Side Shanti.「液体操作の本領」
※シャンティ視点の三人称です。
死神は笑わない。淡々と死を振り撒くだけ。岩場に立つ少女――シフォンがそうであるように。
かつてシャンティは、自ら死神を任じたことがある。ブロンを蹂躙した悪漢どもに対し、微笑の欠片すら封じて、ただただ死を与えた。
悪の終わりとはそういうものなのだ。だから自分は、目の前の小さな死神の手によって死の国に送られる。得たものすべてを奪われて、審判の地へと墜落する。そうでなくてはならない。
「アンタのことはちっとも恨んでないよ。だって死神なんだもの。裏切るとか裏切らないとか、そういうことは全然関係ない。私が破滅するタイミングが、たまたまこの時期だっただけなんでしょ」
シャンティの言葉は少女の耳にしっかりと届いていたはずだ。が、反応らしい反応はない。それまで通り、一歩また一歩と前進している。彼女の瞳は一秒たりともシャンティから逸れることはない。右手に掴んだ剣はだらりと少女の足元に垂れていたが、その脱力は不殺の意志を示すわけではないのだと、シャンティは察していた。シフォンの剣戟速度は構える動作を必要としない。脱力状態から瞬時に、最高速度の斬撃に移行する。一度戦闘したからこそ、シャンティはシフォンの異常性を把握していた。
一度目の戦闘でシャンティが間近で受けた攻撃は、時間にしてたった一秒である。スライムを翼のかたちに変容させて空中へ逃避しようとしたところを、異常な跳躍で追いつかれた。あっ、と思ったときには、無数の斬撃が表皮を刻んでいた。そして、胴を両断するかのごとく放たれた高速の斬撃により、シャンティは吹き飛ばされたのである。
もしシフォンに算段というものがあったなら、胴への一撃がもたらした結果は誤算だったろう。シャンティが真っ二つになって絶命する想定だったはずだ。しかし、そうはならなかった。シャンティは衝撃のままに空中を駆け、前線基地の谷底に落下することとなったのである。意識を喪失し、スライムの多くも失ったが、命だけは長らえた。
「ほんとに無口だね、シフォンちゃん。ニコルに調教されたの? 誰とも口を利くな、って」
「ニコルは、もっと自由に喋っていいと言った」
「なんだ、ちゃんと会話出来るじゃない」
二人の距離は三十メートルを割っていた。シフォンは一気に距離を詰める気配を見せず、シャンティもまた、後退することはなかった。
死神は一定の歩みで迫ってくる。
シャンティはふと、実の父親であるダヌのことを思い出した。
――善く生きなさい。清らかに、美しく。そうすれば、たとえお前がなにを失おうとも、楽園ですべてと再会出来る。
追憶のなかの父に、シャンティは言葉を返した。
――お父様、ごめんなさい。私はすっかり悪くなってしまいました。楽園には行けません。死神に手を引かれ、裁きを受けに行くのです。けれど、不幸ではありません。お父様にお会い出来ないのは残念ですけれど、私は満足です。善なる魂が楽園に行くことを、ようやく信じることが出来たのですもの。私は、私は、信じるために、疑うことを選んだのです。徹底的に穢れて、最後に罰が訪れることで、ようやく私は、お父様の信じたものを全部、そのままに信じる心を取り戻せたのです。だから自分が死の国でどうなろうと、満足しております。
父はゆっくりとシャンティに背を向けた。最後に見えた横顔には、断ち難い哀れみの影が落ちていた。
現実では、二十メートル圏内にシフォンが入っている。刃の範囲内に入れば、目にも止まらぬ斬撃が訪れることだろう。情け容赦も、聞く耳も持たない、死神の一刀が。
シャンティの目尻に、少しずつ潤いが溜まっていった。
涙――ではない。
「まだ全部失ってないの。だから、最後まで付き合って頂戴ね」
刹那、シャンティの両目からドロリとした水色の液体が流れ出し、首から肩にかけて螺旋状に移動し、やがて彼女の手のひらに集った。
「さあ、二回戦をはじめましょ」
嘘ついてごめんね、シンクレールくん。
シャンティは内心でそう呟いた。そして、手のひらに乗ったスライムを一瞥する。なんの特徴もない、ただのスライム。魔力の滓という呼称が相応しいほど、僅かな力も感じさせない。
ただし、その人畜無害な存在は、シャンティの液体操作によって無限の可能性を得る。
シャンティが右手で宙を撫でた瞬間には、スライムはもとの水滴状の姿ではなくなっていた。
空中に浮かぶ、無数の細い針。それらがシフォンとシャンティの間に展開されていた。
針の最初の一本が放たれるのと、シフォンの剣が動いたのは同時だった。二人の距離が十メートルまで迫ったタイミングである。
耳を犯す風切り音と、確かな風圧。目の前で再び巻き起こった死の嵐を、シャンティはまばたきひとつせず凝視する。針へと形状を変化させたスライムを、彼女自身の能力によって断続的に発射し続けた。
たった一本の小さな針でさえ、シフォンの体内に送り込めればそれで勝負が決まる。身の内に侵入したスライムは血管を進行し、肉と骨の奥に隠された心臓を裂くことだろう。いかに化け物じみた身体能力を持っていても、臓器の性質までは変わらない。心臓が機能を失えば死ぬ。人体の道理である。
ただし、肝心のたった一本がシフォンに命中する確率に期待など持てないことも、シャンティは自覚していた。
だから、別の方法を取る必要がある。
いかに破滅的なやり方であっても、今の彼女に躊躇いはなかった。
これまで一歩も動くことのなかったシャンティの足が、嵐へと踏み出された。前傾し、一歩ごとに速度を増して。
彼女が死の嵐に突っ込んだのは、疾駆と呼んで差し支えない速度へと推移したタイミングだった。
「っ!」
刃が肌を裂く。
何度も、何度も、何度も。コンマ数秒のうちにいくつの傷を負ったのか定かではなかった。
やがて見えた嵐の中心で、やはりシフォンは無表情のままだった。少しは驚いてくれてもいいのに、とシャンティはほくそ笑む。
生身の身体が斬撃の渦に突っ込んだなら、切り傷程度では済まない。ましてやシフォンの剣戟とあれば、比喩ではなく粉微塵になる。が、シャンティは指一本さえ失わずにいた。
液体操作は、なにも外部の液体だけが対象ではない。自分自身の持つ液体もまた、彼女の意志で性質ごと操作可能なのである。
外気に触れた血液を瞬時に硬化させ、鎧とする。一度目の戦闘で胴を両断されなかった理由もここにあった。
しかしながら、ダメージは確実にある。斬撃の衝撃まで無化するわけではない以上、骨も肉も、内側の臓器さえ、一撃ごとに損傷していく。加えて、血液の操作はシャンティにとってもそう簡単なものではなく、全神経を集中してはじめて正確に実行出来る程度には扱いが難しかった。展開していた針状のスライムはすでに掃射を終えている。したがって、自身の血液硬化のみに集中出来る状況だった。それでも傷が重なれば重なるほど意識は乱れていき、血液の操作も精度を欠く。
肉体の欠損なく嵐の中心までたどり着けたのは、シャンティとしても奇跡と呼ぶに相応しい達成だった。
痛みを堪え、手を伸ばす。シフォンの首へと。
首を絞めようとした手は、しかし、空を掴んだ。空振りした指先がシフォンの斬撃で真っ赤に破壊されていく。五本の指がそこに残っているかどうかすら分からなかった。たとえかたちをとどめていたとしても、傷は浅くない。もう二度と右手は使い物にならないかもしれない。
迸り、硬化する右手の血液。
シフォンの首に届くことはなく、その手前で蹂躙されつつある手。
シフォンは、数センチ先のその手に、赤以外の色を見たことだろう。黄色く濁った流体の色を。
「弾けろ――アシッド・スライム」
小さな音を立てて、シャンティの右手に潜伏したスライムが弾け飛び――シフォンの顔に飛沫が跳ねた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて




