Side Riku.「妄信者回想録⑫ ~呪いの隠語~」
※リク視点の三人称です。
『――』
誰かの声がする。
とても近くで聴こえるのに、不思議と遠さを感じた。遠ざかっていた意識が回帰する歩度が――すなわち精神と現実との距離が縮まっていくことによって、肉体の捉える音が正しく響くのだろうと、のちになってリクは振り返ることになるのだが、むろん、この瞬間はそんなことを考えはしなかった。
目を開けると、泣きそうな顔がすぐそばにあった。
目が合う。
長い睫毛が上下する。
それから、目の前の顔は冗談のように歪み、崩れた。ぼろぼろと零れる涙がリクの顔を濡らしていく。天から降り注ぐ雨の記憶がリクの頭に蘇った。
『……シャンティ』
リクの声はひどく掠れていた。ほとんど聴き取れないほどの声量だったにもかかわらず、目の前の女性――シャンティにはちゃんと聴こえたらしい。分かってる、と言わんばかりに頷いた。
『良かったです。本当に。死んでしまうんじゃないかって、私――』
彼女は顔を覆い、本格的に嗚咽をはじめた。荒い吐息が涙に乱される様子から、どうやら本気で心配し、哀しみ、安堵したらしい。
そんな彼女を眺めていても、リクの心には小さな波も立たなかった。静かで、安らかで、ほんの少し寂しい気持ちに浸されていたのである。
そんな曖昧な感情に包まれながら、リクは段々と周囲の現実を認識していった。ここがシャンティの私室であること。意識を喪失する前に自分が溺れたのが、おそらくはマナスルの沼であること。水中で自分の腕を掴んだ華奢な手指のこと――。
『君が……助けてくれたのか?』
シャンティは顔を覆ったまま、小さく頷いた。
『……ありがとう』
感謝を口にしながらも、どこか心に引っかかりを覚えた。
ありがとう。
なにが?
なにがありがたい?
生き延びたこと?
シャンティが自分を救い上げてくれたこと?
自問の連続によって、自分が現実に対してもはや絶望してしまっていることを思い知った。死にたいとは思わないが、生き続けていることを喜ばしくは思えない。
虚しい。
一切が虚しくてたまらない。
シャンティがそばにいるということに歓喜出来ない自分が呪わしい。
『シャンティ。聞いてくれ』そう呼びかけると、シャンティは目を擦り、リクを見つめた。『おれは、おれの父は――』
声が、喉の奥で詰まった。心臓がどくどくと生々しい鼓動を伝えている。
心のどこかで、『言うな』と叫ぶ声があった。言ってはいけない。呪いを分けるような真似をしてはいけない。彼女まで地獄に引きずり込んでどうする。しかし、ああ、シャンティは、全部を承知しているのかもしれない。なにもかも分かったうえで今まで接してきたのかもしれない。
リクはゆるく口を開けたまま、呆けたようにシャンティをじっと見つめた。その間も、脳内で声の群が旋回している。
――シャンティはいつか、冗談のようにおれのことを弟みたいだと言ったことがある。あれは本当に、言葉通りの意味で、冗談でもなんでもなかったんだろう。やっぱりシャンティは知っていたんだ。おれの母がダヌの子を宿したことを。秘術? 秘法? 穢れているじゃないか。他人の女を姦通してなにが奇跡だ。そんなものは悪だ。不正だ。呪いだ。おれは、どす黒く馬鹿馬鹿しい妄信の畸形児じゃないか! とんだ阿呆だ。父のことを間抜けだと思って見下してきたが、このおれこそが妄信の結晶だったんだ。もとより、道化た乱痴気がおれの由来だったんだ。組成だったんだ。泥の底を這いまわる、目を持たない奇怪な魚より、ずっとずっと醜い存在。それがおれなんだ。生きている限り絶対に雪ぐことの出来ない穢れなんだ。
『リクさん?』
シャンティが心配そうな表情で、彼を覗き込んだ。
美しい、と思う。稀有だと思う。神々しくもある。
しかし、もしシャンティがすべて知っていたのなら、それさえ虚飾になってしまう。と、リクは本気でそう思っていた。彼女もまた真実を隠す者であるならば、ハイデアはじめブロンの人々と同じ黙契に従い、徒党を組んでリクを欺いたことになるだろう。それがやむをえないことであり、却って優しさの表明だという考えを彼は持てなかった。
『リクさん。ゆっくり休んでください。こんな雨の日にマナスルに来るなんて……。ひとりで来たんでしょう? 温かい飲み物を淹れますので、待っていてくださいね』
なぜリクが村に来たのか、シャンティは問わなかった。横臥する彼を刺激しないよう、ゆっくりと立ち上がって部屋を出ていった。
厚布の先にシャンティの姿が消えると、リクはゆっくりと身を起こし、深く息を吐いた。少し頭痛がする。しかし、溺れたにしてはささやかな変調だった。耳にも鼻にも、多少の違和感がある程度である。視界は良好。そして不思議なことには、衣服のどこにも濡れた形跡はなく、泥汚れも付着していなかった。まさか、雨中を彷徨したのは夢ではないかと訝ったが、取れたボタンやズボンの膝の裂き傷はそのまま残っており、一切が現実であることを物語っていた。
『あら……起きて大丈夫ですか?』
湯気の立つ木製のコップを手に戻ってきたシャンティが、心配そうに言った。彼女はリクの隣に腰を下ろし、彼の手にコップをそっと渡す。華やぐ香りが鼻腔をくすぐった。
『もう、大丈夫だ』
紅茶を口に含むと、自然と身体がほぐれていく感覚になった。
それがシャンティにも伝わったのか、彼女は穏やかな口調でたずねる。
『少し落ち着きましたか?』
『おかげさまで』
『良かったです。今日は泊まっていってください。この雨では帰るのも危険ですから』
シャンティが部屋の隅の木机に目をやる。リクの視線もそちらに吸い寄せられた。
年季の入った置時計が、五時を指している。
確か、とリクは記憶をたどった。確か、領主の邸を出たのは昼前だった。
『おれは、何日寝てたんだ……?』
『? 一時間か、二時間か、そのくらいですよ』
つい数時間前には溺れて意識を喪失したらしい。それしか経っていないことが、リクには信じられなかった。たった数時間で身体にも服にも水の名残が消えるものだろうか。
『君が乾かしてくれたのか?』
シャツの袖をやんわりと掴んで、問う。するとシャンティは、なにやら楽しそうに笑った。
『そうです』
『どうやって?』
『それは――秘密です』
ふふ、と声に出して彼女が笑う。シャンティがそんなふうに笑ってみせるのはなかなか珍しいことだった。普段は微笑くらいのものだから。
以前のリクなら、彼女の新たな表情を知って喜んだことだろう。しかし、もうそんな気持ちにはなれなかった。なによりシャンティの発した一語が、彼の心に爪を立てたのである。
『秘密……また秘密だ』
その二語には呪詛が籠められている。秘匿された小箱には毒蛇が眠っている。目の届かない暗闇の先で、奇怪な化け物が目を光らせている。リクにとって秘密や隠し事は、呪いの隠語としか響かなかった。
リクの変化を察したのか、シャンティは眉尻を下げて控えめに彼を覗き込んだ。
『すみません……気分を害してしまいましたか?』
『いや、別に。いいんだ』
コップを床に置くと、紅茶が波立ち、縁からひと筋だけ流れ出した。それを血液のように錯覚してしまったのは、ひとえに、彼の精神状態がそう見せたと言うべきだろう。
『シャンティ。君に聞きたいことがある』
こぼれた液体を気にしているシャンティをよそに、リクは真剣な口調で語りかけた。
『なんですか?』
『おれの本当の父親が誰か、知ってるか?』
リクの口元は、皮肉っぽく歪んでいた。