Side Riku.「妄信者回想録⑨ ~破壊衝動~」
※リク視点の三人称です。
ブロンの長が住む邸は、敷地面積に比して小ぢんまりとしている。庭木と呼ぶには些か量の多い針葉樹を背に、木造二階建ての建築が佇んでいる。玄関ポーチには木漏れ日が斑に降り注ぎ、装飾に乏しい外壁は木々の色と溶け込んでいた。屋根裏部屋の丸窓は伸びすぎた枝葉になかば以上隠されている。まさしく『ひっそり』という語がピタリと当てはまる邸宅だった。領主の邸と呼ぶより、静養地と見るほうが自然だろう。
日中、その邸にはほとんど物音ひとつない。領主――すなわちリクの父は外出していることがほとんどで、リクはというと室内で黙々と書物を読むことが多い。風と遊び戯れる木々の囁きや、遠くから届く子供たちの嬌声が、静けさをむしろ強めていた。
そんな邸に、今は数々の音が響いている。ときに甲高く。ときに鈍く。破裂音もあれば、痛々しい軋みもある。静寂を破るそれらの音は、いずれも人為的なものだった。
倒れた食器棚。散乱した陶器の破片。背と座面が離れ離れになった椅子。割れたランプ。引き裂かれた本。壁はところどころ凹み、穴の空いた箇所もひとつやふたつではない。父と子が朝夕の食事を摂るリビングは、以前の平穏さとはかけ離れた様相をしていた。『生活』の死骸に満ち満ちている。
ひとしきり暴れると、リクは窓辺に腰かけた。そして、ちょうど手の届く位置にあった花瓶を空中に放り投げる。細いくびれを持ったその焼き物は、テーブルのちょうど真ん中に落ち、破裂するように砕け散った。
物を壊したい、とリクが思ったのは、生まれてはじめてのことだった。また、理性の歯止めが利かないほどの衝動を抱いたのも初である。自分のなかにこんなにも凶暴な結果をもたらす感情が潜んでいた事実を自覚し、彼は薄ら寒い気分にさえなった。
恋愛感情。
それを父に見透かされるのは恥である。しかし、それだけなら破壊衝動に囚われることはなかっただろう。
『馬鹿なことを考えるな』
つい一時間ほど前に父が残していった言葉が、繰り返し耳の奥の奥で再生されていた。
あまり自覚しないように。意識しないように。そうやって育ててきた大切な感情が、父によって『恋慕』と断定され、そして否定されたのである。
リクは父に恋愛感情を認めてもらいたかったわけではない。応援してもらいたいと密かに願っていたなんてこともない。
憎悪の情によって徹底的に見下し、矮小化し、相手にさえしてこなかった奴に、自分の感情が否定された。べっとりと泥を塗られた。唾を吐きかけられた。穢された。そうした意識が、リクを破壊に誘ったのである。
まばらな日差しに背を温められながら、多少の冷静さを取り戻してはいたが、動揺するより開き直る気持ちのほうが強かった。取り返しがつかないから、どうしたというのか。暮らしが壊れたとして、そこになんの未練があろうか。
『あ』
ふと思い立ち、リクは父の書斎へと足を向けた。
あれも破壊しなければ。妄信の証明。不正義の象徴。馬鹿げた紙きれ。またの名を、『聖印紙』。
生活の破片が散乱するリビングから廊下へと出て、突き当りの階段に向かう。リクが破壊したのはリビングだけであり、それ以外の場所は普段通りの姿だった。木々に囲まれている環境に加え、廊下や階段には窓が少なく、薄闇を纏っている。どことなく憂鬱な気配のするそれらの空間は、暴虐を受けたリビングとの対比から、殊更に陰湿めいた雰囲気を醸していた。
リクの歩調に迷いはなかった。階段を登って左手にあるふたつ目の部屋――ちょうど屋根裏部屋の真下にあるその部屋を開けるときにも、彼の手付きは非常に滑らかだった。
『聖印紙』は窓際の書き物机の引き出しに保管されている。父にぶたれた晩のことはリクの記憶にしっかりと残っていて、『聖印紙』を大事に仕舞い込む父の背中に軽蔑の感情を抱いたのを覚えていた。
リクは脇目も振らず窓辺に向かい、引き出しを開けた。
吸い付くような手触りの桐の箱に、三枚の紙が端を揃えて入っている。『聖印紙』を取り出すと、彼は箱を戻し、引き出しをきっちりと閉めた。
父が憎いのなら書斎こそ破壊すべきだろうが、しかしこのときのリクには思いもよらない考えだった。リビングを滅茶苦茶にしたのは、そこに父と自分の両方の生活があったからであり、また直接的な背景としては、破壊衝動に突き動かされたそのときにいた場所がリビングだったこともある。そして今、彼にとって破壊すべきものは『聖印紙』以外にない。書斎に存在するあらゆる品物――揃いの木椅子、防腐加工の施されたテーブル、天井までの高さの本棚や、そこに収まった数々の書物、書き物机の上のランプやら羽ペンやらインク、領地の所有を証明する書類に至るまで、リクにはあまりにつまらない物たちに思えた。『聖印紙』が父のすべてで、だからこそ壊す価値があった。
三枚の紙には、どれもよく似た紋章が描かれていた。細部に差異があるのは、ひとつひとつ手作業で作っており、作り手のコンディションによるものなのだろう。
父と、母と、自分。家族のための救済の紙片。そのどれが父のもので、母のもので、自分のものなのかは判別がつかない。だからすべて破り捨ててしまうしかなかった。もとよりリクは『聖印紙』の効能など信じていない。魂の救済という考えは、今生きている現実を劣化させる悪しき思考だとすら思っていた。
一枚目の『聖印紙』を破ろうと力を籠めた瞬間――。
『お父様の心は、ずっと、ずっと、ずっと、美しいままなんです』
シャンティの声がして、リクはハッと顔を上げた。周囲を見やっても、彼女の姿はどこにもない。
今しも聴こえた言葉が、かつてシャンティの口にしたものであることに気付き、リクは多少の落胆を覚えた。ただの幻聴だったのか、と。
ここにシャンティがいてくれたなら、どんなに救われただろう。こんな紙切れよりも現実の彼女の存在は大きく、重い。もし彼女が今の自分の姿を見たならば、きっと哀しむはずだった。なぜこんなことを仕出かしたのか、切なげに問うだろう。それでようやく、リクはなにかから救われた気になるに違いない。
しかし彼女はこの場にいない。そして自分は、彼女の父が美しさを犠牲にして作り上げた品物を破り捨てようとしている。
シャンティは父親のことを、家族として愛している。尊敬してさえいる。リクはときどき、そんな彼女に鼻白むことがあったのを思い出した。彼女の陶酔に直面すると、その美が少なからず損なわれているように感じたものだった。
人は、その人であってこそ美しいのであって、羨望や崇拝は当人の美に傷を与える。このような考えに憑りつかれてしまっているのは、ほかならぬ自分が父のことを憎んでいるからなのだろうか。どうせ敬うのなら、死者だけにすればいいと思う。自分の母が故人だからそう思うのだということを、リクはおぼろげながら自覚していた。
指先に力を入れる。紙に皺が寄る。大した厚みはないのだが、柔らかい紙質のせいか、なかなか裂くことが出来ない。
そうしているうちに、段々とリクの呼吸は荒くなっていった。それが嗚咽へと変わり、とうとう、目尻を液体が流れていく。
もうマナスルへ行くことは許されない。少なくとも父の言いなりになっているうちは。波風立てず、表面上は温厚に、その実、腹の中では憎悪と侮蔑を抱えて生きていくのがどんなに楽だったか。
紙の裂ける音がした。
これは、自分にとってのはじまりなのだろう。涙を流しながらリクはそう感じた。これから自分は父に抵抗していく。自分の意志を守るために戦っていく。大人しい顔をして、それで済む時期は終わったんだ。
二枚目に手をかける。
恋愛感情であるかどうかは関係なく、自分はシャンティと過ごす時間をなにより大事にしている。そのためなら、なんだって犠牲にしてもかまわない。
またぞろ、紙の裂ける音が響いた。
――生き直す。生き直すんだ。父との関係を絶って、自分だけで。
書斎の入り口から息を呑む音がしたのは、三枚目に触れたときのことだった。
振り返ると、そこには口元を押さえて目を見開いたかつての家政婦――マルタの姿があった。




