Side Riku.「妄信者回想録㉝ ~誰よりも幸福な~」
※リク視点の三人称です。
その晩、リクは瓦礫のなかで一夜を過ごした。わずかに残った住民たちと同様に。
色々なことを話した気がするが、この夜について細かな記憶はほとんど残っていない。今後は生き残りの人々で街を復興させなければならないこと、そこにリクが含まれないこと、街はシャンティの所有物となったこと――そうした基本的な伝達事項は話したはずだが、広場で夜を明かす人々の反応はどう頑張っても思い出せなかった。焚火の明かりが揺れていて、いくつもの憂鬱な顔が濃い陰影を描いていたのを、かろうじて思い出すことが出来る。本当にただ、それだけなのだ。
唯一付け加えるとするなら、その夜、魔物が一匹も出現しなかったことぐらいである。
もし魔物が出たなら、家屋の破片でもなんでも使って撃退するつもりでいた。それがリクにとって、この街のために出来る最後の奉仕であった。が、ついに出番は訪れず、東の空が白み、彼は人々に短い別れを告げてブロンを去ったのである。
考えてみれば奇妙だ。数に差はあれど、魔物は毎晩出現していたのだから。住民の総数こそ減ったものの、ブロンには膨大な魔力の残滓があちこちに漂っていた。轟魔卿、カーライル、そしてシャンティの撒き散らしたであろう魔力が。
魔物は基本的に魔力に惹かれる存在である。人間の体内に宿った魔力に導かれ、彼らは人里に姿を現す。つまり、その晩のブロンは魔物が出現する条件を充分に備えていたはずだ。にもかかわらず、ただの一度も連中を見ずに夜明けを迎えた事実は、ある種の想像を喚起するに足る。
夜明けから間もなくマナスルに足を踏み入れたリクは、真っ直ぐに長の家へと向かった。分厚い朝靄の先で長の家の扉が開き、二メートルを越える長身の影が揺れる。
『シャンティ。轟魔卿からブロンを守ってくれて、本当にありがとう。昨晩の魔物のことも……』
彼女はリクを見下ろし、つまらなさそうに鼻で笑った。返事としてはそれで充分過ぎる。轟魔卿を倒した例の力を駆使したのか、それとも別種の方法で魔物を遠ざけたのかは分からないが、昨夜の平穏は彼女によってもたらされたのだとリクは理解した。
彼女は無言のうちに、腰に提げた武器を解き、リクの足元に放り投げた。
『それ、あげる』
乱暴に転がされた武器は、リクの家に代々伝わる貴品――意識を奪う刀だった。カーライルに没収された品である。
『……受け取れない。おれは君にすべてを譲ると約束した。貴品といえど、例外ではない』
すべてが彼女の所有物で、自分はなにひとつ手にすることが出来ない――リクは本気でそう思っていた。
『めんどくさ』短い舌打ちをして、シャンティは鬱陶しそうに片手を払う。『じゃあ、貸してあげる。私には必要ない物だし。というか、触りたくもないんだけど』
『いや、しかし――』
『ねえ、あんたは私の所有物になったわけだよね? 私の奴隷でいいってことでしょ? なら、ご主人様の言うことには従うのが筋じゃないの?』
ぐうの音も出ない。確かに、主人と従者の関係ならば、従者が誇りを固持して主人の施しを拒絶するなどあってはならないだろう。
リクは深々と頭を下げて、刀を手に取った。
『……感謝する』
リクの言葉を完全に聞き流し、シャンティはポケットに手を突っ込んだ。そして小さく折り畳んだ紙を取り出し、リクに突き出す。
『これも、あんたのでしょ』
受け取った紙を開くと、リクの手が震えた。
『これは、どこに……? 轟魔卿たちが持っていたのか?』
ため息が返る。シャンティは心底呆れた表情を浮かべた。『決闘の前に回収した荷物に入ってた。まさか、知らなかったの?』
リクは立っていられなくなって、その場に膝を突いた。充分に湿った地面が、脚を柔らかく受け止める。
決闘前に奪われた荷物。馬の背に括りつけられた布袋。その中身に、リクは一切手をつけなかった。マルタからは二日分の食料とだけ聞かされていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。
