Side Riku.「妄信者回想録㉙ ~正しい選択~」
※リク視点の三人称です。
目を覚ましたリクが最初に認識したのは、薄ら寒い石造りの床だった。そして次に、鉄格子。上階へと続く階段。それらがランプから投げかけられる橙色の光にぼんやりと照らされていた。
その部屋は、紛れもなく邸の地下だった。かつてリクが、父であるハイデアに監禁された場所である。例の刀によって意識を奪われ、それから一週間もの昏睡状態を経て目覚めた部屋。ランプの灯りを除けば、周囲の様子はあの日あの時とほとんど変わらないように見えた。
もしやすべてが夢であったのではないか――などと錯覚するには、あまりに長い年月をリクは過ごしてしまっていた。束の間であれ、その錯覚が訪れてくれたならどんなにか彼を安堵させただろう。これがあの日の続きなら、父は自殺しておらず、リクが歓喜を胸に抱いてマナスルへと足を向けることもなかったろう。シャンティがどうなったかは分からないが、少なくとも丘での惨殺劇を演じるまでの変化は生じなかったのではないか。自らの手で実の父親であるダヌを殺めてしまった事実は消えないにしても、その悲しみが彼女を幸福な悪へと駆り立てた要因が、ハイデアの自死と、それを嬉々として報告した自分にあったのではないかとリクは考えるようになっていた。もしも彼女が深い悲しみに留まっていたのなら、交易を断絶することにはならず、したがって侵略行為に発展しなかったはずである。血族の社会は依然として大過なく平穏に流れていっただろう。おぞましい怪物がブロンを荒らす未来はなかったに違いない。
階上で靴音がした。それは徐々に階段の上へと接近し、下ってくる。やがて現れたその人物は、ブロンの悲劇を象徴していた。
殴打の痕が痛々しく残る顔面。片足を悪くしているのか、歪な歩調。ほつれた髪。
すっかり憔悴しきった顔だったが、リクと視線が合うと、ほんの僅かだが瞳に喜びの光が灯った。
『リク様……お目覚めになられたんですね』
かつての家政婦、マルタはぎこちない微笑みを浮かべてみせた。
『マルタさん……。街のみんなは……?』
彼女は檻の前に座り込むと、しばし逡巡したのち、『嬲られています』と小さく答えた。
それからマルタは、ぽつりぽつりと、リクが気絶してからのことを語ってくれた。
気を失ったリクはカーライルの命令でここに運ばれたらしい。もちろん、貴品である刀は収奪されている。
リクが気を失ってからすでに二日が経過しており、街はカーライルを中心とした轟魔卿の手先の者に支配されてしまった。包囲網は解除されたが、誰ひとり逃げおおせてはいない。恐怖という手綱で、人々はこの地に拘束されている。
轟魔卿なる化け物は、今現在は街の中心地に鎮座しているらしい。街のぐるりを蹂躙したのち、カーライルのひと声によって鎮まったのだという。それからカーライルは街の中心部に人々を移動させ、こう宣言した。
『ブロンはこれより、轟魔卿ベイゼ様の支配地となります。逃亡を企てた者、我々に抵抗した者、いかなる理由であれ我々の要求に従わなかった者は、この世の地獄を見ることでしょう。――と言っても説得力に欠けるでしょうから、実際にご覧に入れようではないか』
カーライルは住民のうちひとり――年若い男を選び、轟魔卿に食わせたのである。それも、両の手足から順に。もし男が手足を食われた時点で気を失っていなければ、絶命までの手順はもっと間延びしたものとなっていただろう。
轟魔卿の行動はすべて、カーライルの指示通りに運んだらしい。奴の身体を覆っていた火炎さえ、彼のひと声で収まったんだとか。
ふとした思いつきがリクの口元からこぼれた。
『カーライルさえなんとかすれば、街は取り戻せるんじゃないか?』
しかし、マルタは沈んだ様子でそれを否定した。
『……もしあの男を殺したとしても、事態は良くなりません。それどころか、もっとひどくなるんです。あの男がいなくなれば、怪物は自由に振る舞うことになりますから。この土地のすべての命を奪い、更地に変えてしまうでしょうね……』
それはマルタの憶測ではなく、カーライル自身の口から人々に語られた内容だった。轟魔卿は破壊の象徴であり、唯一制御出来るのは自分なのだと。操舵者を失った怪物は、無差別な破壊と殺戮に興じることになる。この土地に根差していた文化も、それを担う人々も、跡形もなく消滅する。長い歴史を軽挙妄動で無にしたくなければ、服従以外の道はない。
カーライルの警告が事実かどうかは、究極のところ分からない。だが、一か八かで行動を起こすにはあまりに大きなリスクを孕んでいることは皆が理解したのだろう。カーライルに刃を向けようとする者は誰ひとり現れなかった。
それから轟魔卿の手先たちは、奔放に過ごしはじめたらしい。住民を嬲りものにし、酒も食料も好き放題にしている。戯れから、街の品々を破壊することもあった。
『私の聖印紙も、目の前で焼かれました』
ですから、私の魂は死後も救済されません。
そう言って、マルタは寂しげに項垂れた。
彼女の顔の痣は、『聖印紙』の存在を知った兵士たちにそれを渡すよう要求され、空とぼけた結果殴られたときのものらしい。彼女に限らず、『聖印紙』はほぼすべての住民にとって、なににも代えがたい宝物である。それを目の前で焼かれるのは、肉体を焼かれるのとほとんど同じ苦痛であろう。
むろん、リクは『聖印紙』に対してそのような感情を抱いたことがない。若い時代には憎むべき対象として認識していたし、領主として働くようになってからはなんとも思わなくなっていた。人々が『聖印紙』を重んじる気持ちは充分に尊重しながらも、彼自身にとってはなんの意味もない紙切れであったし、そもそもハイデアの死後、リクの家に残っていた最後の一枚がどこへいったのか不明である。一度は探してみたが、邸のどこにも見当たらず、気に留めるものでもないとして打ち遣ったのである。
『リク様が目覚めたと知ったら、すぐにあの男の玩具にされてしまいます。ですから、私以外の者が来たときには、意識を失っているふりをしてください。……お願いします』
そう懇願して、マルタは僅かばかりの食事を鉄格子越しに手渡した。手のひらにすっぽり収まってしまうサイズのパンがひとつと、干し肉の欠片がいくつか。今、住民が食せる物の限界がこの程度らしい。
彼女が去ってから、リクは深い絶望と、同じだけの満足を感じていた。
善は不幸であることの証明。そのひとつが今の状況にほかならないと感じたのである。
住民への同情はもちろんある。痛いほど感じている。しかし、善なるものと宿命的な不幸への希求は、それとは別に確固たる存在感でリクを満たしていた。
今後いつまでカーライルたちがブロンに留まるつもりなのかは分からなかったが、気の済むまで享楽を貪ることだろう。連中には粛清という名目の正義があるらしい。限りなく悪に近い正義が。最終的にはシャンティの粛清に向かうことだろうが、いつになるかは定かではない。ことによると、数か月はブロンで暴れ続けるかもしれなかった。また、連中が去ったとしてもそれは一時的なものであろう。カーライルはブロンを支配地とする宣言をしているのだ。轟魔卿の領地として永遠に蹂躙され続けるとも考えられる。領地の侵犯はタブーであるが、禁忌を犯した者に与する貴族の土地であれば、『健全化』の名のもとに実効支配したとしても貴族社会からの批判はないだろう。それが事実上の侵略であろうとも。
リクが鉄檻の外に出たのは、それから二日後のことである。
深夜になって邸を訪れたマルタが、檻の施錠を解いたのだ。
『いいですか、リク様。今、邸の裏に馬を繋いであります。貴方はこれから馬に乗って、ブロンを離れるのです。街道への出口や丘、あとは峠の道も見張りがいますが、西側の林であれば夜間は誰もおりません。ですから、林を通って平原に出て、それから大回りに街道を目指して迂回してください。食料は二日分、馬に乗せてあります』
思えば、リクの人生におけるいくつかの決定的な物事は、常にマルタによってもたらされてきた。今回の場合もそうである。そして彼女による導きは、概して幸福な結果を生まなかった。しかしいずれも彼女自身の正義感から抽出された純粋な雫であったことだけは確かである。
リクはこの申し出を断ったのだが、マルタも決して譲らなかった。
リクにとって、たったひとりで逃げ出すことは決して善ではなかった。
マルタにとっては、ただひとり、領主が生き延びてくれればそれで満足だった。
短時間ではあったが、強固な押し問答が続いたが、最終的にリクは馬を駆り、ブロンを去ることとなったのである。マルタのひと言が決定打となり、彼を翻らせた。
『どうか正しい選択をしてください。美しき魂は生きねばならないのです。生きて、魂の煌めきを、あまねく届けてください』
マルタは殺されるだろう。
住民の多くも、脱走の腹いせに犠牲となるに違いない。
それらすべてを承知で、リクは夜に消えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて