Side Riku.「妄信者回想録⑯ ~罪と悲劇と幻想と~」
※リク視点の三人称です。
それからハイデアは、実に多くのことを語った。薄闇のなか、リクはかつて父親だった男の口から縷々流れる言葉の数々を黙殺した。
リクが一週間近く眠り続けていたことや、昏睡の原因がハイデアの持つ貴品――意識のみを奪い去る刀によるものであることも明かされたが、まったく興味を持てなかった。もうなにもかもが終わったのだという無関心だけが、彼の心を包み込んでいたのである。
もしあのときハイデアを殺せていたなら。そんな空想ばかりが浮かんでくる。
父親を騙った男の血だまりに立つ自分。真っ赤な足跡は、確かに、罪と狂気を表明しているように見える。それは返り血よりも生々しいものだと、リクには思えた。血の足跡は一定の歩幅で進んでいく。廊下を突っ切り、階段を上る。それらは常に、血だまりからの最初の一歩のようにべっとりと濡れていた。現実にはそのような事象は起こりえないのだが、リクの空想では、そうあらねばならなかった。
やがて足跡は、シャンティの部屋へと続いていく。そこにいるのは彼女だけだ。ダヌの亡骸も、慌てる老婆の姿もない。長身の清らかな女性がひとり、床にへたりこんで泣いている。顔を覆って、とても静かに泣いている。
『母さんの話をしよう』
ハイデアの声は、耳を通り抜ける自然音だった。空想の情景だけが、今リクの琴線を震わしている。
リクさん、とシャンティは言う。顔を覆ったままだったが、その声に曇りはなかった。続けて彼女は、ぽつぽつと雨だれのように、実の父親を殺してしまったと告げる。あんなにも愛していたのに。あんなにも尊敬していたのに。
『母さんのことはマルタから聞いたそうだな。お前にとってはとても残酷な内容だったろう。俺を憎むのも無理はない。結局のところ、母さんが犠牲になることを受け入れてしまったんだから』
同じだよ。
泣き暮れるシャンティに、リクは言う。
おれも同じだ。おれも、父親だった男を殺した。
パッと顔を上げたシャンティと、視線が交差する。潤んだ瞳のなかには果てしない湖面が広がっていた。そこにリクの姿は反射していない。空想のなかでなら、ありえないこともこんなにも大らかに受け入れられる。
『マナスルの秘術を、俺は信じていなかった。その地の長と……交われば……子を宿す。そんな馬鹿げた話があってたまるかと、そう思ったし、母さんに対して直接そう言ったさ。迷信に惑わされるほどに母さんが消耗していたのは傍目からも分かったし、継承者を作れずにいたのは母さんだけの責任じゃない。俺にも同じだけの責任がある。……いや、違うな。取り繕うのはやめにしよう。俺は、自分のことばかり考えていた。母さんの苦しみなんて少しも分かってやれなかった』
シャンティの右目から、すう、っとひと筋の涙が流れた。あれほど泣いていたのに、それは感涙の最初の一滴のように、なんの濁りもない見事な雫だった。
ダヌもハイデアも、悪党だったんだ。シャンティ。君の苦しみや愛や敬意は本物だけれど、それと同じくらい確かに、奴らは邪悪だった。穢れていた。だから、おれたちのやったことは全部正しい。悪党を討ったなら、それは正義なんだから。
シャンティは儚げに、視線を床に落とした。彼女がリクの言葉に抵抗を感じていることは、ほかならぬ彼自身よく承知している。受け入れがたいだろう。しかし事実なのだ。積極的に認められない物事であろうとも、なかったことには出来ないし、ときには直視して乗り越える必要もある。
幸福とは、苦難の道に咲く一輪の花である。
そんなフレーズを、なにかの本で読んだ記憶があった。実に的を射た言葉だと、リクは空想の情景のなかで頷いた。
『秘術なんてのは口実で、別の男に惹かれているのだと言っているように聞こえたんだ。子供が今後、永遠に産まれないとは言えない。お互いに寿命は長いのだから、根気よく、余裕を持って挑むべきだと考えていた俺は、母さんが奇怪な秘術を本気にしているだなんて露とも思わなかった。だから、ただただ傷付いたんだよ。誰よりも憔悴しているのは母さんのほうだったのに、俺は俺の哀しみばかりに取り合ってしまった』
シャンティ。おれたちは同じだ。同じ境遇なんだ。お互い、ひどい男のせいで母親を亡くしている。どちらのほうが辛いとか、より哀しいとか、そういうことではないんだ。まったく同じなんだ。だから、お互いに協力して生きていこう。おれの苦しみを分かち合えるのは君だけだし、君の哀しみを一緒に背負えるのもおれだけなんだ。
シャンティは堰を切ったように泣き出し、リクはそんな彼女をひしと抱き締めた。
赤い足跡が、リクの背後にも、シャンティの背後にも続いている。それらは憎悪と穢れを断ち切ったことの証明なのだ。第三者からはいかに罪深く見えようとも、当人にとっては解放の証である。そして、二人を結ぶ紐帯でもあった。
罪と悲劇で繋がった者同士は決して幸福になれない。そんな道理はどこにもないはずだ。
『母さんは何度も俺をマナスルへと引っ張っていこうとした。秘術の話を聞きに行こうと。……愉快な気分にはなれなかったよ。ただただ憂鬱だった。そんな日々が続いていくうちに、母さんの目は曇っていって、どこを見ているのかも分からなくなった。始終夢を見ているような、そんな雰囲気だったよ。食卓に座ってもぼんやりしてるばかりで、食べようともしない。俺や家政婦が代わりに匙を口に運んでやって、ようやく、自分が食事をしてると気付く始末だ。その気付きも、何秒も経たないうちに忘れてしまうようで、またぼんやりしてしまう。そのうち、母さんはベッドから起き上がらなくなってしまった。横になって、昼も夜も目を開けている。眠っていないようだった。いや、どうだろう。目を開けたまま、常に眠っていたのかもしれない。俺はどうすればいいのか分からなくなった。医者に見せても首を捻るばかりで、一向に解決の糸口が見つからない。そんな時間が二年も三年も続いた』
リクはいつしか、マナスルの長の家――事実上、シャンティの住まいに寝起きするようになった。折り畳んで収納する寝具を並べて、いつも同じタイミングで眠り、同じときに目覚めた。
おはよう、シャンティ。
おはようございます、リクさん。
目覚めた彼女の瞳には、涙の名残がある。夢を見たらしい。それが幸せな夢だったのか、それとも怖ろしい夢だったのか、覚めたときには忘れているのだと彼女は言う。だから、夢がもたらした涙の理由は、リクにとって永遠の謎だった。シャンティが苦しんでいるのならそれを取り除きたいと、常々思っている。しかしながら、当人さえ理由の分からない涙に対し、出来ることなどなにもなかった。
だから笑うのだ。目覚めの笑顔を、彼女に贈るのだ。そうやって一日がはじまる。人生の続きがはじまる。苦しみと哀しみのあとの余生が、続いていく。
『ある日、マナスルへの交易品の運び手が事故で足を折った。屋根仕事をしている最中に、眩暈がして落ちたらしい。間の悪いことに、明日が交易品を届ける日取りになっていた。代わりの者を見繕うことは簡単に出来たが、ふと、思ってしまったんだ。俺が直接出向こうと。母さんを連れて。……なに、ほんの気まぐれだ。もう随分長いこと、母さんはマナスルのことなんて口に出さなくなっていた。何年か前に母さんが憑かれたように叫んでいた秘術のことが頭に浮かんだのさ。街から出れば空気が変わる。空気が変われば、体調だって良くなるかもしれない。そんな目論見だった』
清々しい空気だ。
ええ、本当に。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて