Side Sinclair.「岩と氷の塔」
※シンクレール視点の三人称です。
街道の真ん中に聳える氷像を見上げ、シンクレールは荒い呼吸を繰り返していた。
キュクロプスを凍結させ、その手から逃れるために氷の魔術で粗雑な階段を作り上げ、ようやく両足が地面を捉えてもまだ、気を緩めるわけにはいかなかった。彼の使用した魔術――凍結魔術は、じきに効力を失うだろう。その前に巨人の始末をつけなければならない。氷の拘束から解放されたキュクロプスは、必ずや再び任務の遂行に戻るはずだ。すなわち、シンクレールとリクの捕獲およびグレキランス城への行進である。
「大丈夫か、シンクレール」
隣でリクが、喘ぐように言った。ふらつく身体を支えるべく、絶えず足を動かしながら。
シンクレールもまた、同じような状態にある。地面が揺れている感覚のせいで、立っているのも難しいほどだった。キュクロプスの腕の運動にしたがって二人の身体は攪拌され続けたのだから、無理もない。ただ、平衡感覚を取り戻すために費やせる時間はあまり残されていなかった。
「問題ないよ……もう一度、大規模な魔術をぶつけてこいつを始末する」
シンクレールは両手を前方に掲げ、なんとか魔力を集中させようと試みた。無意識に揺れる身体に意識を乱されながらも、標的を貫く巨大な氷を想像する。槍のごとく鋭い一本の塔。そんなイメージを強く思い浮かべた。しかし、いざ魔力をかたちにしようとすると、どうしても嘔吐感と眩暈に襲われてしまう。
キュクロプスの動きを奪うために、決して少なくない量の魔力を消費してしまっている。大規模な魔術の連発は肉体の疲労となって表れていた。揺れる視界が不調を増幅させているようにも思える。
「おれの刀があれば、どんな魔物でも……」
悔しさの滲んだ声が耳に入り、シンクレールは苦笑した。とてもじゃないが良好とは言えない状態でも笑える自分がいることに、少しばかりの心強さを感じる。
「君に処理させないために、刀を奪ったんだろうな」
「……きっとそうだろう。しかし、なぜおれも逃がしたんだ……! おれはシャンティ様の従者でしかないのに……」
「家族だからじゃないのか? 君にとってのシャンティがそうであるように、シャンティにとっても君は大事な弟なんだと思う」
会話の間も、シンクレールは魔力の集中に意識の多くを割いていた。が、キュクロプスの肉体を貫通するほどの大規模な魔術を展開するには、まだ少しばかり時間が必要だった。
「家族? シャンティ様にとっても?」リクは短く笑い、首を横に振った。「ありえない。おれはシャンティ様に憎まれている。蹂躙する価値がないほど、穢れた存在なんだ」
ありがとう。さよなら。
別れ際のシャンティが言ったと思しき台詞を、シンクレールは自然と思い浮かべた。二人の個人的な過去なんて知らない。ただ、少なくとも最後の言葉に憎悪の感情は含まれていなかった。
「確かめてみればいい。憎んでいるかどうか、直接聞いてみろ」
「……そうだな」
短いが、決然とした返答だった。まだ間に合うと信じることに、なんら躊躇いがないように聞こえる。
信じればその通りになるなんてことはない。都合のいい夢物語で自分を誤魔化すだけ、とも言える。ただ、ときとして自分を騙すことが力になる場面もある。目前の障害を取り払う気力になってくれる。
充分な練度ではないかもしれない。イメージも完全に固まってはいない。それでも、もう魔力の錬成に割ける時間的猶予はなかった。キュクロプスの身体の霜が、徐々に融けはじめていたのである。
「氷の尖塔!!」
シンクレールの前方から斜めに、巨大な氷の柱が突き出した。鋭利な先端がみるみる巨人の胸へと接近して――。
貫いた。
確かにその胸を貫通した。
だが。
「ぐっ……」
「う……」
リクとシンクレールは、同時に呻き声を上げた。キュクロプスの上げた雄叫びに耳を塞ぎ、強烈なノイズに耐えようとする。
巨人の身体を覆っていた氷が次々と剥離していった。奴は自由になった両手をぎこちなく伸ばし、胸に突き刺さった柱を掴む。直後、柱の根元に大きなヒビが入った。
もう一度――。
シンクレールは歯を食い縛り、夢中で両手を前へとかざす。
その直後である。円錐形の巨大ななにかが、キュクロプスの目を突き破って出現した。迸った血液が弧を描き、シンクレールとリクの身に降り注ぐ。
はじめ、その異物はキュクロプス自身の変異なのではないかとシンクレールは錯覚した。突き出たそれは、さながら大きすぎる角のように映ったのである。異物がキュクロプスにとって決して望ましくない代物であると分かったのは、巨人の手足が大きく痙攣し、膝を突いてからのことだった。
「なにが起こったんだ……?」
分からない。リクの問いにそう答えようとした瞬間、巨人の瞳を潰して現れた異物が岩の塊であることを、シンクレールは気が付いた。首の付け根より少し上の位置から侵入した鋭い岩が、頭を貫いて顔の上部に先端を露出させたのだ。
キュクロプスの肉体が蒸発していく。猛烈な煙の先で、いくつかの影が揺らめいた。そのうちのひとつは両手を腰に当て、大袈裟に巻いた髪を横に垂らしていた。
「リリー」
シンクレールがその名を呟くのとほとんど同時に、靄の向こうで高笑いが弾けた。
「オ~ホッホッホッホ!! またピンチになったわねシンクレール! 高貴なる姫君であるところのワタクシがまた助けに来てさしあげたわよ!!」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『凍結魔術』→触れた相手を凍結する、高度な氷の魔術。初出は『557.「淑女街道」』
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて