Side Riku.「妄信者回想録㉔ ~美しいものだけが~」
※リク視点の三人称です。
金色の丘に赤が咲く。刃の軌跡にしたがって。真横に。パッと。
マナスルとブロンとの間に真っ赤な線が引かれたようだった。色素の薄い草に散った深紅が、なにかを分断していたのは確かである。決して踏み越えられない一線がそこにある。
首を失った肉体が、ガクンと脱力して崩れた。迸る血液が大地に吸われていく。
誰もが硬直して呼吸すら忘れている間に、亡骸の周囲はべっとりとした粘性の赤に塗れていた。二人を斬首したシャンティもまた、返り血に染まっている。
この瞬間のことを、リクは後の人生で幾度となく振り返ることになる。湯浴みの最中に。入眠前の三十分に。早朝の清々しい空気のなかで。議会の席上で。亡き両親の墓の前で。
何度思い出しても、このときのシャンティの表情が分からない。より正確に言うなら、追憶のたびに少しずつ変化していくのだ。ときには薄汚いものを扱うような侮蔑の顔であり、また、ときには弾けるような笑顔が斬首の瞬間に再生された。怒髪天を突く怒りの表情だったときもある。あるいは、ひどく艶っぽい恍惚が浮かんでいたことも。要するに、どれも都合よくこの瞬間を解釈するために、リクがそのときどきの無意識にしたがって彼女の顔を上塗りしているのだ。そんな記憶のどこに真実があるというのだろう。なにも見なかったとはっきり確信することが出来れば却って楽なのだろうが、リクは斬首から数十秒間は、彼女から目を逸らさなかったと克明に記憶している。その瞳になにが映っていたのか定かでなくとも、視線の方向と対象だけは疑いようがないのだ。
そういう種類の記憶もある。いつか真実の記憶に行き当たったとしても、それが本当か判定することが出来ない限り、妄信以上のものになってはくれない。ただ、近頃のリクはひとつの表情を気に入っている。斬首の瞬間の表情に相応しいもなにもないだろうが、かつての彼女を知る彼にとって、しっくりと納得の出来る表情であることは確かだった。
彼女の腕に力が漲る。刃が空を走り、まず少女の首へと触れる。その刹那、シャンティの顔に浮かんだのは『あっ』という驚きの表情。少女の首が飛び、少年の首へと勢いのままに凶器が進行していく間に、シャンティの表情はまた変わっている。今度は泣き出しそうな顔。そして少年の首を飛ばした直後には、ぐっと堪えるような、悲哀の影を色濃く残した表情へと遷移する。二人の首が宙を舞い、地面に落ちる――それまでの間に、彼女の顔から表情が消えていく。深い深い奈落の穴に、感情全部が落ち込んでしまったかのような、生命感のない作り物めいた顔になっていく。
リクは斬首の瞬間のシャンティの顔を、このように振り返ることが多くなった。事実は分からない。が、少なくともそれはひとつの慰めにはなってくれた。今この瞬間、主人であるシャンティのもとへと駆ける現実のリクもまた、かつてのシャンティのひと幕を同様に振り返っていた。
分水嶺はとっくに越えていただろうが、マナスルとブロン、ひいてはシャンティとリクとが分断されている事実が異様なかたちで表面化した場面である。だからこそ、記憶の輪郭は濃い。斬首の瞬間を除いて。
一分か二分。経過した時間はそれくらいだったとリクは記憶している。シャンティはいつの間にか威圧的な微笑を湛え、腕を組んでいた。刃は配下の者の手に渡っている。返り血は拭おうともしない。
『私たちは今後一切、ブロンと関わることはない。今死んだ二人は、そのあたりのことがよく分かってなかったんだね。子供だもの。でも、仕方ないとは思わない。私たちは私たちのルールがあって、それを破ったら然るべき報いを受けてもらう。だからこれは、残酷だとか、非道だとか、そういう話じゃないの』
シャンティだけが悠然と言葉を紡いでいた。彼女以外の誰もが、たった一音の声も出せずにいる。彼女を非難する気持ちは大いにあったろうが、目の前に突きつけられた理不尽な死が、彼ら全員の口を塞いでいた。
『ブロンの人たちも肝に銘じておくといいよ。私たちの領地を侵せば同じ運命が待ってるから。でも、さっき死んだ二人のような死に様にはならないから、そのことはよく覚えておいて。この子たちみたいに、罪を雪ぐ機会なんてないよ。ただ呆気なく殺される。これまでの人生が馬鹿馬鹿しくなるくらいシンプルに死ぬ』
私はね、とシャンティは腕組みをしたまま微動だにせず語り続けた。
『清らかな人しか蹂躙しない。この子たちは罪を許されたし、そもそも盗みを働くだけの事情がちゃんとあった。だから、後悔さえすれば清らかな存在になれたの。……良い人、美しい人、正しい人、清い人、優しい人……私たちが踏みにじるのは、この世の善人だけ。だから――』
それまでブロンの人々を睥睨していた彼女の瞳が、リクにだけ焦点を絞った。口元には皮肉な歪み。
『だから、あんたたちは蹂躙しない』
このときのシャンティの宣言をその場で理解出来た者は少なかったろう。先ほどの惨殺劇が尾を引いて、ろくに思考出来ていなかった者がほとんどである。が、一部の冷静な住民たちは、彼女の言葉にひどい侮蔑を感じたはずだ。
シャンティが蹂躙するのは善人だけ。
ブロンはその範疇ではない。
善悪の根拠というものが絶対的に存在するとは、リクも思っていない。善も悪も側面でしかない。特定の物の見方であって、それですべての説明がつくというものでは決してない。
それでも。
『言いたいことはこれで全部だよ。今後一切私たちに近付かないこと。私たちも、ブロンには干渉しない。絶対にね。美しいものだけが、穢される価値を持つの』
それでも、羨ましいと思ってしまった。
それからの日々について、追憶に足るものは少ない。善的であることを自らに強い、その表現としてリクは積極的に議会に参加したし、街の問題にも取り組んだ。はじめはかたちだけの領主と見る向きもあったが、いつしか名実ともにブロンの長となっていた。
美の表現は、街への奉仕ばかりではない。剣術の鍛錬もそのひとつだった。毎晩のように、ハイデアの形見の刀――貴品を魔物相手に振ったのである。他者の意識を奪うその武器は、魔物に対しては絶大な効果を発揮した。刃がその皮膚を貫けば、たちどころに敵の肉は霧散していく。詳細なロジックはリクにも分からなかったが、人であれ魔物であれ、体内に魔力を宿している。この刀は魔力に干渉し、意識の喪失へと強制的に導くのだとおぼろげながら感じていた。
そうして何年も過ごしているうちに、ときどきはマナスルの噂も耳にするようになった。もちろん、悪い意味での話題だ。マナスルの長が周辺の土地へ侵略をかけたとか、奪った領地で好き放題しているだとか。議会でも問題として取り上げられはしたものの、実行力を伴うような結論には至らなかった。連中を咎めねばいつかブロンに火の粉が降り注ぐ、と発言した者も、本気で言っていたわけではない。単なる意思表明だ。タブーに触れるという姿勢を見せることに意味がある。議員たちもそれを理解しているから、そうだそうだと同調の台詞が飛び交うものの、実際にマナスルへ警告を送るといったような意見は出なかった。仮に踏み込んだ発言があったとしても、リスクが高いだとかなんだとか言って封殺されたに違いない。要するに、人々の記憶にはいまだに夕暮れのひと幕が焼き付いていたのだ。駆ける刃と舞う首は、ブロンの人々にとって恐怖の象徴として刻まれていた。
にもかかわらず、『聖印紙』についてはこれまで同様、慎重に取り扱われていた。何名かはその紙片を焼き払うか破り捨てるかしたが、ごくごく一部である。悪逆非道はシャンティのみであって、彼女の父であるダヌに罪はなく、したがって『聖印紙』にも正しい効能があると信じられていたのだ。
人は信じたいものを信じる。実態以上に。
三十代に差しかかって、リクもようやくそれが自分事として首肯出来るようになっていた。
ハイデア――父の苦労を、多少の抵抗はあれども振り返ることが出来るようになったのも、この頃である。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて




