Side Shanti.「死神の片目」
※シャンティ視点の三人称です。
――アシッド・スライムなど存在しない。
前線基地内の安全地帯でシャンティがついた嘘を、シンクレールは簡単に信じてくれた。
本当は実在する。ただ、シャンティが説明したような、岩も鉄も一瞬で溶かすほど強力な体液を持っているわけではない。皮膚を爛れさせる程度の毒性があるのみ。それでも鼻腔や口内に入りさえすれば致命傷になりうる。
右手を犠牲にして破裂させたアシッド・スライムが、果たしてシフォンの肌に到達したのか、シャンティには分からなかった。死の嵐が俄かに加速し、視界が刃の軌跡に埋め尽くされたのである。ひとつひとつの斬撃の軌道は視認不可能で、だからこそ、シャンティは一瞬のうちにシフォンの意図を悟った。弾けた飛沫のすべてを、斬撃で直接、あるいは風圧によって間接的に吹き飛ばそうという算段に違いない。
次の瞬間、シャンティは腹部に強烈な痛みを感じ、咄嗟に血液を凝固させた。激痛は一度目の戦闘で受けたもっとも深い傷――エイミーが治療を施した箇所と一致していた。
血液を固めるのとほぼ同時に、シャンティの身体は低い弧を描いて宙を舞う。隆起した岩場で二度ほどバウンドし、ちょうど反対の崖際で彼女の身体は静止した。
すぐに起き上がろうとしたが、全身の痺れに邪魔されて、指先を動かすことさえ出来ない。
――死神。
口を動かすことなく、頭のなかでぽつりと呟く。横向きに倒れたシャンティの視界には、数メートル先で佇むシフォンがいた。目が霞んで仕方なかったが、少女がアシッド・スライムによって悶絶している様子は見えない。
シャンティは自身の敗北を悟り、あっさり受け入れた。
――もうこれで、正真正銘私は無力。スライムちゃんの在庫はないし、魔物もみんな消された。おまけに、ろくに身体を動かせないんだから。
捨て鉢な気持ちで戦ったわけではない。裁きを受け入れる準備は充分に出来ていたとはいえ、紛れもなく全力だった。
とはいえ、死神を退ける意志があったわけではない。すべてはシンクレールへの贈り物のつもりだった。
シンクレールは、シフォンの存在を重視していた。シャンティから見れば、倒さねばならないと躍起になっていたようにも映ったのである。なるほど、この少女は人間にとっても敵だろう。脅威と感じるに充分な実力を持っており、そして容赦がない。
もし自分がシフォンを討ったなら、シンクレールはいくらか安心するはず。そんな想いがシャンティにあったからこそ、全力で戦ったのである。
――でも、駄目だった。残念。
そう頭で呟いたものの、さして残念に思っていない自分がいることにも気付いている。死神に勝てるはずがない。なにしろ、死の国からの使者なのだから。原理的に勝てないと諦めるほうが自然とすら思えた。
清々しい諦念のなか、シャンティはふと、シフォンの変化に気付き、笑みを浮かべた。
シフォンは今、剣を静止させている。しかも、これまで淡々と継続してきた歩みも止まっていた。その場に突っ立って左目に指を近づけたり離したりしている。無表情という点は変わらなかったが、もしかすると少女の内心には動揺があるのかもしれない。
「左のお目々、見えなくなっちゃったの?」
シャンティの声には苦痛に耐える響きがあったものの、嘲笑と言える口調ではあった。
「左目が見えない」と、シフォンが機械的に返す。
「そっか……。私の命で、死神の片目を奪えたなら……それで充分」
シャンティは声を上げて笑いたい気持ちになった。随分とささやかな贈り物になってしまったが、シンクレールはきっと喜んでくれる。もちろん、彼がシフォンと対峙するような不幸に見舞われないことを願っていたが、もし運命のいたずらでそうなってしまったとき、彼はおそらく気付くだろう。そのとき、死者となった自分を悼んでくれるだろうか。
そこまで考えて、シャンティは自分自身を冷笑したい気になった。哀悼なんて求めてない。私は悪党で、裁かれゆく罪人で、だからこそ善きひとは楽園で報われる。それだけが慰めなのであって、ほかにはなにも必要ない。
シャンティは心地良い脱力を感じた。痺れが引き、その代わり呼吸のたびに身体の内外で痛みが弾けたが、ひどく穏やかな心境だった。これまで自分が蹂躙してきたすべての人々は――悪党を除くすべての人々は、楽園で微笑む。あるいは、死の国で自分よりもずっと優しい責め苦を受ける。
「ねえ、シフォン。幸せってどんなだか知ってる?」
満ち足りた気持ちでシャンティは呼びかける。シフォンは依然として視野の検分をしているらしく、顔のあたりでしきりに指を近づけたり離したりしていた。シャンティの言葉なんて少しも耳に入っていないかのような仕草だったが、少女の口はなんの感慨もなく開かれた。
「知らない」
シフォンの返答は、幸福な気持ちになったことがない、というより、幸せの概念そのものを知らないと言っているように聞こえた。あるいは、幸福だった時期をすっかり忘れ去っているのかもしれない。
不意に、シフォンの足が動いた。シャンティへの歩みを再開したのである。左目は真っ赤に充血していた。
標的の殺害において、片目が見えないことは大した問題にはならない。ましてや踵を返して退却する理由にはならない。もちろん、シャンティとしても死神が去ってくれるなどとは思っていなかった。
接近する少女の姿を眺め、シャンティはただただ微笑を崩さずにいる。
もうじき、なにもかもが終わる。痛みも苦しみも、全部。自分という存在は故郷を遠く離れた荒涼たる岩場で、獣に千切られ、虫の餌となり、薄汚れた骨となって転がり、吹きすさぶ風のなかで音もなく砕けていく。いつか、死の名残さえもなくなる。
ただ、胸に満ちた幸福感は、死後もずっと残ってくれるような気がした。
最期の瞬間までなにひとつ見逃さないようにと、シャンティは目を開けたままでいた。ほとんどまばたきもすることなく。断続的に襲ってくる痛みのせいで視界は震えたり滲んだりを繰り返していたが、シフォンの姿を視野の外に置くことはなかった。
現実の景色に、過去の記憶が重なっては消えていく。それも、近い過去から遠い過去へとどんどん遡っていくようだった。
戦争に出立する前のこと。侵略者として鎮座した玉座。ブロンの丘で子供の首を刎ねたこと。ダヌを殺してしまった日の夜。マナスルの住民に交易品を配った日々。『聖印紙』の作り方を習った日のこと。
ブロンの領主が連れてきた少年のこと。
どこか遠くで、風の唸り声がした。シャンティの耳には、過去から響く音のように聞こえた。風音はみるみる大きく、近くなっていく。
シフォンの剣が揺らいだ。残り数歩で標的が攻撃圏内に入るといった距離である。
少女が次の一歩を踏み出した直後のことだった。
シフォンが後方へと大きく飛び退いたのである。そして次の瞬間には、彼女の立っていた場所を中心として、次々と巨大な岩塊が斜めに突き刺さった。横たわったシャンティにはかすりもせず、しかしその周囲に破壊的な衝撃とともに降り注ぐ。
なにが起こったのか分からなかった。ただ、予感めいたものさえなかったかというと嘘になる。
シフォンが後退し、最初の岩が地面に突き刺さったときには、苦笑に近い表情の変化が、なかば無意識にシャンティの顔面に表れていた。
斜めに突き刺さった岩塊のうち、ひときわ巨大なふたつが前触れもなく内側から砕けた。
立ち込める靄のなか、二人の人影が揺れる。そのうちひとりは岩塊を足場にして立ち、前方――シフォンのいるあたりを凝視しているようだった。それがシンクレールであることは、羽織ったローブですぐに気付いた。
もうひとりはというと、岩塊から飛び出るとまっすぐシャンティのほうへと駆け――。
「シャンティ様!! ご無事ですか!?」
あまりに必死な形相のリクを見て、シャンティは小さく声を上げて笑った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて




