Side Riku.「妄信者回想録① ~父と暴力~」
※リク視点の三人称です。
「シャンティ様!!!」
リクが叫んだのは、シャンティが彼の頭上の遥か上を猛スピードで通り過ぎたあとのことだった。高速の放物線を目で追いながら振り返り、無意識にその名を呼んだのである。
シャンティはリクとカリオンのいる岩場から遠く離れた地点――前線基地の末端に、轟音と土煙を上げて落下した。もっとも、リクの目に正確な落下地点は映らなかったが。風雨に削られた岩石の作り出す起伏に遮られ、ただ『遠方』に落ちたことしか分からなかった。ともあれ、岩陰の先に見える粉塵をたどれば彼女のもとにたどり着ける。
駆けだそうとした彼の足が、最初の一歩目で停止した。座したカリオンの姿が視界にあることにようやく気付いたのである。
――今すぐ、シャンティ様のもとへ急がねばならん。待機命令は破ることになるが、致し方ない。が、この大男はどうすれば……。
戸惑いがリクを苛んだ。カリオンの存在は、この状況下では厄介な存在である。放置したならば、きっと逃げ出すだろう。待機命令の無視はまだしも、捕虜を捨て置いたことをシャンティが知ったなら激怒では済まない。なによりそれは、リク自身の論理と照らし合わせてもナンセンスなことだった。カリオンなど消えてしまえばいいと願っていながら、意図して逃がす選択肢は良しとしない。ここでカリオンを放置すれば、あえて逃がしたことと同義であろう。
なら、意識を奪って放置するか?
それも論外だった。リクの貴品は意識を奪うことは出来ても、意識の恢復をコントロールすることは出来ない。あくまでも覚醒のタイミングは当人次第。数秒で意識を取り戻すことはないが、数分となると怪しいものである。現に、これまでリクが斬ってきた相手のなかには、最短二分で恢復した者もいる。それゆえ、意識の奪取はカリオンを捨て置く選択肢とそう変わらない。
ならば、どうする?
「貴様の主人は負けたのか。そうか。それはいい」クツクツと、カリオンは皮肉っぽく笑った。愉快さはあまりなく、自嘲めいた雰囲気である。「どうした? 早く駆けつけてやらんと助からんぞ。あのあたりは我々人間の待機場所だからな。剣によって意識を歪められた者どもの巣に絶好の獲物が放り込まれたとなると、なにが起こるか容易に想像出来よう」
リクの心中で、焦燥感がぶくぶくと膨らんでいった。
落下したシャンティに余力があれば、特に問題はないだろう。が、意識を失っているか、あるいはひどい傷を負っているとしたら。微かな抵抗すら出来ない状態だとしたら。
背を伝う悪寒に導かれるように、リクは抜刀した。
「おれは、馬鹿だ」
踏み出す足が重い。
疾駆にはほど遠い速力。
リクの額やこめかみ、首筋には汗の玉が出来上がりつつあった。
起伏や崖に注意しながら進むだけでも厄介な行路である。それでも、彼ひとりなら今の倍以上の速度で進めたことだろう。主人の落下地点へと真っ直ぐに。
背に伝わる心音を、リクは心底鬱陶しく思った。
カリオンの意識を奪い、背負って進む。その選択ならば、確かにリク自身の論理は損なわれない。速力の低下による焦燥感に耐え続けるという新たな苦痛が加わったが、ナンセンスな選択をしてしまうよりはよほどマシだった。
自縄自縛。
リクは自分の置かれた状況や、自分の正義に捕縛されている。カリオンの体重は、さながら戒めの重みと感じられた。
「自尊心さえ捨て去れれば、おれは」
きっと楽になるだろう。
内心でそう続ける。
しかし、楽になるのは思考だけであることもリクは痛いほど理解していた。シャンティへの忠義も、美への憧憬も、生きるために必要なものではない。ただ、自分の尊厳を守るためには必要な制約だった。尊厳を失ってしまえば、自分のことを『呼吸するだけの生き物』と見做してしまう。それは、想像するのもおぞましい。
思考に意識を向け過ぎたのだろう、拳大の岩に足を取られ、リクは前方へ倒れ込むようにバランスを崩した。咄嗟に踏み出した右足に二人分の体重がかかり、骨が軋む音を幻聴した。
歯を食い縛り、右足に力を籠める。上体を起こし、鈍重な疾駆を再開した。
すでに土煙は消えているが、シャンティの落下したおおよその地点は頭に入っている。
――早く。
――早くしないと、シャンティ様が。
血走った眼。猛獣のような咆哮。振り下ろされる斬撃。
脳裏に浮かんだ悪いイメージは、時々刻々と膨張していた。
絶えず意識を乱す焦燥感のなかで、リクは荒く呼吸し、負荷の高い疾駆を続けた。冷静な思考は困難で、だからこそ、走馬燈のように様々な光景が脳内をよぎる。
そのなかには、今は亡き者の姿もあった。
懐かしさを喚起するには充分な姿が。
リクはたった一度だけ、父にぶたれたことがある。
『なぜ、ただの紙切れと物資を交換するのですか』
沼地の集落――マナスルとの交易は、あまりに不合理としか思えなかった。日頃から父に聖印紙の功徳を説かれてはいたが、リクには納得出来なかったのである。それでも呑み込んで過ごしていたのだが、あるとき堪えきれなくなって不満を口に出したのだ。問いかけのかたちではあったものの、『紙切れ』という蔑称はリクの想いを存分に表していたと言えよう。
このときのリクは、青年の姿になったばかりであった。
血族の生において、容姿と内面の成熟はイコールではない。一般に『黒の血族』は、人間と別の時間を歩んでいる。生まれてから加速度的に成長し、人間で言うなら二十歳頃の外見にまでなると、そこで時間の流れが急激にゆるやかになる。個人差はあるが、産声を上げてから十年前後で成長しきってしまうケースが多い。リクも御多分に漏れず、十歳で現在とそう変わらない容姿を獲得した。精神のほうはというと、肉体の成長からは置き去りにされている。ゆえに、この頃のリクは内面的には少年と言っていい時期にあった。街の人々が唱える常識的な生活に不満があっても自然である。少年少女は世界との軋轢に悩むものだ。リクにとっては軋轢の象徴が、不平等としか思えない交易だっただけのことである。
リクは問いかけの直後、強く頬を張られた。衝撃によろめき、食器棚にぶつかって幾つかの陶器が床で砕けたが、そんなことは彼の意識に入ってこなかった。なにをされたのか分からず、呆然としてしまったのである。
もちろんリクも、暴力や叱咤を知らぬわけではない。ただ、父と暴力とは決して結びつかない二項だった。
リクの父は痩せぎすで、骨ばった顔をしている。街の管理に頭を悩ましていることが多く、いつも疲れた気配を漂わせていた。それでもリクに対しては、笑顔を向けることがほとんどだった。疲労の滲んだ笑みは、往々にして気弱な印象になりがちである。リクの父も例外ではない。それゆえ、リク少年が父を軽んじてしまったのも自然なことだったのかもしれない。
なにを言おうとも、暴力などありえない。
そんな先入観のせいで、リクは自分の頬を押さえ、ただじっと父を見返すことしか出来なかった。
それからリクの父は彼の手を引き、無言で街の外れまで引っ張ったのである。
うら寂しい墓地の一角で、父は足を止めた。
母の名が刻まれた墓石を見つめ、リクは不安と戸惑いと、暴力へのショックで、なにも口が利けずにいた。
墓地を渡る風が下草をおどろにざわめかせていたことが、リクの記憶に色濃く残っている。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて