Side Riku.「治療と臆病風」
※リク視点の三人称です。
白い布によって二分された檻のなか、リクは剥き出しの岩肌に背をもたれて深く長い呼吸を繰り返していた。息を吸うたび身体のあちこちに痛みが滲み、空気を吐けば意識ごと口から流出していくかのように視界がぼやける。いまだ戦場にいることには変わりなく、敵の捕虜になってしまっている状況だったが、当面は命の心配はいらない。それが彼を安堵させた。
だからだろうか。布の先でせっせと手を動かしてシャンティを治療するエイミーに、染み入るような感謝を覚えた。施錠した檻の外では、カリオンが憮然とした表情で腕組みをし、胡坐をかいている。彼がその姿勢をとってからしばらく経つが、岩塊のごとく身じろぎひとつしなかった。そうしていると威厳の塊にしか見えない。実際は臆病者だと分かっていても、どっしりと機を待つ戦士の趣がある。その双眸はじっとシャンティのほうへ向けられていたが、即席のカーテンの先は見通せまい。今、シャンティとエイミーの姿はカリオンからもリクからも隠されていた。
どうかエイミーによる治療を。その頼みが断られなくて助かったと、リクは心の底から感じていた。ありがたいことに彼女は、リクに何事かを問うことなく、少しばかりの沈黙を置いて「分かりました」と言ったのだ。そしてわざわざ、部屋にあった布で仕切りまで作ってくれたのだから感謝に堪えない。
こんな切羽詰まった状況でいったいなにをムキになっているのだと自嘲する気もないではなかったが、それ以上に、自分の要求を正しいと信じる思いのほうが強かった。シャンティは自分の主人である。姉である。大切な、唯一無二の存在である。たとえ意識を失っており、すぐに目覚める見込みがなくとも、尊厳を保ってやりたかった。
「終わりました」と声がして、布が撤去された。横になったシャンティは、目鼻や口、頭部を除き、ほとんどが包帯に覆われ、その上から服を着せてあった。丁寧に血を拭い、軟膏を塗ったのだろう、包帯はほとんど純白に見える。ところどころ膿が黄色く滲んだ部分もあるにはあったが、完璧な仕事と言って差し支えなかった。
「ありがとう……本当に」
リクの声はうわごとめいた響きをしていた。シャンティをじっと見つめたまま、ほとんど無意識に言葉が溢れていたのである。それはエイミーに対する感謝というより、シャンティに訪れた数々の幸運に対しての礼賛だった。
生きている。呼吸している。傷もきっと治るだろう。目も、覚ますだろう。そう思えることが、なにより嬉しかった。
いつまででもシャンティを見ていたかったが、視界はエイミーに遮られた。
「貴方の治療もしますから、動かないでください。目隠しは必要ですか?」
「いや、必要ない」
自分も治療されるなんて、この瞬間まで思っていなかった。冷静に我が身を顧みれば至極当然な成り行きなのだが、あまりにシャンティのことばかり考えていたからだろう、自分自身のことなど完全に度外視していたのである。
だから『必要ない』という言葉も、治療の要否に対して反射的に言ってしまったのだが、幸いにも、エイミーはそれを目隠し不要と理解してくれたようだった。
「上だけ脱がしますから、なるべく動かないようにしてください」
羽織った上着を脱がされ、続いてシャツを剥ぎ取られる。布地が肌から離れるにつれ、こびりついた血やかさぶたの剥がれる音がいくつも重なったが、あまり痛みは感じなかった。というより、右肩と、失った左腕のあたりに疼くような感覚があるだけで、先ほどまで全身を苛んでいた大小様々な痛みの群れはほとんど消散している。
「なにかしたのか?」
「ええ。麻痺魔術をかけたんです。皮膚の浅いところに施しただけですが、それだけでも随分変わってきますから」
リクが感心しているうちに、彼女は素早く彼の身体を検分し、水の入った桶で全身を拭ってから肩になにやら湿った布を何度か押し付けた。瞬間、傷の奥を食い進むような痛みに襲われたが、目をつむって耐えているうちに段々と治まっていった。
「簡単にですけど、縫いますね。絶対に動かないでください」
リクが面食らっているうちに、エイミーは次々と処置を進めていく。なにがなにやら分からなかったが、彼女の手付きには身を委ねても問題ないと感じられるだけの習熟があった。
カリオン相手には『治療は専門外』だなどと言っていたが、とんでもない。痛みから苦笑のかたちにしかならなかったが、リクは声を出して笑いたいような、そんな気分になっていた。檻の先の大男がほんのり口を尖らせているようにも見えたのは、痛みによる錯覚だろうか。
「こっちの腕は……どうにもなりませんね。このままだと末端から菌が入って腐敗が進みますから、患部を切って、そのあとで肉を閉じ合わせます」
さすがにゾッとしたが、彼女がそう言うのなら間違いはないのだろう。リクはすんなり頷いたつもりだったが、そんな些細な動きにも震えが混じっていることに気付き、思わず頬の内側を噛んだ。
「カリオン隊長、手伝っていただけますか? わたしの力では綺麗に切れません」
その要求に、さすがのカリオンも多少の狼狽を見せた。「しかし、刃物がない」
「予備の武器が隅の木箱に入ってます」
「いや、支給された武器に触れるのは危険だ。洗脳魔術が施されているからな」
「なら」エイミーは自身の腰に手を回し、一本の短剣を取り出した。「これでどうですか? 個人的に持ち込んだ護身用の短剣です」
「短剣で人の腕を切れるなどとは思わんほうがいい。刃も禄に研いでいないのだろう?」
「出兵前に念入りに研ぎました」
「素人の研磨を信用しろと言うのか?」
やり取りを聞いているうちに、段々とリクは苛立ちを覚えてきた。言うまでもなくカリオンは恩人であるが、それを差し引いてもこの腰の引けかたは看過出来ない。
肘から先を失った左腕を水平に伸ばし、カリオンを睨んだ。「臆病風が吹いたか? カリオン隊長」
「臆病だと? 貴様、捕虜の分際で!」
激昂したカリオンが錠を開け、檻のなかに入るや否やエイミーから短剣をひったくった。そして刃を頭上に持ち上げる。
演技だな、とリクは思った。プライドを傷付けられ怒りを露わにする、という演技だ。瞳の奥の怯えが透けている。
「カリオン。身動き出来ない男すら切れなかったら恥だぞ」
そう言ってせせら笑うリクもまた、自身の演技を自覚していた。失ったのは肘から先で、ここからさらに短くなるとは思っていなかった。今後の生活などというものは信じるに足らない幻想だったが、それでも、今以上に身を削られることをなんとも思わないほど強くはない。
「やれ!!」
「いいんだな!?」
「早く!!」
「恨むなよ!!」
恨むはずなどないだろう、と思ってつい笑いそうになったが、リクが口から迸らせたのは絶叫だった。これ以上なく痛めつけられた左腕に、もう一度鮮烈な痛みが走る。叫ぶつもりなどなくとも声が流れ出て、同時に涙が散った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『麻痺魔術』→肉体に麻痺を施す魔術。通常はやや痺れる程度から、局所的に動きを奪うほど。無機物に施して罠に使うことも可能