Side Riku.「妄信者回想録⑦ ~三つのカルマ~」
※リク視点の三人称です。
卓上ランプが室内を弱々しく照らしている。光は父の書斎のテーブルを中心に、向かい合わせに座した親子を橙色に染めていた。乏しい光量は四方の壁に届くかどうかといった程度で、光よりも闇のほうが濃い。壁の一面を占領する天井までの高さの本棚が、父の後方で威圧的に聳えていた。
父に頬を張られ、母の墓へと連れて行かれてからというもの、二人の間には沈黙が横たわっていた。リクは反発心から無言を貫いていたのだが、父が口を閉ざしているのは怒りのためだろうとばかり思っていた。あるいは単に怒りの表現方法をあまり知らないために、沈黙し続けているのだろう――リクはそう考えて、密かに鼻で嗤った。ぶたれた痛みなど大したものではない。それよりも、暴力に訴えるしか出来なかった父を嘲笑う気持ちが強かった。
墓地から帰り、簡単な食事のあと、父は無言でリクを書斎へと導いたのである。いよいよ説教をされるのだと察したリクは、むしろ挑戦的な思いで部屋に足を踏み入れたのだった。
向き合って座ってから、かれこれ三十分になる。父は気疲れのした顔を浮かべていた。ときどき表情に逡巡めいた動きが表れるのだが、なかなか言葉を発してはこない。もうすっかり陽が落ちて、外から梟の鳴き声が聴こえていた。風にざわめく木々の音も、部屋に流れ込んでくる。そうした環境音に支えられるようにして、静寂が時々刻々と濃密になっていった。
不意に父が立ち上がり、窓際の書き物机へと向かった。リクは目だけでそれを追う。
やがて戻ってきた父は、三枚の紙を手にしていた。リクも見たことのある品である。
『お前には、これが紙切れに見えるのか』
疑問符はない。が、明らかに問いかけではあった。
散々待たされた挙句そんな導入なのか、とリクは興醒めした。それゆえ、いかにも当然のように首肯して見せたのである。
『そう見えます』
このときリクは、もう一度叱咤の平手が飛んでくることを覚悟していた。拳であってもかまわないくらいの気構えである。殴られることに対する準備期間は充分なほどあった。
が、いくら待っても父の右腕が動くことはなかった。少しの力みさえ見えない。あまつさえ父は、小さな頷きさえ返したのである。
『そうだろうな。お前くらいの歳なら、無理のないことだ』
俺もそうだったんだから。
父の衒いのない言葉に、リクは面食らってしまった。父親らしい激怒か、あるいはそれらしいお説教が展開されるとばかり思っていたからこそ、父の態度が意外に思えたのである。
リクがきょとんとしている間に、父は『聖印紙』がダヌの犠牲によって成立していることを縷々語った。
『信じられないだろうが、ダヌ子爵は美男子だったんだ。お前が産まれる何十年も前の話だが。あの方は聖印紙を作り出す仕事――つまり村長の役目を継いだ頃から、少しずつ衰えていったんだよ』
『はぁ』
『聖印紙は、作り手の力を確実に奪っていく代物なんだ。逆説的に言えば、それだけの力が籠められている』
ダヌが美男子だなどと言われても、想像は出来ない。が、リクにもひとつ思い当たる節はあった。以前シャンティを怒らせてしまったとき、彼女が哀切に語った内容は、今しも父が口にした言葉と似ている。
『美しい魂は、死後、楽園に安住する。しかし、罪のない者などほとんどいないだろう。誰しも大なり小なり、責められるべきかどうかにかかわらず、罪を抱えているんだ。聖印紙は罪人を赦す証明書になる。つまり、それを持っていれば死後の救済が約束されるんだ』
馬鹿な御伽噺だ、とリクは吐き捨てた。むろん、頭のなかで、である。
死んだあとにどうなるかなんて誰も知らないではないか。それなのに楽園だの救済だの、妄言にもほどがある。
当時のリクは十歳であり、街の長である父のそばで仕事を見る機会も少なくなかった。というのも、父は積極的に自分の仕事を息子に見せようとしていたのである。今後の継承を考えてのことだろう。引き継ぎにおいて、早過ぎるということはない。普段から仕事を見せていれば、いざというときにも対処出来るだろう。なんにせよリクは、多少なりとも人々について、街の現状について、この世界について、知っていた。だからこそ現実以外の空想めいた物事を軽視するようにもなっていた。自分が幼い頃に見た『夜の家政婦』のことをあえて思い出さないようにしていたのは、そのためである。
現実。それがなによりも重要なのだと信じていた。
『救われる保証はどこにもないです』
リクはきっぱりと返した。
今度こそ殴られると思ったが、しかし拳は訪れない。
『そうだ。保証なんてどこにもない。少し前まで俺もそう思っていた』
そう思っていながら、マナスルとの交易を続けていた。慈善行為として。よき隣人であるために。
父の口調には演技めいたところがなかった。あくまでも素朴で率直。父親としての役割めいた雰囲気も、もはや消えている。これまで誰にも話せなかった秘密を打ち明けているような、そんな気配さえあった。
『俺が聖印紙の力を確信したのは、お前のおかげなんだ』
『……はい?』
リクは思わず首を傾げ、眉根を寄せた。父が妄信の虜になった原因が自分にあるなど、この瞬間まで一切考えたことがなかったのである。
息子の反応に頓着せず、父は続ける。
『お前が家政婦の話をしたことがあったろう。マルタじゃなく、もうひとりの……お前の母さんそっくりの家政婦のことだ』
『ありましたね』
『俺はあのとき、雷に打たれたような衝撃を味わったんだ。お前の母さんが――モリーがずっと、そばでお前を見守っていたことに』
なんと返事をしてよいか分からず、リクはただ無言で父の視線を受け止めていた。
『モリーは楽園に行ける権利を手にしていながら、お前のそばにいることを選んだんだよ。俺が不甲斐ないばかりに、目を離せなかったんだ』
『それならどうして、母さんは突然いなくなったりしたんですか』
リクは膝で拳を握った。夜の家政婦の喪失にまつわる憎悪が、ふつふつと再燃したのである。
リクの想いを知ってか知らずか、父は夢見るような口調で返した。『それは、もう大丈夫だと思ったからなんだろう。自分がいなくとも、お前は立派に育つと判断したんだ。お前のそばから離れることによって、息子を通じて俺を改心させる算段もあったのかもしれない』
父は三枚の『聖印紙』をそれぞれ、指先で愛おしそうに撫でながら続けた。
『モリーに諭されたんだ、俺は。……後悔したよ。ずっと息子から目を背けていたことを。自分のことを情けない奴だと思った』
リクはじっと父を見据えて黙ったまま、身じろぎひとつしなかった。
『聖印紙を否定することは、母さんの死後の幸せも否定することになる。俺はようやくそのことに気が付いたんだよ。母さんがお前のそばにいて、そしていつか消えてしまったのは、ようやく安住の地へ向かった証明だと、俺は思う』
リクはほとんど無意識に『でも、そうじゃないかもしれない』と返していた。
夜の家政婦が仮に母親だとして、姿を見せなくなったことがどうして楽園へ向かったことになるのか。論理の飛躍がリクには気がかりだった。
『目に見えないからといって、ないことにはならないんだ、リク。ダヌ子爵は聖印紙を作ることで美しさを失った。そこには損なわれた分だけ、与えられたものがあるとは思わないか? その証明が、母さんのことなんだよ。充分過ぎるくらいの証明だ。そうだろう?』
リクは絶句していた。
目の前の男を父親だと思うことを恥じた。
陶酔した目の色を憎んだ。
ゆったりと紡がれる、確信めいた言葉の数々を嫌悪した。
妄信の根に浸食されたその脳を恨んだ。
目を見開いてなにも口にしないリクを、父親は『心打たれている』と解釈したようだった。満足気な笑顔が、その誤解を充分に物語っている。
そんな父の心の動きが手に取るように分かってしまったリクは、もうなにも言うまい、と心に決めたのである。この男になにを言っても無駄だ、と。
秘密の一切はこのときに打ち明けられたと、リクは信じていた。もう父は丸裸だと。
そうではなかったと知るのは、さらに五年後のことである。