Side Riku.「谷底の剣戟」
※リク視点の三人称です。
防御のために構えた刃。その中心を襲った強烈な衝撃でリクは数メートル分吹き飛び、地面を転がった。
立ち上がるのに要した時間は一秒もない。手指の痺れや身体の前面への鈍重な痛みを感じるより先に、自然と起き上がって刀を構えていた。
シフォンがおこなったのは、兵士たちを両断したのとまったく同じ、腹部への高速の斬撃だった。人間たちが斬られるさまを目にしていなければ、今頃リクは上半身と下半身が望まぬ別離を迎えていたことだろう。また、彼の武器が両刃であったなら、肉の内側に自分自身の武器を埋めることになったのも間違いない。
不思議なことに、リクが生存の実感を得たのは立ち上がってからだった。
――おれは立っている。まだ生きている。
鼓動は速く、呼吸は荒い。
一刀で絶命しなかったことに対する安堵は皆無だった。むしろ生き延びてしまったことで、死の感覚が再び訪れるであろうことが約束されていると感じた。逃げ出すという選択肢はないし、そもそもシフォンが見逃してくれる保証はどこにもない。
先ほどの一撃で数メートルほど後退したわけだが、シャンティの寝ている地点はまだ数十メートル後ろにある。それだけが唯一の幸いだった。
――おれはまだ、シャンティ様を守ることが出来る。生きているのだから。肉体が残り、意志も消えていないのだから。
何事もなかったかのように一歩踏み出すシフォンを見据え、リクは歯を食いしばった。
自分が死肉と化すイメージは容易に思い描ける。しかし逆に、少女を討ち取る想像はまったく出来なかった。意識さえ奪ってしまえばどうとでもなるのは明白だが、そのたったひとつのシンプルなイメージが像を結んでくれない。
先ほど味わった彼女の斬撃を思うと、身体の芯が冷えて仕方なかった。
咄嗟のことではあったが、リクは充分に集中していた。にもかかわらず、彼女の背負った細く長い鞘に収まった刃は、ほとんど残像しか捉えられなかったのである。横薙ぎの軌道ということだけ認識出来た。目視のあとに防御しても、とうに手遅れだったろう。その事実が、あまりに重くリクの心にのしかかっていた。
彼女の速度には対応出来ない。少なくとも、目で見て動くという段階を踏んでいたなら。
シフォンは意識を失った兵士たちを、単なる天然自然の障害物と同じように踏み越えて歩んでくる。さすがに死者と意識喪失者の区別がついていないわけではないだろう。あえて斬る必要性がないというだけのことかもしれない。そのことが若干リクの気にかかったが、すぐに疑問は霧散した。そもそも理解出来る存在ではないのだから、彼女の内側の論理を憶測しても虚しいだけである。いかなる読みも、彼女の無表情の前では誤読を免れられないような気がした。
それにしても、とリクは思う。
――妙な刀身だった。
残像のせいか、彼女の振るった武器は剣には見えなかった。柄がついているだけの、ただの細長い鉄の棒でしかなかった。先端は鋭く先細りしているが、全体的に均一な細さだったように思う。裁縫針のイメージが近い。いずれにせよ、刃なき武器でどうして人間を両断出来たのかは謎である。異常な斬撃速度の賜物とは言い難い。なぜなら死にゆく人々の見事な断面を、リクも目にしていたからである。明らかに鋭利な刃で絶たれていた。肉は異常な速度によって裂かれたのではなく、紛れもなく斬られていた。
「虚しいな」
リクはため息混じりに呟いた。シフォンはその言葉に対して、なんの反応も示さない。先ほどのような鸚鵡返しさえなかった。質問ではないと判断したのだろう。いずれにせよ、彼女にまつわる一切の思考が、リクには空虚に感じてしまった。
――おれは今五体満足で生きているが、遠からず死ぬ。それも、死んだことにすら気付かないような状態で死ぬだろう。なにを考えたところで虚しいではないか。
こうまで死を間近に感じたのは久しい。轟魔卿が故郷を蹂躙したとき以来かもしれなかった。
虚無感が胸を浸す。しかし、目的意識は消えていなかった。それらは完全に別個のものとして、リクの胸に宿っていたのである。
リクが死ねば、シャンティも殺されるだろう。自明である。そしてリクは、殺される自分を近未来の像として予感している。必死で守ろうとしたところで、懸命な努力は死によって台無しになる。ならば、なにも行動しないほうがマシと言えるだろうか。
「ありえない。それは善ではない」
自問自答。
答えははじめから決まっているようなものだった。
「あなたたちの質問には答えなくていいってニコルが言ったから、答えない」
独り言を拾ってまたも同じ台詞を吐くシフォンに、リクはもはやなんの驚きも感じなかった。彼女の思考回路がどうなっているか知りたいとも思わない。多少の興味はあるものの、それは午餐の終わりに締めの紅茶でも飲みながら、話題がなくなったときにでも聞くべきことである。今この状況は牧歌的なティータイムとは対極にあった。
シフォンとの距離が約二メートルまで迫ったタイミングで、リクは足を摺るように前進した。構えは一切崩さずに。
彼女の右手が、背負った剣へと伸びる。
リクは呼吸を止め、目を見開いた。わずかに時間が間延びした感覚になったのは、シフォンの一連の動作がずっと同じ流れで繰り返されてきたからだろう。脳で捉える右腕の動きが、視覚よりも素早く認知に訴え、結果として時間が引き延ばされたように感じたに違いない。
眼球を通して、ほっそりと華奢な右腕の動きが脳に入り込む。
彼女の手が柄を握るのが見えた。
刹那――。
刃の音が、谷底に鋭く響き渡った。短い間隔で二度。
横薙ぎではなく、リクから向かって右肩への袈裟斬り。彼はその一撃を読み、渾身の力で弾いたのである。そして今度は逆に、シフォンの右肩へと刀を走らせたが、針のような刃で弾かれることとなった。
ほんの一瞬の間を置いて、剣戟音が薄闇に染まった時間を埋め尽くした。
互いの刃が激しくぶつかり合い、両者後退することなくその場で凶器を操っていた。片や呼吸を止め、目を見開き、全身の細胞を総動員して高速の刃に対応し、片や棒立ちになって右腕だけで異常な速度の抜刀と納刀を繰り返している。
そう。彼女は明らかに無駄な動きをしていた。抜き放った武器をそのまま振るい続ければいいものを、わざわざ納刀しているのだ。そうする理屈は分からない。リクの見る限り、鞘で抵抗を生み、斬撃速度の向上を図っているわけでもない。ただ惰性の動きであった。そして、その無駄があってようやく、リクは彼女の速度に食らいつくことが出来ている。なんとか切断の運命を免れている。筋肉の微動を凝視し、次の軌道を予測して刃を打ち合わせる。自分の身体のどこに攻撃が訪れるかは勘に近かった。現に、筋肉の動きを読んだところで完璧にその通りの軌道となったわけではない。数センチのズレは常に発生している。だが、それであれば刀でカバー出来る範疇であった。ゆえに、高速の剣戟は一見すると拮抗している様子さえある。
十秒。
経過した時間はせいぜいその程度だった。
不意にシフォンが数歩後退し――ぐらり、と身体が倒れた。
一瞬、なにが起こったのかリクには分からなかった。まさか、後ろに転がっている兵士に足を取られて転ぶなど、そんな馬鹿げたことをどうして予想出来たろう。
絶好のチャンス。リクはシフォンへと前進しようとした。現に、足は前に踏み出しかけた。
リクは一撃でもシフォンに入れれば勝利となる。意識さえ奪ってしまえば、その後に殺害することはあまりに容易である。それゆえ、一瞬の好機を突くのが絶対に必要だった。
にもかかわらず、リクの足は後ろに下がっていた。それも三メートル近くも後退してしまったのである。意志は前進へと向かいながらも、身体が勝手に下がっていた。
この瞬間の本能を、リクが呪うことはなかった。むしろ、ゾッと胃の底に冷気を感じた。
シフォンが後ろへと倒れこんだ瞬間――その背が兵士たちの山にもたれるか否かといった刹那――彼女の周囲が赤く弾けた。
肉片と鮮血の飛沫がリクの顔を汚す。
倒れこんだはずのシフォンは、いつの間にやら抜刀しており――しかし、納刀はしなかった。どこからどう見ても裁縫針を大きくしたようなフォルムの武器を露出させ、ただじっと佇んでいたのである。
もし前進していたら、自分は人間の兵士たちと同じく、赤い肉片に変わっていたかもしれない。そう直観し、リクは戦慄した。
わずか一瞬のうちにシフォンが放った無数の斬撃が、リクの眼球に奇妙な残像となってこびりついていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて