Side Riku.「悪ゆえに」
※リク視点の三人称です。
今日という一日の最後を、西日が強く染め上げている。複雑な起伏を持つ要塞じみた山岳地帯は、光と影が色濃く同居していた。
前線基地と名付けられたその土地には、咆哮とも悲鳴ともつかない声がこだましている。裏切り者の凶刃に倒れる血族の、最期の叫びも含まれていることだろう。しかし、戦場特有のそれらの音色は、遥か東方から微かに届いてくる程度だった。谷に空いた無数の洞窟が奏でる風音に負けている。
リクは肩で大きく息をしながら、背負ったカリオンの位置を調整した。顎から絶えず汗が滴り、乾いた岩場に点々と染みていく。
もう少し。
あと少し。
そう言い聞かせ、リクは重たい足を運ぶ。じきに目的地にたどり着くはずだった。
リクははじめ、意識を失ったカリオンを背負いながら地上を進行していた。段差や隙間の連続が足腰に負担をかけようとも、決して谷に降りることはなかった。単に進むだけならば、谷底を行くほうがよほど楽だったろう。しかしながら、そこには人間の兵士が溢れかえっている。安全に進むには悪路を選ぶほかなかった。
ただ、地上を進行したのはそれだけが理由ではない。シフォンに吹き飛ばされたシャンティ――彼女の落下地点の砂煙はすでに消えていたが、距離と方角を正確に保っておくためには、見晴らしがなにより重要である。入り組んだ谷に入ってしまえば正しい位置関係を失ってしまいかねない。最悪谷に入るとしても、落下地点に近付いてからのことだった。
前線基地の全貌を把握していないリクには知るべくもないことだったが、シャンティの落下した位置は基地の前方――すなわち王都側だった。本来ならば人間の兵士が多数待機している場所である。前後を急坂に挟まれ、左右の崖にはいくつもの横穴が開いており、上を向けば地上の道が橋のようにかかっている。そこは前線基地を突破されないための最後の迎撃地点だった。落下場所としては最悪だろう。が、それは人間が統率を保っていた場合の話である。
前線基地は進むにつれて、人の気配が薄くなっていった。それも当然で、オブライエンの洗脳を浴びた人々は一様に敵へ――血族のいる東側へと向かったからである。
基地のなかばを過ぎた頃、リクは谷に降りた。間もなく彼女の落下地点だということが分かっていたからである。
急坂の先端に達したリクは、瞳に熱くこみ上げるものを感じた。
――シャンティ様!!
ここが敵地でなかったなら、大声で叫んだことだろう。内心の声に留めたのは、リク自身の慎重さゆえである。
それでも、興奮は肉体に表れてしまうものだ。
駆け出そうとした矢先、リクは背負ったカリオンごと坂を転げ落ちた。そして滑るように、すり鉢状の谷底へと――横たわった主人の爪先へと到達する。
「シャンティ様……」
今度は小さく声に出す。
横になったシャンティは、ゆるく目をつむっていた。口元も弛緩しており、手足はだらりと投げ出されている。
しかし、死んではいない。胸は確かに上下しており、微かに呼吸の音もしている。ただし、安堵することなどリクには到底出来なかった。なにせ、彼女の身体にはいくつもの細かな切り傷があり、なかでも腹部はかなり深く斬られたらしく、赤黒い血で湿っていた。彼女の横たわる地面にも血液が染み込んでいる。
血族にとっては致命傷ではない。だが、仮に目覚めたとしても数日は安静にしなければならない程度の傷ではあった。
自分のシャツの裾を裂き、即席の包帯として彼女の腹部を締め付ける。傷を圧迫したその瞬間、わずかにシャンティが声を漏らした。しかし、それは肉の声だ。彼女には意識がない。意識を奪う刀を持つからこそ、リクは誰よりも他者の意識の有無に敏感だった。
「申し訳ございません……どうか、我慢なさってください」
それでもリクは、そう呟かずにはいられなかった。もしかしたら起きているのかもしれない、などということはありえない。よく承知している。
従順であるということは、主人の状態によって変わるものではない。
止血を終え、リクは汗を拭った。見上げると、左右の崖にかかった天然の橋の隙間から、赤紫色の空が覗いている。鮮やかな色と光だったが、一方で、谷底はすでに夜の装いをしていた。どこにも明かりがない。天上と比べると暗黒と言っていい落差である。
「シャンティ様。貴女は決して死なない」
追憶の名残が胸にあったからだろう。リクはぽつりとそうこぼしていた。
この地においても、彼女は徹底的に悪だった。嘲弄。加虐。罵倒。そして、味方の虐殺。誰がどう見てもシャンティに正しさなどありはしない。もしかすると彼女の悪業には然るべき動機があるのかもしれないが、だからどうしたというのだろう。悪は悪で、悪ゆえに幸福である。悪は栄えるものであり、つまり、彼女が今ここで死ぬことはない。
リクのそんな確信は、祈りによく似ていた。
ともかくも、彼がすべき行動はひとつだった。主人の命令を無視して岩場を離れた理由は、ほかならぬ主人の安全確保にある。ここが敵地であり、主人が意識を失っている今、その役目を担えるのはリクだけだった。
自分の行動がシャンティの生死に直結している。そのことが彼の身体を震わせた。震えの正体が武者震いなのか怯えなのかは、彼にも分からない。しかしながら肉体に走った動揺は数秒後にはぴたりと収まった。耳に入った異音が彼を却って鎮めたのである。
それは地鳴りに似た響きだった。つい先ほど転げ落ちた急坂――その向こうから流れてくる音の波。それらは徐々に大きくなり、同時に輪郭を整えていく。
金属の軽い衝突。
存在を抑えるつもりのない荒い呼吸。
明瞭になっていく音の群れは、みるみる急坂に接近していく。
リクは、いくつかの選択肢を頭に浮かべた。
シャンティとカリオンを背負って、音のやってくる方角と反対側の坂を登るのはどうか。――間に合うはずがない。
横穴に身を隠してやり過ごす。――穴の先が都合よく迷路になっていたとして、彼らのほうがよほどこの空間に詳しいだろう。虱潰しに捜索されれば、遠からず発見されてしまう。
音の正体は、すでに急坂の先に姿を見せていた。目を細めて彼らを見やり、リクは刀を抜く。
「いたぞ! 血族だ!!」
「殺せ!!」
「殲滅するぞ!!」
人間の白い肌が、太陽の最後の光を受けて茜色に染まっていた。さながら燃え猛るように。
彼ら前線基地の兵士の一部は、放物線を描くシャンティを認識し、一直線にここまで進行してきたのだろう。そうした勢力が発生していること自体は、リクも認識していた。地上を駆けている間、東ではなく西を――つまりシャンティの落下地点を目指す一群を目にしていたのだ。が、それらは決して多勢ではなかった。せいぜい十人から二十人程度といったところである。その数であれば、万が一戦闘になったとしても捌くのは容易い。
猛烈な勢いで坂を下る人々を眺め、リクは自分自身の鈍さに苦笑めいた思いを抱いた。
視界に映るだけでも、どんなに少なく見積もっても百人以上。しかも、兵士たちは次々と坂の上に姿を見せ、全体の数は杳として知れない。
ふっ、と息を吐き、彼は刀を引いて身を落とした。
「貴女は、決して死なない」
死なせない。
迫りくる人間を迎え撃つため、彼は疾駆の一歩目を踏み出した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて