Side Riku.「妄信者回想録③ ~夜の守り手~」
※リク視点の三人称です。
家政婦マルタの解雇と、『母親』という概念の知覚。
ふたつの出来事はリクの心を激しく揺さぶった。
まずはじめに訪れたのは当惑で、次に、父への疑念である。なぜ父は母のことを、これまで一度も喋ってはくれなかったのだろうか。なぜマルタと、あのような口論に発展したのだろうか。
いくつかの事実から答えを論理的に導き出すには、彼はあまりに幼かった。少年へと成長していく身体に対し、精神はまだ五歳児のそれだったのである。
だがしかし、疑問は疑問のまま放置されることはなかった。飛躍した思考は直観の補助を借り、やがてリクは或る考えに憑りつかれるようになったのである。
――父は、母のことを意図的に隠していた。それは子供である自分を嫌っているからなのだ。
結論こそ無根拠な断定ではあるものの、事実を正確に捉えていたと言えよう。母親という概念そのものの隠匿は、確かに父が息子に対して行ったことなのだから。
かくしてリクは、父に少なからぬ敵愾心を抱くようになった。
世界のどこかに自分の母親がいて、彼女は父と敵対しているからこそ自分の前に姿を見せないのだ。ゆえに自分が父の敵であり続ければ、きっといつか母親に会うことが出来る。そう信じたリクは、あえて父の前では『母』という語を避け続けた。もし自分が母親についてあれこれと喋ってしまったら、父はどこかにいるかもしれない『母』という存在を世界から抹消してしまうかもしれない。自分がなにも知らない素振りを見せ続けていれば、きっと父は油断して、なんの行動も起こさないはず。そう考えていた。
リクの敵意が彼の心のなかではっきりとした像を結んだのは、マルタの解雇から半月後のことである。異変が起こったのは、その頃からだった。
マルタが邸に姿を見せなくなってからも、名も知らぬ家政婦は決まって夜にリクのもとを訪れ続けた。なにをするでもなく、ただ脆い微笑を浮かべ、少年が眠るまでそばにいてくれた。話しかけても返事はない。昔からそうだった。それをおかしいとさえ思っていなかった。
彼女に頭を撫でられながら眠るとき、リクはいつも、深い深いぬるま湯に沈んでいくような心地になったものである。身体はベッドにあるのに、瞼を閉じていると、重力までもゆるやかになっていくような感覚があった。暖色の湖を漂っていて、ゆっくりゆっくり沈んでいく。その感覚は常に、安堵をもたらした。眠りにつく前、些細な影に怯えたり、嫌な空想に囚われていても、その瞬間にはすべてが消え去ってくれるのだ。後に残るのは穏やかな感覚だけ。生まれてからずっと、夜の家政婦がいるときには安寧の眠りが保証されていたのである。彼が夜泣きしなかったのは、ひとえに彼女の存在があったからだろう。
ある日、リクはいつものように夜の家政婦に撫でられながら目を閉じた。周囲からオレンジ色の液体が滲み、溢れ、包み込んでいく。それがどうしてか急に、どす黒い青に変わったのである。液体は肌という肌に重たく絡みついて、冷え冷えとした温度へと変化していった。
驚いて目を開けると、部屋は真っ暗で、夜の家政婦の姿はどこにもなかった。起き上がって部屋中を探したのだが、いない。意を決して部屋の外も探し回ったのだが、見つかることはなかった。
その晩、リクが不安と混乱で眠ることが出来なかったのは無理もないことである。生まれてからずっと、彼の夜に付き添ってきた存在なのだから。たまに変な時間に目覚めてしまうときも、彼女の姿はいつもベッドのそばにあった。だから安心して、また目を閉じることが出来たのである。リクの眠りは彼女という守り手と不可分だったとさえ言える。
翌日も、翌々日も、家政婦は姿を見せなかった。その間、リクは一睡も出来なかった。眠ろうにも不安が胸で渦を巻いていて、夜闇のなかに家政婦の微笑を探してしまう。
それでも肉体には限界がある。夜の家政婦が姿を消して三日目。朝食の途中で彼は気を失った。最後に見たのは、普段と変わらず平然と匙を動かす父の、疲労の滲んだ顔である。
目覚めるとリクはベッドにいて、すぐそばに誰かの気配があった。ようやく夜の家政婦が戻ってきたのだと思い、泣きそうな気持ちで跳ね起きると、そこにいたのは父だった。落胆したリクの表情から歓喜が一挙に消え失せ、再びベッドに沈み込む。
『具合が悪いのか?』
心配しているというより、なにかに言わされているような、そんなおざなりな声に聴こえた。リクは返事をせず、黙って顔を背けた。
心労と父への憎しみが、そのときのリクを或る疑いへと、強烈な力で引っ張っていった。
『もうひとりの家政婦さんも、クビにしたんだね』
こうやって、自分のそばにいる女性を一人一人奪っていくのだ、父は。孤独の谷に突き落としていくのだ。リクの疲弊した心は、無根拠な邪推に囚われていた。
『もうひとり? いや、マルタの代わりはまだ見つかっていないが……』
『マルタじゃなくて、いつもいる人だって! 夜に、いてくれる女の人』
父は疑問符付きの小さな唸りを上げた。見ずとも、父が首を傾げているのが分かる。
なぜ父が知らないふりをするのか。これもまた、自分を孤独に突き落とすための芝居なのだろうか。だとしたら、あまりにもひどい。
リクは身を起こし、顔面に力を籠めて父を睨んだ。
『髪が黒くて、目が細くて、いつも緑のキラキラしたのを耳につけてて――』
リクはピアスという単語を知らなかった。だからそう表現するしかなかったのだが、父には充分伝わったらしい。
父の瞳が大きく見開かれ、口がぽかんと緩んだ。なにかの前触れのように眼球が細かく震えている。そしてその表情のまま、父は自身の髪をゆっくりと掻いた。金の癖毛が、手に潰されて隆起する。
やがて、驚愕一色の父の目から涙が零れた。
『え……』
困惑するリクの前で、父は涙を流すままにしている。拭われることのない熱い液体がその顎を伝い、雫となってシーツに染みを作った。
父は無言でリクの手を取ると、部屋の外へと引っ張っていった。なんの説明もなしの、強引な力である。そのまま邸を出て、敷地を出ても、父は手を離してくれなかった。どこへ行くのかとたずねても返事はない。道行く人々は二人を見るや否や、ぎょっとした顔になり、言いかけた挨拶の言葉を呑み込んだ。手を引かれるリクには見えなかったが、その間もずっと、父は呆然自失の表情で涙を流し続けていたのである。
街の外れで、父はようやく足を止めた。よく手入れのされた芝の上に、切り出された石が整然と並んでいる。滑らかな樹皮の木がまばらに植わっていて、冷えた風の煽りを受けてざわめいていた。
父は或る石の前に腰を下ろすと、リクにも座るよう手で促した。
それから父は、はじめて母について語ってくれたのである。
リクの母は、彼を産んで間もなく亡くなったこと。
最期のときまで子供の身を案じていたこと。
彼女の死の責任は、父自身にもあること。
『いかにも、お前にはずっと母さんのことを隠してきた。知らないほうが幸せだと……いや、違うな。もう嘘はよそう。俺自身、母さんのことを考えたくなかったんだ。それと同じくらいには、お前のことも、考えたくなかった。……こんな不甲斐ない俺の代わりに、母さんはずっとお前の面倒を見てくれていたんだな』
父はそう言って、墓石をずらした。そして内部の空間からなにかを取り出し、リクの手のひらの上にそっと置いた。
緑色のピアス。
夜の家政婦がいつも身に着けていたものだった。