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花嫁騎士 ~勇者を寝取られたわたしは魔王の城を目指す~  作者: クラン
第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」
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Side Riku.「妄信者回想録⑰ ~沼地の秘術~」

※リク視点の三人称です。

 リクは空想の景色に没入(ぼつにゅう)していた。ありえたかもしれない世界の筋書きをなぞることは、彼にとって意義深い仕事だったのである。そして甘美な娯楽でもあった。現実の自分が地下室の檻に閉じ込められていることなど些細(ささい)な問題だったし、ましてや鉄格子を(へだ)てて滔々(とうとう)と語り続ける男の言葉に、一秒だって意識を(わずら)わされたくはなかった。


 ハイデアの言葉は耳を通過していくだけだった。それなのに一言一句(たが)わず正確に思い出すことが出来る。何年経過しようとも、鮮明に。リクはこのときのことを追憶するたびに、思い出の明度に少なからず戸惑(とまど)いを覚えるのだった。あのときの自分は確実に空想の世界に(ひた)っていて、しかし、意識の余白に父のための場所を用意していたのかもしれない。そんなふうに感じて、吐息を深くするのだった。




『俺は母さんを連れてマナスルに向かった。その道中も、母さんは心ここにあらずといった様子だったよ。荷車に乗せた交易品の(あいだ)で、どこを見ているのか分からない眼差しが揺れていた。何度も話しかけたが、なんの返事も寄越(よこ)してくれなかったよ。といっても、その(ころ)は母さんが喋らなくなって久しかったから、そう不思議にも思わなかった。ただ、街を離れてもなにひとつ問題は解決しないのだろうと、漠然(ばくぜん)とした諦めを感じただけだった』


 空想のマナスルは美しかった。深い霧に(おお)われた沼地の村であることには変わりなかったが、リクの描いたその土地には(けが)れを感じさせる要素が消えていたのである。村は静まり返り、空気は透明な湿りを()びている。繁茂(はんも)した苔を踏むと、やわい感触に足裏が喜ぶ。沼の(おもて)()んでいて、けれども白濁(はくだく)した靄に包まれて一定の深さ以上は見通せない。


 現実のマナスルは腐臭(ふしゅう)がそこここで立ち込めており、しょっちゅう悲鳴じみた鳴き声で鳥が叫ぶ。沼は間近で見ると薄まった泥の色でしかなく、遠目からは霧と溶け合って灰色に映る。水面には無数の羽虫が飛び()い、水際にはところどころあぶくが溜まっている。ほとんどの家屋(かおく)は湿気に負けて、壁も柱もぼろぼろに腐り落ちている。


 そうしたマナスルの細部は巧妙に隠されるか、あるいは空想らしく修正されていた。なんの加工も(ほどこ)されていないのは、ただひとり、シャンティだけだった。彼女は現実の彼女のままで充分だったのである。夢想に(かな)う美しさだった。


 リクはいつしか、空想のマナスルでシャンティと同棲(どうせい)していた。同じ物を食べ、同じものを見て笑う。それだけの日々が続いていたのである。


 空想の情景において、ほかの村人はほとんど登場する機会さえなかった。シャンティとリク。それだけで世界が完結していた。二人を取り巻く社会などというものは、なんの必要性もなかったのである。


『マナスルに入っても、母さんに変化はなかった。別の土地の空気に触れるだけで恢復(かいふく)するなんてのは、(はかな)いアイデアだったというわけだ。とても残念だったが、あまり落胆(らくたん)もしなかった。母さんのためになにかをしているというだけで、いくらか気が楽になったのかもしれない。あるいは、たとえ恢復に(いた)らずとも、母さんのために出来ることがまだ残されていて、その希望に向かって直進出来る自分が誇らしかったのかもしれないな。そのあたりの気持ちは自分でもよく分からない。リク。お前にだってそういうことはあるだろう? 振り返ったところで、どうにもはっきりしない感情があったりするんじゃないか?』


 分からないことなどなにもなかった。空想のマナスルはどんな違和感も(かか)えていない。完璧な世界が()り、完璧な時間が流れていた。二人は一緒に魚を獲り、料理し、食べる。同じ歩調で散歩をし、(おだ)やかなリズムで言葉を交換し合う。


 彼女の服は(つね)に純白で、染みひとつなかった。


『ところが、だ。しばらくして母さんに変化があった。そのときのことはよく覚えている。交易について俺とダヌさんが話している最中、音が聴こえたんだ。かなり断片的な音だったが、それが母さんの声だということはすぐに分かったよ。そのときは交易品を引き渡し終え、外で立ち話をしていた。母さんは(から)っぽの荷台で横になっていたはずだった。それが、いつの()にやら地面に座っていた。(ひざ)(そろ)えて、背筋を伸ばして。驚いたことに、瞳の様子も変わっていた。かつての母さんと同じ、意志のある目だった。少し前の、あの夢を見るような目付きはどこにもない。夢を見ていると言えば……いや、なんでもない』


 散歩の途中、シャンティは沼の水面に素足で触れた。そっと。それから水面を踏みしめ、もう片方の足も同じように、透明な液体の上に乗せる。


 彼女は水中に立ち、岸辺のリクへと手を伸ばした。


『そのとき母さんが言ったことを、そのままお前に伝えよう。一言一句覚えている。信じるかは別として、嘘はないと誓う。……わたくしはブロンに住むモリーと申します。ハイデア伯爵の妻にございます。大変不躾(ぶしつけ)なこととは存じておりますが、この(たび)、お願いがあってマナスルまで参りました。どうか、どうか、わたくしに子供を授けてください。それだけがわたくしの役目なのです。ブロンの医師によれば、わたくしは決して子供を持てない身体だそうです。わたくしの肉体は、血を()やす呪われた代物(しろもの)なのです。夫と結ばれる前にこのことを知っていたなら……。夫はわたくしを愛してくれております。わたくし以外にはいないのだと(おっしゃ)ってくれます。もしわたくしが死んだならば、終生、別の者を(めと)ることはないとまで仰います。それだのに、わたくしは、ままならない身体で――』


 リクはシャンティの手を取り、彼女と同じように水面へと踏み出した。


『秘術のことは知っております。子を()すためにすべきことも知っております。払うべき犠牲がわたくしの命であることも、充分に心得ております。わたくしがたとえ子を産んだとしても、夫の子だと認められはしないことも分かっております。それでもわたくしは、偉大な伯爵家のために、夫のために、子供を授かりたいのです。お願いします。どうか、お願いします。わたくしに秘術を施してください。お願いします……』


 二人は水面を歩く。手を繋ぎながら。ときおり踊るようなステップで。


 シャンティが小さく跳ねると、魚が一緒になって水上へ(おど)り出た。銀の鱗がひとひらの(きら)めきを空中へ投げかける。


『俺はなにも知らなかった。母さんが自分の身体を医者に見せたことも、その診断結果も、なにも知らなかったんだ。……面食(めんく)らったよ。なにも言えなかった。ただ突っ立ったきり、馬鹿みたいだった。そうしているうちに、ダヌさんが、母さんの申し出を断ったんだ。そんな秘術などない、と。しかしね、母さんは納得しなかったんだよ。何度も何度も頭を下げてお願いした。途方(とほう)に暮れたのかなんなのか、ダヌさんは俺を家の裏手まで引っ張っていった。そのときもまだ、俺は呆然(ぼうぜん)としていたよ。母さんの苦しみをこれっぽっちも分かっていなかった自分を見せつけられたようなものだったからな。だから、ダヌさんの言葉もほとんど聞いていなかった。彼は、誰にも聞かれないよう声を忍ばせて、俺に何度も(ささや)いたんだ。秘術は本当にあって、母さんの想像している通りなんだと。しかし命を奪うことは出来ないから、どうにか彼女を(なだ)めてくれと。ようやくダヌさんの言葉の意味が飲み込めたとき、俺は妙なことを口走っていた』


 二人は沼の中心まで来ると、どちらからともなく両手を繋ぎ、踊った。ステップを踏むたび、波紋が綺麗に広がっていく。リクとシャンティの描く波紋はそれぞれ、ぶつかることなく拡散していくようだった。


『秘術を授けてください。でなければ交易を差し止めます』


 幸福だった。


『俺はそう言っていたんだ』


 なににも代えがたく。

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