Side Riku.「妄信者回想録㉗ ~轟魔卿ベイゼ~」
※リク視点の三人称です。
最初の異変は、大地の鳴動である。昼過ぎからはじまった断続的な地鳴りは、はじめのうちは食器を微かに震わせる程度のものだった。地震自体はこれまでも幾度となく経験してはいたし、家屋が倒壊するほど巨大な災害もリクの先代――ハイデアの若き頃にはあったと聞いている。
ただ、異様な長さだった。震動は一時間経過しても収まる気配を見せないどころか、段々と激しくなっていく。街の人々は戸外に出て、家屋から距離を取り、そこここで不安げに言葉を交わしていた。貴重品の類を風呂敷包みにまとめて背負っている者もいた。そのうちに家畜が狂ったように叫び出し、いよいよ家屋も揺れはじめた。
そのときちょうど開かれていた議会は中断となり、横長の石造りの建物からぞろぞろと議員が避難を開始した。そのなかにはもちろん、リクの姿もあった。
『こりゃあ久々にデカい地震だな』
『家具が倒れてなきゃいいが』
『ま、落ち着くがいいさ。そのうち収まる』
避難誘導にあたっていたリクの耳に、そんな声がちらほら入り込んだ。
議員たちが特別呑気だったわけではない。住民の多くは妙な揺れだと感じてはいても、おおむね楽観視していた。いち早く外に出た者も、心のどこかで『大事にはなるまい』と思っていた節がある。大変だ大変だと言葉を交わす男たちも、不安そうに肩を寄せ合う女たちも、この地鳴りにどこか他人事めいた興奮を感じていたことだろう。その証拠には、外に出たリクが目にした人々の表情はどれも違ってはいたものの、それらの瞳に心底の恐怖は見出せなかった。
その点に関しては、リクもそう変わらない。じきに収まって、普段通りの生活に戻っていく様子を頭に思い浮かべていた。場合によっては瓦礫の処理が必要になるかもしれないが、そう大きな爪痕は残さないだろう。街が半壊するようなイメージはどうしても持てなかった。
第二の異変は、牛飼いの男からもたらされた。
議場となっている建物は街の中心広場の一角にある。議員たちは強さを増していく地震に少しずつ不安を示し始めていたが、全員が広場に留まっていた。この厄介な揺れが収まり次第、速やかに仕事へ戻れるように、との思いからだろう。家の心配をしながらも、実際に様子を見に行こうとする者はいなかった。
そんな広場に、汗みずくの牛飼いが飛び込んできたのである。
そして、この場の誰もが予想すらしていなかった事態を大声で叫んだ。
『街が包囲されてるぞ!! あいつらだ! 南の連中だ!!』
リクが直接目にすることはなかったが、このときブロンは轟魔卿の私兵に街の外縁を包囲されていた。マナスルとの悲劇が生じた丘から、街道や林に至るまで。唯一の例外は南方の峠だったが、そちらはそもそも包囲の必要がなかったのだろう。もし人々が峠へと逃避したのなら、まず間違いなく命はなかったのだから。
牛飼いが報せを持ってきた直後、武装した数名の男が広場へと踏み入った。黒鉄の鎧が黄昏の光を反射し、鈍く輝く様子は不吉の象徴として人々の目に映ったことだろう。リクもまた、芝生の緑を踏み散らす黒い頑強な影たちに、濃厚な不幸の気配を感じ取っていた。
兵士たちはめいめい武器を携え、横一列に広がった。すると、中央の人物がゴテゴテした鎧兜を取り、素顔を晒してみせた。
『ごきげんよう、リク伯爵』
二ヶ月ぶりに見るカーライルの微笑には、冷ややかな愉悦が滲んでいた。
彼らがなんのためにブロンを再訪したのか、理由ははっきりしている。強硬策に出たのだろう。簒奪卿の打倒のためにはブロンを中継地点とするのがもっとも有利である。食料や寝床、あるいは魔物対策をするにしても、街の協力があるのとないのとでは大きな差が出る。ブロンからシャンティの居城までは馬を使用しておよそ半日。明朝ブロンを出発すれば、遅くとも魔物が出現する真夜中までには目的地に到達可能だろう。
本気で簒奪卿を落とす。そのために強引な手段を用いてでもブロンの協力を取り付けようとしている――物々しい兵士たちを前に、リクはそのように思考を働かせた。だからこそ、カーライルに呼びかける。
『どうしても我々の後ろ盾が必要ということですね。……食料と寝床なら提供しましょう。ただし、粛清とは無関係です。生存に必要な食事と安全な睡眠を、善意によって与えるだけだと理解してください』
結論を急ぎ過ぎている、とは思わなかった。街の人々に危害を及ぼしかねないと判断しての提案である。欲しいものが得られたならば、カーライルたちが粗暴な手段に訴える動機もなくなるはずだった。ただでさえ地震が継続しており、住民の間に不安が広がっている状況である。厄介事は可能な限り速やかに処理すべきだった。
この決断が間接的にシャンティに害を為すであろうことを想像すると胸が痛んだが、善良であらねばならないというリク自身の精神的束縛は、こうする以外の選択肢をことごとく破棄させた。
リクの提案を耳にしても、カーライルは依然として酷薄な笑みを維持していた。『穏便なご判断ですな』
『この地震が収まればいいのですが、ことによると街に被害が出るかもしれません。備蓄している食料は可能な限りお渡ししますが……状況が状況です。手厚い歓迎は出来ないかもしれません』
さすがに理解してくれるだろうという思いでリクは口にしたが、返ったのは薄ら寒いせせら笑いだった。
『歓迎は求めておりませんよ、伯爵閣下。二か月前の会談はご記憶にございませんか? 貴方がたはこう仰ったのですよ。粛清には賛同出来ない、必要な助力も出来ない』
『覚えています。その意志は今も変わりません。ですから、あくまでも無関係な立場で――』
カーライルは鬱陶しそうに片手を払った。
『無関係なんて立場はない。簒奪卿による侵略は貴族社会全体の問題と申し上げたはずですよ。我々への助力を拒絶した時点で、貴方がたの立場は明確に決まったのです』
巨大な地鳴りが二度、大地を揺らした。南方の峠が赤々と染まる。カーライルの一団によって放火されたのかとリクは錯覚したが――違った。
『リク伯爵はじめ、ブロンは簒奪卿の側に立っているのです。つまり粛清対象というわけですよ』
議員たちは皆、峠を見やり、硬直していた。息を呑む音がいくつも重なる。
猛烈な熱を感じたが、リクはそれから目を逸らすことが出来なかった。
『ところで、地震と仰いましたが……ご心配なく。地面の揺れなら、じき収まりますので』
峠が燃え上がっている――そう錯覚するのも無理ない光景だった。峠の頂点にあたる箇所から天上へと、轟々たる火柱が上がっている。
火柱の中心に巨大な影があった。それは街を睥睨するや否や、素早い動きで峠を駆け降りてくる。強烈な地鳴りが、その脚の動きと連動していた。
『なんだ、あれは』
目を見開いたリクは、ほとんど無意識のうちに声を発していた。
あんな魔物は見たことがない。
小さな山ほどの巨体。十本はあろうかという脚はびっしりと繊毛に覆われている。体表の色は黒で、その全身が火炎に包まれていた。炎は峠の木々にも接しているはずだが、燃焼してはいない。
奇妙な炎に巻かれた巨大な蜘蛛――という印象は誰ひとり持たなかったろう。確かにフォルムは蜘蛛に似てはいたが、ありえない代物が、もっとも目立つ箇所で異常を主張していたから。
顔の位置に、燃え盛る頭蓋骨があった。猛進の動きに合わせ、顎をガチガチと鳴らしている。
あちこちで喉を裂くような悲鳴が起こった。
『ご紹介しましょう』
強烈な炎熱はカーライルの肌にも痛みを与えていたはずだが、彼はいたって涼しげに言った。
『あちらが我が主人――轟魔卿、ベイゼ様でございます』
街の一角を破壊し、土煙を上げて進む巨躯。それを表す言葉を、リクはひとつしか知らなかった。
化け物。