Side Riku.「妄信者回想録⑲ ~楽園の終わり~」
※リク視点の三人称です。
或る街を想像してほしい。山裾に少しばかり食い込むようにして作られた、石畳の街だ。頑健な石造りの家屋から木造のシンプルな家までバリエーションがあり、中心地には服飾や雑貨、レストランまで揃っている。街外れには農地が広がっており、家畜の類も豊富。その街の領主は代々の貴族であり、これまで一度たりとも血を絶やすことなく、一族で街を守ってきた。古くからの慣習を保ちながらも、柔軟に街を発展させてきた労苦は計り知れない。夜ごとに襲い来る魔物への対処から、街に蔓延る病苦の対策、あるいは議会の運営などなど……。苦難と発展の歴史的象徴が、営々と続いているその貴族なのだと誰もが思っている。
そんな街。
隣の村は同じく貴族が運営しながらも窮乏著しく、交易という名の慈善行為に頼っている街。愛すべき隣人のために手を差し伸べるという行為に優越を感じるのは不思議なことではない。裏返せば、隣人を高所から見下ろしているとも言える。もちろん、誰もが常にそのようなプライドを誇示しているわけではない。ほとんどの場合、表面化はしないものだ。心の奥底――あるかないか分からないほど輪郭の溶けた闇のなかに、そうした感情が隠れていたりする。ごく当たり前のことだ。
ところで、誇り高い自分たちの街の長がなかなか子孫を残せずに、あろうことか隣人の子を授かって次の領主にするなどと言ったなら、どうだろう。強烈な非難と拒絶を浴びるに決まっている。それほどの事態ともなれば、優越感が牙を剥いてもおかしくはない。隣の村への交易を差し止めるどころか、攻め落とそうと考える輩も出てくるだろう。なかには、密かに血生臭い行動に出る者もいるはずだ。
それら反発をどうにか軟化させ、忌まわしい出生の経緯を持つその子を次期領主として広く認めさせることがどれほど困難な道のりか、想像してほしい。
リクは何度もそれを、想像することになる。むろん、十五歳の少年であるところの彼には思いもよらぬことではあるが。ましてや父の告白を耳にしている最中、ずっと空想の世界に閉じこもり続けている少年には望むべくもない。
『俺は多くのことを間違え続けてきたんだろう。今にしてそう思う。リク……お前になにもかも隠していたから、こうなってしまったんだ。ダヌさんが亡くなったのは紛れもなく事故だが、それでも俺に責がある』
ハイデアの声はひどく落ち着いていた。消沈した雰囲気はない。もっとも、リクがそれを意識することはないのだが。
続いてハイデアが一枚の古びた紙を檻の前に掲げてみせても、やはりリクの意識を刺激することはなかった。彼はこのとき、空想の雪原にいた。シャンティと二人だけの世界に埋没していた。
『見ての通り、これは聖印紙だ。お前が破り捨てなかった、最後の一枚だ。これが誰の聖印紙なのか……母さんのものなのか、お前のものなのか、それは俺にも分からん。そもそも、どれも似ているからな。分ける必要もなかった。ただ、俺の聖印紙ではない。そうだろう? なにせ俺は、多くの間違いを犯してしまった。そんな男が死後、楽園に行けるなんてのはおかしな話じゃないか』
まるで楽園みたいだ、とリクは言う。吐く息は白い靄になって、空気に溶けていった。
横たわる背中が冷たくて、けれど不快感はない。むしろ凍てつくような温度は、何者にも穢されない透明感を世界にもたらしていた。
リクの隣で、同じように横たわっているであろうシャンティの声が届く。雪に相応しい、凛とした音色だった。
ここだけが楽園なんですよ。
『俺は死の国で責め苦を味わうだろう。それでいい。それでいいんだ。俺がいかにお前を愛していようと、いかにお前のためを思って努力しようと、起きてしまった間違いを帳消しには出来ない。そういうものだ。母さんはもう、とっくの昔に楽園に行っている。聖印紙の効力はない。だから、破れてもさして問題ではないんだ。そう考えると、この聖印紙が誰のものか――いや、誰のものであるべきかは自然と分かってくる。大丈夫。リク。大丈夫だ。どんな間違いを犯そうとも、お前はちゃんと救われる。だから、救いに相応しい人生を送ってくれ』
ここが楽園なら、ずっとここにいたい。
リクは目を閉じた。瞼の裏に雪景色が浮かぶ。その中心でシャンティが微笑している。
『リク。お前を愛してる。だからこそ、本当に、すまないことをする』
シャンティ。おれは君のことを――。
リクの空想の世界は、時間が止まったまま展開されていた。初雪の一日が、途方もなく長い時間続いていた。空想において時間は大した意味を持たない。シャンティとリク。二人だけで完結した世界なのだから、一時間、一日、一週間――そのような時間の区切りなど必要なかった。思い通りに推移していく世界において、不要物は排除される。
しかしながら、実時間は確かに流れていく。
いつしかハイデアは檻の前から姿を消していた。リクが破り捨てることの出来なかった聖印紙も、どこにもない。
どれほどの時間が経過したのか、空想の世界に暮らすリクには分からなかった。慌ただしい靴音を鳴らして複数人の男たちが現れ、リクを地下の檻から担ぎ出したときにも、彼は現実世界を意識していなかった。それから間もなく、空腹のせいか気を失うまで、ずっと彼は夢を見ていたようなものだった。
気絶する寸前に聞こえたシャンティの言葉を、リクは鮮明に思い出すことが出来る。痛々しいほど強く、脳に焼き付いているから。
――ごめんなさい、リク。私は貴方のお姉さんなんです。だから、恋人にはなってあげられない。
その前にどんな言葉を自分が口にしたのかは、覚えていなかった。
夢のない眠りから覚めると、リクは自室のベッドにいた。覚醒直後の彼が懐かしさを感じたのは、部屋にマルタの姿があったからだろう。寝坊した日には、彼女が掃除する物音で目覚めることがよくあったから。
時間が過去に巻き戻ったのかと思ったが、そうではない。きっちり十五年分の時の流れが、彼にもマルタにも、その他一切にも確実に降り積もっている。
目覚めたリクと目が合った瞬間、マルタは号泣した。そしてしきりに、よく分からない言葉を叫んだ。
『良かった! 坊ちゃん……本当に、本当に良かった! もう目覚めないかと思って、気が気じゃなくって……! 坊ちゃんまでいなくなってしまったら、もう、どうしようかと……』
リクはぼんやりと、意識を失う直前のことを思い出していた。そして、あの心地よい空想の世界に再び入っていきたいと強く願った。
しかし、上手くいかない。
どんなに細かに思い浮かべても、あの沼地に、あの部屋に、あの水面に、あの雪原に入っていけないのだ。単に記憶をなぞるだけで、体験することは出来なかった。檻に閉じ込められていたあのときには、本当に空想の世界を生身で味わっているような、そんな感覚だった。
甘く優しい世界は、もう自分に手招きしてくれない。
胸を貫く切なさだけが、今の彼にとっての現実だった。
『坊ちゃん。落ち着いて聞いてください』
マルタの声がして、リクはぼんやりと頷いた。自分は落ち着いている。これ以上ないほど、現実の物事が小さく思える。感情が動く兆しもない。
そう感じていたのに、マルタのひと言で、彼は強く感情を揺さぶられた。
『ハイデア様が、お亡くなりになられました。……自殺です』
大切なことは全部、マルタが教えてくれる。いつだってそうだった。
そのとき自分がどんな表情をしたか、リクはどうしても思い出せない。意識する余裕がなかったのだろうと思う。
心の奥で沸騰する喜びに耐えるので精いっぱいだったから。




