Side Riku.「妄信者回想録⑧ ~心の聖域~」
※リク視点の三人称です。
多くの人間にとって十代前半は周囲への反発が見られるものである。血族においても例外ではない。肉体が成熟の手前――人間で言えば二十代なかばまで成長していても、実際に生きている年月は十数年程度である。百年を優に超える寿命を持つ血族にしてみれば、十代など、ようやく人生の一歩を踏み出したところと言ってもいいだろう。現に、そうした見方は一般的ですらあった。
ともあれ、外見で実年齢を計ることは困難である。血族は二十代から三十代の姿で成長が止まり、その後は非常に緩やかに老いていく。瑞々しい容姿の乙女がすでに六十年の歳月を歩んでいる、ということもしばしばあった。であれば年齢などさほどの意味を持たないようにも思えるが、現実はむしろ逆である。人材の流動の激しい都市は別として、多くのコミュニティが一定範囲の関係しか持たない。土地から土地へと渡り歩くような血族は少数派である。というのも、あらゆる土地が貴族の所有する領地として割り当てられており、そこに住む人々もまた、領主の所有物と見做す風潮が根強い。それゆえ関係性は閉じたものになりがちであり、結果的に長く生きた者が重んじられる。生業も同様、歳月がものを言う。
例外があるとすれば、それは――。
『リク様、ご機嫌麗しゅう』
『リク様、すっかりご立派になられましたね』
『リク様、お目にかかれて光栄に存じます』
リク様、リク様、リク様……。
この頃は、どこへ行ってもそんな枕詞がリクの耳に入り込んだ。それらの一見恭しい言葉に、彼は決まって淡い笑みと頷きを返す。心の内側で沸騰する嘲りを隠しながら。
十五歳になったリクは、非常に大人しく、勤勉な生活を送っていた。邸にいるときには書物を紐解き、父の仕事に随伴するときは決して無駄口を叩かず、余計な行動はしない。こうした彼の態度に、父は満足しているようだった。我が息子には反抗期というものがない、などと、褒めているのか貶しているのか分からない失言を耳にしたこともある。だが、それこそがリクにとっての内的反抗であった。無意味な衝突を避け、心を摩耗させないこと。五年前のひと悶着で、リクはそれを学んだのである。
彼は自分の父親を、ある意味では徹底的に見下していた。声の大きい盲目者。自分より先に産まれただけの白痴。天然の道化。そんなものを真面目に相手しているなど、馬鹿げたことだと考えていた。だから表面上は大人しく従い、それによって自分の精神をそのままのかたちで保持しようと決めたのである。
従順でいることにより、精神は聖域のごとく保護された。そんな彼の態度を見る者は、一様に好印象を抱くようである。年齢に対する過小評価が、却ってリクの落ち着きを過大に見せたのだろう。心のなかでどれほど他人を見下しているか、誰も見透かしていないようだった。
リクが議会に出席するようになったのは、十二歳の頃である。そのときには腫れ物のような扱いだったのが、どうにも最近はおべっかが過ぎる。議会への列席を許された有力者たちが顕著だったが、街で擦れ違う普通の住民の態度もどこか謙っていた。
自分が伯爵の息子であり、すなわち父と同じ地位にあるのだということは、ずっと昔に教わっていた。ただ、それを実感する機会は多くなかった。父と一緒でないと敷地の外に出なかったから、自然と街の人々と接する機会が制限されていたのである。今も昔も、父の決めたそのルールを彼は守っていた。
成長したことで、爵位の継承者として正視されることとなり、結果的に過剰におだてられている。だとしたら全員馬鹿者だと、リクは内心で嘲笑うのだった。いつかの父と同じように、妄想を現実と結びつけて実像を見ようとしていない、と。
いつしかリクは、微笑の裏に軽蔑を隠すことに習熟していた。
あからさまなおべっかよりは、同年代の者が彼に向ける僻み交じりの視線のほうがよほどマシだったが、それも結局のところ、リクの持つ爵位に由来している。爵位などという虚像しか見えていない連中は、いずれにしても軽蔑の対象でしかなかった。
そんなリクが唯一、本当の意味で安らかに振舞える時間はたったひとつ。マナスルへの訪問のときだけである。より限定すれば、シャンティと一緒にいる時間だけが、心の聖域などという意識を忘れて過ごすことが出来た。
『リク、この刺繍を見てください』
『リク、髪に埃がついていますよ』
『リク、少し散歩しませんか?』
彼女の声が、仕草が、表情が、愛おしかった。街の住人から浴びせられる何百もの無意味な褒め言葉より、彼女の一秒の微笑のほうが遥かに重要だった。
父に従順であることにより衝突はなくなったが、しかし、リクにとって好ましくない事態も起こっていた。マナスルに行く際は決まって父の仕事の随伴であり、したがって仕事の一環である。ダヌとの交易の折衝はもちろんのこと、何気ない会話も父は仕事と捉えているらしく、以前のようにシャンティと時間を潰す機会は少なくなっていた。ダヌの家の奥――厚布で区切られた応接室で、つまらない会話を背筋を伸ばして聞いている間、リクはひどく激しい苦痛を感じた。
『外の空気を吸ってきてもよろしいですか?』
席を立ち、シャンティと会うための常套手段として、リクはよくこの言葉を使った。区切りのいいタイミングで口にするのがコツである。が、いつも成功するとは限らなかった。父がのんびりと『もうそろそろお暇します』と言って、そのままシャンティと会話をせずに帰ったことも何度かある。見送りに出た彼女と、ほんの短い挨拶を交わすことが出来れば御の字だった。そんな日は、何度も何度も心のなかで父を罵り、憎み、呪う。死んでしまえと思ったのは一度や二度ではない。
しかし彼は、従順であり続けた。そうすることでしか自分の心を正しく保てないと思っていたから。また、当時のリクは自覚的ではなかったが、従順であろうとする動機のひとつが恐怖であったのも事実である。表立って父に反抗したなら、父は仕事の場に息子を同席させるのを控えるかもしれない。そうなれば、マナスルへの定期的な訪問にも連れて行ってもらえない可能性があった。リクにとってそれは、なによりも避けたい事態だった。
だが――。
『マナスルへ行ってくる』
『では、同行しま――』
『いや、お前は留守番をしてるんだ。いつも通り、邸で勉学に励め。いいか。勝手に外出するんじゃないぞ』
青天の霹靂だった。どうして父がいきなりそんなことを言うのか、わけが分からなかった。ここ数日の自分の態度を即座に振り返ってみたのだが、思い当たる節はない。つい先日も父に連れられて議会に出席し、普段通り大人しく振舞っていた。
『なぜです……?』
リクが呆然とたずねると、父はほんの少し、眉間に皺を寄せた。
『お前は立派にやっている。だから、今後は街の仕事をじっくり覚えるといい。物事には順序がある。まずは領主見習いとして街の自治を学ぶんだ。外交はまだ早い』
『自治を学ぶ……?』
『そうだ。といっても、特別なにか変わるわけではない。これまで通り、街での俺の仕事に同行してくれればそれでいい』
『街の仕事は、もちろん重視しています。これまでだって父さんの隣で真剣に周りを見てきました。だから、交易も負担では――』
『お前は、ダヌ子爵の娘が好きなのか?』
唐突に飛び出したシャンティの存在に、リクは面食らってしまった。つい息を呑み、呼吸が荒くなる。そうした脊髄反射的な動揺をなんとか鎮め、リクは努めて冷静に返した。
『いいえ。恋愛感情はありません』
心臓の鼓動が、痛いほど強かった。
父はリクの嘘を見抜いたのだろう。嫌悪感に満ちた表情で、厳として言い放った。
『馬鹿なことを考えるな』
その言葉を残して、父は邸を出ていった。リクはただ突っ立って見送ったのみである。
眼差しに憎悪を籠めて。
殺意を抑えて。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて