Side Riku.「妄信者回想録② ~母と二人の家政婦~」
※リク視点の三人称です。
リクは産まれてから一度も母を目にしたことがない。声も、香りも、指先も、彼の記憶の引き出しにはなかった。
二本の足で立つ前、よちよち歩きのリクの面倒を看ていたのは専ら二人の家政婦である。昼間は通いの家政婦――マルタという名だった――が、夜にはもうひとりの家政婦――こちらの家政婦の名は分からない――が彼のそばについていてくれた。父はというと、ときどき彼の顔を覗き込んでは、笑顔と呼ぶにはいささか歪な表情を浮かべて、すぐにどこかへ行ってしまうだけの存在だった。それでも産まれたばかりのリクにとっては、世界を形成するピースのひとつであったのは確かである。
二人の家政婦と父。それが世界の全部。
そんなリクの認識も、生後一年にもなると広がっていくことになる。家政婦に手を引かれて歩いた外界は、刺激に溢れていた。裏庭の陽だまりの温度。邸の内外を隔てる鉄門の錆臭い味。玄関ポーチまで続く砂利敷きの道を踏みしめるときの軽快な音。風に煽られた木々が頭上で唄い、瞼の裏に太陽の名残が踊る。雨の一滴さえ、相応の新鮮さで彼の認知を拡張した。
ある日庭で遊んでいると、同年代の子供に話しかけられた。モグラの穴を掘り返していたときのことである。マルタが目を離している隙に穴に腕を突っ込んだ瞬間、鉄柵の向こうで『なにしてるの?』と声をかけられたのだ。慌てたリクは急いで手を引っ込めようとしたのだが、土中に伸びた木の根で手の甲を裂き、猛烈に泣き出した。すると、つられて鉄柵の向こうの子供も泣き出したのである。その子は年若い女性――といっても血族における外見と実年齢の相関はあまり意味のあるものではないのだが――に抱きかかえられ、あっという間に去ってしまった。鮮やかな痛みと涙に歪む視界で、リクはなぜだかはっきりと、その女性と子供の関係が自分と二人の家政婦との関係とは全然異なるものなのだと直観した。そうして、無性に心細くなったのである。
そのときの突発的な寂寥感が母の不在に由来していると思い至ったのは、ずっと後――五歳になってからだった。父の手ほどきで文字の読み書きや単語について教わるようになってからのことである。
父から貰った辞書をぼうっと捲っているとき、不自然に黒塗りされた箇所が目に留まった。なんだろうと思い、ぱらぱらとひと通り目を通していくと、いくつかの部分が同じように黒で潰されている。
それらが『母』にまつわる語群であることを知ったのは、昼の家政婦であるマルタのおかげだった。
『内緒ですよ。坊ちゃん』
折に触れて何度も問いかけるリクに、マルタはとうとう根負けしたのである。そっと耳元で囁くように、小さな声で教えてくれたのだ。
母。
不思議な音色の、不思議な言葉。当時の彼にはその意味さえ、しっくりとは理解出来なかった。
そばで世話をする女性。寄り添い育む者。誰の身体にも半分はその血が流れていて、父と対になる親。そしてそれは、マルタではないらしい。
『じゃあ、じゃあ、よるの、かせいふさんのこと?』
目を輝かせてたずねるリクに、マルタは気の毒そうな微笑を浮かべ、小さく首を横に振った。
二人の家政婦のどちらでもないのなら、一体自分の母は誰なのだろうか。その人はどんな顔をしているのだろう。どんな声で喋るのだろう。どんなふうに歩いて、どんな色が好きなんだろう。
誰もが母を持っているのなら、自分にとっての母は、どこへ行ってしまったんだろう。
『旅に出ているのですよ。長い長い、冒険の旅です』
そう言ったきり、マルタは俯いてしまった。そして彼がなにをたずねても、寂しく一瞥するばかりだった。
マルタが家政婦を辞めたのは、その日の晩である。帰宅した父にいきなり辞意を告げたのだ。二人の口論を、リクは自分の部屋でぼんやりと聴いていた。
『可哀想だと思わないんですか! あの子は今日まで母親がなにかも知らなかったんですよ!』
『――』
『惨いじゃないですか。いくらなんでも。いつかあの子だって、全部分かる日が来るでしょうに!』
『――』
『この土地の長が、なんだって言うんですか! ええ、もちろん、貴方はご立派ですとも! ですけれどね、父親としては落第です! こんな酷い真似、いつまでも付き合えません!』
耳に流れ込むのはマルタの声ばかりで、父のほうは、ぼそぼそと何事かを返している気配はあるものの、言葉として聴き取れるものではなかった。マルタがこんなふうに怒鳴るのははじめてのことで、リクはひどく不安な思いに駆られたものである。ベッドの隅で膝を抱え、知らず知らずのうちに唇を噛んでいた。うっかり『母親』のことを知ってしまったばかりにこんなことになってしまったのだと感じ、嘆いていたのだ。こんなふうにマルタを怒らせてしまうのなら、黒に隠された秘密は、秘密のままにしておけば良かったのだ。知らないままでいれば良かったのだ。
涙が頬を流れたとき、リクの頭を細い指先が撫でた。見上げると、夜の家政婦が泣きそうな顔でこちらを覗いている。だから彼は慌てて袖で涙を拭い、にっこりと笑って見せた。すると、家政婦も微笑する。
彼女のうっすらした笑顔を眺めていると、段々彼の気持ちも落ち着いてきた。いつもそうなのだ。そばにいて微笑んでくれるだけで、どんなことも許された気になってしまう。極端に無口な夜の家政婦のことを、リクはとても気に入っていた。だからこそ彼女には『母親』のことを決してたずねないようにしようと、心に決めたのである。
夜の家政婦に頭を撫でられているうちに眠ってしまい、翌朝、父からマルタの解雇を淡々と告げられた。代わりの家政婦が見つかるまでひとりで頑張るように、とぼそぼそ言っていた。本当に父が次の家政婦を見つけようとしていたのかは定かではないが、リクは平気だった。夜の家政婦がいてくれれば、それで良かった。
それから半月後――名も知らぬ夜の家政婦が彼の前から姿を消すまでは。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて