Side Riku.「妄信者回想録⑭ ~元凶~」
※リク視点の三人称です。
リクがシャンティへと突きつけた事柄が、ダヌによって肯定された。父親のことを『美しい』と公言する娘にとって、父が自らを殺人者であると認めるのは、いったいどのような感情を喚起するものだろうか。失意、憎悪、悲哀……そのどれが軸になっているにせよ、ねじれがありそうだった。いくつかの感情が不均一にブレンドされているとも言える。なんにせよ、のちのリクにとってもそのときのシャンティの感情を推察することは出来なかった。ときおりこの瞬間の光景がフラッシュバックし、解きえない彼女の感情が心に爪を立てる。決まって苦々しい思いを呼び起こす追憶に、ふと心地よさを感じるようになったのは、彼女があまりに変わってしまったからだろう。多くの血族は侵略者としての彼女しか知らない。ただ、自分だけは、遥か遠い過去に閉じ込められた彼女の姿を知っている。その意識が甘い優越をもたらすのはごく自然なことであろう。
シャンティの身体から流れ出した液体は、リクの背後に立つダヌを襲った。身の危険から、リクがほとんど無意識に壁際まで退避したのはやむをえないことだろう。迸った灰色の液体がなんであるか、彼は知らなかった。後年に至っても謎のままであった。ただ、それが暴力性を持つ不吉な物質であることだけは、論理を介すことなく理解出来ていた。
リクは壁に背を押し付け、目の前の異様な光景を凝然と見ていた。
粘性の液体はシャンティから離れ、ダヌの首に巻き付いている。
きつく。
呼吸が不可能なほど。
ダヌの口が開閉し、言葉にはならない声の滓が漏れ出ていた。
『お父様!!』
いっとき呆然としていたシャンティが、我に返って父へと縋りつく。その首に巻き付いた液体に触れる。
『やめて! 嫌! 駄目!!』
シャンティはぼろぼろと涙をこぼしながら、なんとか液体を除去しようともがいていた。が、それは彼女の手をすり抜けるだけである。彼女が触れた部分だけは液体として在り、そうではない箇所――ダヌの首に接触している部分は、堅牢な固体であるようだった。
『やだ……やだ……死なないで……』
嗚咽交じりの叫びが空気を震わす。
ダヌの首を絞め続ける物体は、紛れもなくシャンティの能力である。ただ、それは彼女の制御下にはなかったのだろう。もしかすると、異能が発現したのはこのときが最初だったのかもしれない。いずれにせよリクに分かったのは、シャンティは決して父を殺そうなどとは思っていなかったという点だけだ。いかに他人の感情の機微に疎くとも、叩きつけるような絶望の叫びを誤解する彼ではなかった。
ダヌの腕がゆっくりとシャンティに回された。ときおり痙攣する腕のなかで、彼女の嗚咽が慟哭に変わる。短く太いその腕が、彼女の背中を探るように上り、後頭部をひと撫でした。
それが最期だった。
目の前で人が死ぬのを目にするのは、リクにとって生まれてはじめてのことだった。先ほどまで呼吸をし、声を発し、娘を抱きしめた存在が、一個の物体へと変わる。死に際のダヌは確かに生きていて、しかし今は死体と言うほかない物体だった。生きていることと死んでいることの中間はないのだと、そのときリクは悟った。生きていた生命体は、ある瞬間に死んだ物体になる。双方の状態はあまりにもかけ離れているように感じた。ほとんど同じ姿であるのに、まるで違っていた。
父の亡骸を抱いて泣くシャンティを視界に収め、リクは動けずにいた。声も出ない。呼吸だけが粗く不揃いに繰り返されている。
おそらくは、恐怖していたのだろう。一個の死に対して。死という物理的な現象に対して。
階下で慌ただしい足音が響く。それらは家屋内のあちこちを騒々しく巡って、やがてこの部屋までやってきた。
廊下へと続く土色の厚布が開かれる。マナスルに訪れる際には決まって案内をしてくれた老婆が、そこに立っていた。
『ダヌ様!!!』
老婆が村の長へと縋りつく。そしてシャンティに事の次第を詰問していたが、ただ慟哭があるばかりだった。
じき、村の人々が集まってくるだろう。そして長の死を目にし、すべてをあるがままに知るに違いない。シャンティが今日この日のことを偽るなど、考えにくいことだった。自分が殺してしまったのだと白状するだろう。
急場凌ぎにしかならないかもしれないが、リクは自分に矛先を向けることに決めた。殺害したのは自分なのだと告白すれば、シャンティは不利にならない。たとえ彼女が――きっとそうするだろうが――真相を語ったとしても、リクを疑う者が居続ければ多少の容赦は見込めるだろう。
大きく息を吸って立ち上がったが、しかし、目論んでいた言葉を発する機会は失われた。
『これは、どういうことだ』
金の短髪。痩せこけた姿。父親――否、偽の父親が部屋に現れたのである。
すべての悲劇がこの男、ハイデアにある。リクの頭と心に宿った想念は、瞬時に燃え上がった。憎悪の炎熱が喉元をせり上がってやまない。
『お前が殺したんだ! お前が母さんも父さんも殺したんだ!!』
唾が飛沫となって散った。もしこの場に凶器と呼べる物があったなら、リクは迷わず手に取り、ハイデアへと振るっただろう。ただ、幸か不幸か、手の届く範囲にそれらしい物体はなかった。代わりに殴りかかったのは、ごく自然な流れである。
拳を回避したハイデアは、厚布もろとも廊下に転がり出た。部屋と廊下とを区分する布は、天井付近で哀れに裂けてしまったが、そんなことはおかまいなしである。
リクは倒れこんだハイデアに飛びかかった。無我夢中で。そのまま馬乗りになって心ゆくまで殴ることばかり考えていた。が、ハイデアは素早く身を起こし、リクから距離を取った。
『落ち着けリク! 自分がなにを言っているか分かってるのか!! 勝手に邸を抜け出して、挙句――』
『うるさい、殺してやる!!』
『父に向かってなにを――』
『お前は父親じゃない! 父親なんかじゃない! ただの他人だ! 親のふりをした他人だ! みんなを不幸にするだけの悪党だ!』
ハイデアを追って階段を転げ落ちるように降り、狭い廊下を進み、部屋部屋を横切りながら、リクは叫んでいた。声を張り上げるにつれて、殺意が上昇していく感覚があった。
シャンティが実の父親を殺してしまったことも、自分が全存在を否定されたように感じたのも、すべてハイデアに起因していると信じてやまなかった。それ以外のことなど、考える余裕がなかった。
室内を進む途中、ふと、台所が目に入った。ほとんどなにも見えていないような状態であるのに、その場所だけははっきりと認識出来たことに、リクは運命的なものを感じた。殺さねばならない。殺すのが宿命なのだ。もし神がいるのなら、そいつは自分の背中を押している。もし死後の世界があるのなら、ハイデアは永遠に救済などされない。
鉈を手に取り、リクは軽く空を切り裂いた。
手に馴染む。
躊躇いはない。
『ハイデアァ!!』
怒声を張り上げて廊下に出た瞬間だった。
銀に煌めく刃がリクの首を一閃し――憎悪に燃える意識の一切が、その瞬間に消え果てた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