ハイデアの自殺以後、ずっと所在の分からなくなっていた聖印紙が、今彼の手元にあった。
このときのリクは呆然としてろくに思考を働かすことが出来なかったが、振り返ってみると、感慨深いものがある。まず間違いなく、聖印紙を荷物に入れておいたのはマルタだ。馬も荷物も彼女が用意したのだから、当然そうなる。しかしマルタがどうしてこの紙片を所持していたのかについては謎である。ハイデアが自殺前に託したのか、はたまたハイデアの死後に発見して保管しておいたのか……どちらとも考えられるものの、街の人々がこのことを知らなかったのは事実らしく思える。というのも、リクは一時期聖印紙の捜索を行い、その過程で街の何人かには直接訊ねさえしたのだ。ハイデアが自殺した際に、聖印紙を持っていなかったか。ハイデアの葬儀の前に、邸で聖印紙を見なかったか。問いかけられた人々はいずれも首を横に振った。ごく自然に。
ハイデア曰く、これはリクの聖印紙らしい。死後の幸福を約束する紙。楽園の通行証。
『なに?』
訝しげに、シャンティが顔をしかめた。リクが聖印紙を突き返したからだろう。
『これは……これだけは、受け取れない』
『は? なんで?』
『――幸福が約束されてしまうから』
このときのリクは、自分でもなにを言っているのか分からなかった。ただただ、聖印紙を持っていてはいけないと、それだけを強く感じたのである。
聖印紙を所持しているということは、すなわち、人生の終着地点に幸福が用意されているということになる。それを承知で為す善や、体現する美も、それなりの価値を持つだろう。魂の輝きがなにかを照らし出すこともあるだろう。しかし、そこに誠実な光は宿らないのではないか。すべての正しい行為が、いずれ来たる死後の幸福に依拠してしまうような、そんな気がしてならなかった。
また、幸福と悪、不幸と善はリクのなかで密接に結びついている。その価値観のなかでは、最後に訪れる自分の状態は悪なのだろう。幸福なのだから。となると、自分と相反する位置にいるシャンティは、最終的には不幸な善となる。それだけは絶対に耐えられなかった。
破り捨ててしまえばよかったのかもしれないが、それすら実行出来そうになかった。正しさの反対側に位置する行為だったからである。もしそれが可能な人物がいるとすれば、目の前の女性だけだった。
『あっそ。じゃあ、燃やすから。これであんたは死んでも幸せになれない』
刀のときとは打って変わって、彼女はすんなりと聖印紙の返却を受け入れた。
リクの手から、紙片がゆっくりと抜き去られる。
『ま、こんな紙切れにはなんの価値もないだろうけど』
やけに早口で、小さな声だった。
シャンティは淀みない手付きで聖印紙を折り畳むと、再びポケットにしまった。
『君には、なにからなにまで感謝する……本当に、本当にありがとう』
『どーでもいい。……というか、さっきからずっと思ってたんだけどさ』
ドン、と胸を突かれ、リクは仰向けに倒れた。シャンティに蹴られたのである。
『さっきからなんなの。その口の利き方』
顔面を靴裏で踏まれ、鼻が鋭く痛んだ。
『あんたは決闘に負けた瞬間から私の奴隷なの。相応しい態度くらい、あんたくらいの馬鹿でも分かるよね?』
顔の表面を圧迫されながら、しかし、リクは満足だった。
彼女はなんてひどいことをするんだろう。なんて悪いのだろう。
今の彼女に善はない。彼女が轟魔卿を排除したのも、魔物から街を守護したのも、功利的な理由でしかないのだ、きっと。
残酷で、悪辣で、人を不幸に陥れ、欲望に忠実。だからシャンティは――。
『……失礼しました。改めます、シャンティ様。貴女の忠実な下僕として、生涯を捧げます』
誰よりも幸福だ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて