Side Riku.「妄信者回想録⑤ ~少年少女~」
※リク視点の三人称です。
マナスルの村長――ダヌという男を、リクは好きになれなかった。痩せぎすだが背の高い父に比べて、この男は小さくてどことなく丸い。顔面に散ったイボや、首回りの肉がダブついている様子など、見ているだけでゾッとする。これで快活ならまだしもだが、途切れ途切れに声を発しては顔色を窺うように下手な笑いを浮かべるあたり、陰湿な印象があった。父とあたりさわりのない世間話をしながら、ときおりちらとリクを見る目付きも、寒気を喚起するものがある。機敏なぎょろ目に自分の姿が映っているかと思うと、リクは舌打ちのひとつでもしたい気分になった。
『相変わらずブロンは豊作で……なによりです。……こちらは、からきしで……見ての通りの、沼地ですから。……魚は獲れますがね……魚を食っておるのか、泥を食っておるのか……ハハ……アハ』
万事、この調子である。長く言葉を話せないのか、息継ぎと沈黙が多い。端々に卑屈さを感じさせる語句が挟まれて、聞き手のうんざりした苦笑を誘う話しぶりだった。
『お困りでしたら交易を増やしましょうか?』
『いいや……結構、結構。充分に恵んで貰っておるので……』
『いえいえ、とんでもない。恵んでいるだなんて。我々はマナスルの良き隣人でいたいのです。それに、交易は対等な取引ですから。聖印紙は――』
言葉を切った父が、恥じ入るように俯いたのをリクは見ていなかった。ぼんやりテーブルを眺めながら、早く終わらないだろうかと欠伸を堪えていたのである。
『聖印紙は、魂を救済してくださいますから。むしろ、我々のほうが過分に受け取っていますよ』
『ほぉ……それは、どういう心境ですかな? 以前はあまり……』
ダヌの視線がリクを捉える。すると父の手が少年の肩を二度軽く叩いた。『少し外で待っていてくれ』
暗に邪魔者扱いされていることを敏感に察し、リクは内心でふつふつと反感が湧くのを感じた。一秒でも早くダヌから離れたいと思っていたのは事実だが、それとこれとは別物である。
ムッとはしたものの、努めて態度に表さないようにしながらリクは立ち上がった。すると、ダヌも椅子から腰を浮かせた。
『どれ……娘に、面倒を頼もうか……』
リクにそこで待っているよう告げ、ダヌは部屋を出ていく。そうしてすぐに、二人分の足音が戻ってきた。
厚布が捲れ、まず薄気味悪い醜男――ダヌの顔が薄闇にのっそりと這い出てきて、それからもうひとりの人物が姿を見せた。
艶めいた真っ直ぐな黒髪を持つ、背の高い女性。白のワンピースはところどころ泥が染みついていたが、それでもこの陰湿な場所にあっては、純白と言って差し支えないほど清潔に見える。すっと通った鼻を中心にして、長い睫毛が廂となったブルーの瞳、細い眉、ふっくらとした唇。肌は瑞々しく、なんの瑕も見当たらない。
リクは、無意識に唾を呑み込んでいた。
唖然としてしまうほどの美人だったのである。これまで目にした女性の誰とも比較にならない。醜いダヌが隣にいることも少なからず影響していたのだろうが、彼女自身の持つ美は揺るぎないものに思えた。
女性はまずリクの父に深々と頭を下げ、それから彼にもお辞儀をした。その流れるような所作が、なんとも清浄で優美だった。
『少し見ないうちに大きくなったね。子供の成長は早いものだ。今いくつだい?』
リクの父は相好を崩し、女性にたずねた。
『今年で十歳になります』
微笑する彼女の唇から流れた声音を聴いて、リクは余計にぼうっとしてしまった。声に張りがあり、穏やかな口調なのだがどこか芯の強さを感じさせる。
ダヌが不器用に笑い、娘を手で示した。
『君は……はじめて会うね。……こちらは私の娘の――』
いい名前だと思った。
ふたつとない、完璧な名だとさえ思った。
頭のなかで繰り返したくなる名前。
誰にも聴かれない場所で、そっと、何度も囁いていたい名前。
――シャンティ。
村の案内をしてあげる。シャンティはそう言って、リクを外に連れ出した。それがどんなに嬉しい申し出だったかは言うまでもない。
