Side Riku.「妄信者回想録㉚ ~再会~」
※リク視点の三人称です。
遮る物のない夜の天蓋には、膨大な数の星粒が瞬いていた。
街道沿いを進行するリクは、マルタの言葉を何度も何度も反芻し、深く息を吐く。
――美しき魂は生きねばならない。
一時的な感傷がそのときの彼の心にまったくなかったと言えば嘘になるが、美に対して、善に対して、あるいは正しさに対してのリクの思いをしっくりと縁取る言葉であったのは確かである。後年、敵であるシンクレールを庇った際にリクの口から溢れたのもこの言葉だった。その後の人生を下支えする観念を、彼はこの夜に獲得したのである。
『美しき魂は、生きねばならない』
馬上で彼は、何度か実際にそう呟いていた。気が付くと声になっていたのである。
美しく生き続けることは、すなわち長きに渡る不幸をも意味しているのだと、リクは思った。美しき魂は不幸を運命付けられている。そして自分が生き続ける限り、対極にいるシャンティもまた、生き続ける。悪を為し続け、同時に幸福を味わい続ける。自分の生と彼女の生は見えない糸で繋がっている。根拠は必要ない。そう確信するだけで、すべての問題が取り払われるのだと彼は感じていたのである。
リクの向かう先は決まっていた。この場合においてなにが本当に正しいのか、深く考えずとも答えは導き出せた。
あのままブロンに居続けたところで、物事を正しい流れへと向かわせることは出来なかったろう。屈従のなかで肩を寄せ合い、虚しい励ましの言葉を繰り返すことが精一杯だったはずだ。抵抗を示したところで、カーライルを屈服させることはおろか、兵士数人にさえ勝てないのは事実である。貴品のないリクに出来る抵抗など、たかが知れている。それに、仮に貴品なしでカーライルをなんとかしたとしても、轟魔卿を排除することは不可能だろう。魔力を有する生物を例外なく沈黙させる刃だけが、敵を討ち取る可能性を秘めているのだから。
それゆえ、ブロンからの脱出はもっとも大きな希望がある。ブロンに暮らし、ブロンの文化を持つ者が、少なくともひとりは生存するのだから。たとえブロンが草木一本残らない死んだ土地と化しても、その歴史を知る者が生き延びることには大きな意味がある。どこか見知らぬ土地で生活を営むことになろうとも、彼の一挙手一投足は故郷を由来としている。彼の為す一切がブロンあってのものであるならば、滅びた土地の種子が彼の総身に宿り、継承され、生き続けるとも言える。
ただ生きるだけで、目的の多くは達成される。ただ生きるだけで、ひたすらに正しい。
それを分かってなお、リクは留まるつもりはなかった。
より正しく。
より善く。
より美しく。
夜が明け、太陽がぐるりと天上を巡り、再び沈もうとする頃、彼は目的地にたどり着いた。
周囲を川に囲まれた涼やかな土地。水の都、スィーリー。シャンティの侵略した街である。
『どこの馬の骨かと思ったら……』
豪奢な玉座に腰かけたシャンティは、不快感を顔いっぱいに表現していた。
リクは麻縄でぐるぐる巻きにされた状態で、彼女の前に突き出されている。街へと続く橋で兵士に拘束されたのだ。馬はそのときに回収され、マルタが二日分の食料として渡してくれた布袋はシャンティの足元に転がっている。まだ中身を確認していないらしく、布袋の口はしっかりと閉じていた。
『あんたの顔を見てるとうんざりする』
まさしくうんざり、といった具合に彼女はため息をついた。その顔にかつての面影はあるにはあったが、ほとんどが潰されているようなものだった。両耳、唇、顎、鼻を中心に、びっしりとピアスをしている。しかも、舌は二股に分かれていた。
彼女の極端な身体改造に面喰ったものの、リクが取り乱すことはなかった。シャンティが自身に施した装飾を、むしろ幸福の象徴だと捉えたからである。それらひとつひとつは美から遠ざかる要素ではあったものの、彼女の持つ表面的な美しさを決定的には損なっていないことも、冷静でいられた理由のひとつだった。
『いかがいたしましょうか、シャンティ様』
小太りの男が揉み手をしながら、上目遣いに彼女を見つつ発言した。
リクは、その男に見覚えがなかった。おそらくはマナスルの者ではなく、シャンティが新たに引き入れた部下なのだろう。忠実な下僕を装っているようであったが、腹の底では周囲を見下し切っている男だと、リクはすぐに見抜いた。主人の寝首を掻くような手合いである。が、度重なる領地奪還を経ても、この小賢しい男が健在であるあたり、シャンティに隙はないのかもしれない。
『焦らなくていいよ、マシモフ』
そう彼女が返すと、小男は口答えすることなく頷いた。
『それで』椅子に深く凭れ直し、シャンティは嘲笑交じりに言った。『なんの用?』
すっかり女王然としている。まるでこの土地の領主だ。
昔のシャンティの姿を思い浮かべ、リクはほんの少し笑みを浮かべた。
『なに笑ってんの?』
『いや、すっかり変わったなと思ってね』
『誰しも変わるでしょ。色んな経験をすればね』
彼女は、色んな、という語句をやけに強調して言った。
真正面から皮肉をぶつけられている。リクはそう感じ、少しばかり嬉しくなった。どんなかたちであれ、彼女と再会出来たのは喜ばしい。ただ、いつまでもその感情に浸っているべきではないことも、彼は重々分かっていた。
ここに来た理由はひとつなのだ。
『シャンティ。おれと決闘してくれ』
瞬間、玉座が静まり返った。居並ぶ兵士たちの間に緊張が走ったのは当然である。シャンティのこめかみに怒りの筋が浮き出るのが、ありありと見て取れたのだから。
『は? どうして?』
『どうしてもだ。遊びじゃなくて、貴族同士の決闘をしよう。おれが勝ったら君の土地は全部もらう。スィーリーはもちろん、マナスルも。そこに住むすべての人と物資もおれの所有物になる』
『なに馬鹿なこと――』
『君が勝ったら、なにもかも渡そう。望むもの全部だ。ブロンの土地も、全部。それと、おれ自身も奴隷として君に捧げる。おれの生涯を丸ごと君に渡そう』
途中シャンティの言葉を遮ってまで言い放つと、リクは思わず微笑してしまった。こんなことをシャンティに言う日が来るなんて、思ってもいなかった。
『ふぅん』片肘を突き、彼女はリクを眺める。ひどく退屈そうに。『私の奴隷になりたいだけなんだね』
余裕たっぷりに断言すると、彼女は立ち上がった。そして小男――マシモフに命じる。
『決闘のルールは案山子ね。先行と後攻を決めて、時間で区切る。決められた時間分、攻撃側は相手を好き放題攻撃するってルール』
それでいいでしょ? だってあんたは負けたがってるんだもの。
侮蔑の笑いが、彼女の喉から溢れ出した。
シャンティの推察通り、リクははじめから敗北を望んでいる。が、その理由を単なる被虐趣味と誤解してくれたことに、リクは心の底から愉快な気分になった。
『それでいい。さあ、決闘しよう』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて