Side Sinclair.「猛進する巨人」
※シンクレール視点の三人称です。
「どうなってる!? どういうことだシンクレール!!」
「僕だって分からない!! なんでシャンティが――」
目まぐるしく動乱する視界と、絶えず激しく揺さぶられる身体感覚のなかで、シンクレールはなんとか嘔吐感に堪えていた。
疾駆する巨人の魔物――キュクロプス。遠目からそれを視認したならば、さぞかし戦慄することだろう。人間の全力疾走と変わらないフォームで繰り出される巨大な手足は、破壊的な躍動感があった。そんな巨人の手に握り込まれたならば、正気を保っているだけでも小さな奇跡と言えよう。しかるに、シンクレールとリクは二粒の奇跡だった。
キュクロプスは前線基地の起伏を見事に進行している。彼にとっての深い溝であるところの谷を跨ぎ越し、大規模な蟻塚を踏み潰し、屏風岩を跳び越えていく。ただ一心に南西の方角――王都グレキランスの方角を見据え、躊躇のない前進を続けている。シャンティの命により、その身を駆動させている。
シンクレールとリク。二人を捕獲し、生かしたままグレキランス城に向かえ。
彼女はそう命令したのである。なぜ、という疑問はシンクレールの頭で濃密な渦を形成していた。そこに猛烈な風音や平衡感覚の喪失が加わり、ますます混乱の度を強めている。
シャンティがいかなる動機でこのような暴挙に至ったのかはまるで分からないが、少なくともそこに、明確な利益はないように感じた。二人を逃がすことで、彼女はシフォンとの対峙を余儀なくされるだろう。彼女の配下である魔物が殲滅され、なおかつリリーの救助が滞った場合は、だが。なんにせよ、シャンティにとって有利な展開にはなるまい。
利害ではないとしたら、なんだろう。
「離せ!! 今すぐおれを離せ!! シャンティ様を死なすものか!! 絶対に……絶対に死んじゃいけないんだ!! シャンティ様は、シャンティは――たったひとりのおれの家族なんだぞ!」
キュクロプスの胴を挟んで反対側から、リクの叫びが届いた。喉を絞って放たれたその声は、ほとんど金切り声に近く、だからこそ哀切さを帯びていた。
リクの刀を回収した意図を、シンクレールは今はっきりと理解した。決して抵抗させないために唯一の武器を奪ったのだ。もしシンクレールが魔術師ではなく、リクと同じく武器に頼っていたならば、同じ顛末をたどったかもしれない。
対シフォンを想定するなら余計な魔術の行使は厳禁である。最大限余力のある状態でぶつかるべき相手なのだから。
しかし――。
キュクロプスの手の動きに合わせて首を動かし、魔術の展開位置を見定める。三メートル先の地面がコンマ数秒後には巨人の足場となることを、シンクレールは予見した。
「氷の大地!」
キュクロプスの足は想定通りの位置に振り下ろされた。シンクレールの魔術により氷漬けになった岩場へと。
そのまま転んで、拘束が緩むのを期待したが――地表を薄く覆うように張り巡らされた氷の魔術は、巨人の足によって呆気なく砕かれた。キュクロプスの動きはいささかも減退せず、次の一歩、また次の一歩へと繋がっていく。
度重なる揺れにより頭を攪拌されていなければ、シンクレールの魔術ももっと練度の高い仕上がりになっていただろう。が、そうであってもキュクロプスの動きを完全に止めることが出来たかは怪しいものである。なにせ全力疾走する巨大な肉の塊で、止めるにもそれなりの質量がなければならない。あまりに重量のある存在を滑らすには、薄氷では不可能だった。
「氷牙!!」
今度はキュクロプスの顔前に、円錐形の巨大な氷塊を出現させた。直撃すればひとたまりもない――という思考は甘かったらしい。咄嗟に目をつむったキュクロプスの瞼に激突し、砕けたのは氷塊だけだった。多少の痛みは与えただろうが、巨人の歩みはそれでも止まらない。いつの間にやら地面の様相は変わっていて、前線基地と街道とを繋ぐ獣道の上にいた。もはやキュクロプスの拘束から逃れたとしても戦場まで帰還するのに三十分はかかる。もちろん全速力で駆けて、だ。それまで魔物の軍勢が残っている保証はない。シャンティが生きている可能性も、時間とともに急速に目減りしていくように思えた。
――たったひとり、犠牲になろうとしている? 囮として?
シャンティの微笑が脳裏に蘇り、シンクレールは我知らず下唇を噛んでいた。
これまでの彼女は確かに悪逆非道な存在だったろう。仲間を躊躇なく殺すような、最低な血族。犯した罪は贖えるものではないし、たとえ善行を積み重ねたとしても埋め合わせにはならない。そんな道義的な視点に立つまでもなく、彼女は敵だ。いかに共闘関係を結ぼうとも本来の立場は変わらない。人間を滅ぼすべくグレキランス地方に足を踏み入れた時点で、決定的に相容れないはずである。どのような死に様を見せようとも、それは人間にとって喜ばしいことだ。敵が死ぬ。それだけ。
「冗談じゃない」
唇が切れ、シンクレールの口に錆臭い味が広がった。そんな感覚よりも魔力の昂りのほうがよほど大きい。
「僕は、僕を生かそうとしたひとの死を喜ぶ趣味なんてない」
キュクロプスの足が、平坦な街道に最初の一歩を刻み、道の左右に伸びた下草を散らした。
シンクレールの視界に、ほんの一瞬、リクを掴んだ巨大な手が見えた。その指先が赤に染まっていたのはきっと、錯覚ではない。武器がなくとも、肉体そのものがある。爪があり、歯がある。生きている限り、抵抗は常に可能だ。魔物の肉に牙を立てるだけの動機を、リクは充分に持っているはずである。
「氷の双牙」
前方に、ふたつの円錐形の氷塊が顕現し、巨人の両膝に激突した。
「氷の双牙!」
もう一度。
「氷の双牙!!」
さらに、もう一度。
キュクロプスの動きが若干だが鈍ったように見えたが、大きな効果はなかった。全力疾走から早足に変わったところで、戦場から離れていく事実は変わらず、シンクレールとリクの拘束も続いている。だが、両腕の振りが小さくなったことで、脳に訪れる揺れは小規模になった。意識の輪郭が濃くなれば、魔術の精錬に必要な集中力も上昇する。
「凍結魔術」
そう呟き、シンクレールは歯を食い縛った。周囲の空気が冷気を帯び、巨人の手の表皮に霜が降りる。シンクレールの展開した冷気の魔術は、着実に魔物の身体を凍結させていくことだろう。一度でも集中力を切らせば、即座に出力が低下する魔術である。したがって、巨人の全身を凍らせて無力化するという意図も水泡に帰す。激しく揺さぶられている状態にあっては成立しない魔術である。
擦り切れるほど集中し、出力を極限まで高め続けた結果――魔術の展開から五分後に、巨人は完全に動きを停止した。
前線基地からはおよそ十五キロの地点。全速力で駆けたとしても一時間以上かかる距離で、二人はようやく自由を取り戻した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『氷の大地』→大地を凍結させる魔術。詳しくは『269.「後悔よりも強く」』にて
・『氷牙』→氷のトゲを展開する魔術。初出は『Side Sinclair.「憧憬演戯」』
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『凍結魔術』→触れた相手を凍結する、高度な氷の魔術。初出は『557.「淑女街道」』