力で握り返してきた。手のひらから、それぞれの怒りが全身へ伝播する。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。詳しくは『94.「灰色の片翼」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『アカデミー』→魔術師養成機関。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『毒瑠璃の洞窟』→毒性の鉱物である毒瑠璃が多く存在する洞窟。詳しくは『102.「毒瑠璃の洞窟」』にて
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
【改稿】
・2017/10/20 騎士→白衣の女性