精神的には六歳である彼だが、肉体は十二歳ほどの姿である。未熟であることは確かだが、身体が心に及ぼす影響はそう小さいものでもない。落ち着きや論理性といった静的な成熟においてはまだまだ程遠いが、興奮という意味での発達は多少なりとも肉体の成長に引きずられる向きがある。リクは自分の喜びを顧みてむず痒くは思うものの、美しい女の人に導かれる幸運を拒否する理由はなかった。
鼻腔いっぱいの泥の臭い。
踏むたびに、ぐしゅ、と音を立てて僅かに沈む苔。
肌を撫でる陰湿な大気。
シャンティの隣を歩いているというだけで、それら全部がまるで気にならなかった。自分よりもずっと背が高く、大人びた姿を横目で盗み見て、熱くなる顔をなんとか意識の外に追いやろうとすることで精一杯だった。
道と呼ぶにはあまりに粗末な、苔の禿げた通りを歩いているうちに数軒のあばら屋を過ぎ、やがて濛々と白い靄を上げる沼の前までくると、シャンティは足を止めた。
『いつもここで魚を獲るんです』
そう言って、彼女は真っ直ぐに前方を指さした。すらりとした指の示す先は、濃くわだかまった靄のせいでほとんど見通せない。
沼はこちらの岸から見る限り、かなりの大きさだった。あちこちに棒杭が伸びていて、舟が繋がれている。
『ふねで、とるの?』
『大人の男の人は舟を使いますけど』言い淀んで、彼女は微かに笑った。『女は、岸のそばで手掴みにするんです』
どぼん、と遠くで音が鳴った。靄の先で聴こえたその音色に、リクは巨大な魚を想像する。そいつはきっと間の抜けた顔をしていて、口はぽっかり開いている。泥ごと餌を呑み込むような不器用な奴だ。
シャンティが岸辺で泥に手を突っ込み、魚を探っている姿へと連想が続いていく。彼女が両腕で巨魚を掬い上げると、そいつは激しく暴れて、あちこちに泥を散らす。真っ白な服に、汚泥が点々と広がっていく。
リクは自分の想像を、強いて中断した。なんだかひどく、悪いことのように思えたのだ。だから慌てて、全然関係ないことを口走ってしまった。
『おかあさんはどこにいるの?』
きっとシャンティの母は、彼女と同じくらい美しいに違いない。ダヌが醜いのだから、そうであるのが当然に思えた。
しん、と静まり返った沼地に、微かな音が積もっていく。沼のどこかで気泡が弾けているのか、それとも小さな魚たちが水面に顔を出しているのか、ぽ、ぽ、ぽ、と連続した微音が鳴っている。視界を覆う曖昧な靄のせいだろうか、それらが近くで鳴っているのか、それとも遠くで鳴っているのか、判然としなかった。
『お母様は、私を産んですぐに死んでしまったんです』
充分な沈黙を挟んで紡がれた返事に、リクはハッとした。
『おれも、おんなじ』
もっと上手く言葉にしようと思ったのだが、口に出来たのはそれだけだった。自分と彼女との言葉の引き出しや口調の巧拙を想い、リクは少しのもどかしさを覚えた。あと四年経てば、自分も彼女と同じだけ自然に敬語を使えるのだろうか。そんなことを考えても、四年という時間の隔たりは想像も出来ないくらい途方もない時間に思えて、虚しくなるだけだった。
『似た者同士ですね』
彼女はそう言って、慈しむように目を細めた。その視線は靄の先に向いていて、決してリクを見ようとはしない。曖昧模糊とした白のスクリーンに、なにかしらの情景を思い浮かべている――などと察することは、当時のリクには無理な話である。だが、後年に至ってこのときのことを思い出したときには、決まって彼女の悠遠な眼差しが、穏やかで寂しい記憶に結びついているのだと感じ、しみじみとした気持ちになるのだった。
永遠に続いてほしいと願っても、時間は常に流れていくものである。背後から二人分の足音がし、自分とシャンティとを呼ぶそれぞれの男親の声を聴いたとき、リクは胸苦しい思いに囚われた。
のちにサディスティックな主従関係を結ぶ二人の最初の出会いは、立ち込める白い靄に包まれた、寂しさを喚起する優美なものだった。




