Side Riku.「七色の戦場」
※リク視点の三人称です。
それからどれほどの時間が経過したのか、リクには確かなところは分からなかった。おおむね三十分から一時間といったところだが、それ以上細かい時間の歩みとなると定かではない。
これは、彼にとっては非常に珍しいことであった。昔から何事にも敏感な男だったのが、シャンティに拝跪して余計に神経を尖らせるようになった結果、時間の推移を正確に捉える技能を体得したのである。流れる時を寸断し、積み重ねていく。計測した時間によって、自分と世界との位置関係が明瞭になる感覚が、そこにはあった。時計は世界の変遷を簡素な数字記号に置き換える優秀な翻訳機である。彼はそれを体内に持っており、その鋭敏な把握能力で、自分という存在を世界の内部に、はっきりと、疑いなく位置付けることが出来ていた。『正しさ』や『美』への憧憬は間違いなく彼にとって重要なアイデンティティのひとつではあったが、過敏なまでの時間感覚はそれ以上に比重が高い。――極言するならば、彼の生そのものを下支えしていたのである。
ゆえに時間感覚の鈍化は彼の意識を着実に乱していたが、当人はそこまで明晰に、混乱や不安を解析出来ていなかった。
不在感。
自分に対して、そのように感じただけである。
――おれは今、どこにいるんだ?
そんな自問が身体の奥のほうから突如として湧いては、思考の襞に隠れて見えなくなっていく。意識のほとんどを戦場へと注ぎ続けていたのだから、精神の発するシグナルに思いを向けられなかったのも無理からぬことである。
リクはカリオンとの対話後、三十分から一時間の間、ほとんどまばたきすらせず、主人と裏切り者とが繰り広げる遠方の戦闘に見入っていた。視力に自信のある彼にも、実際にそこでなにが起きているのか把握するのは困難なほど、激しく、そして奇妙な状況が展開されていた。
黄色のスライムによる無数の触手を用いた連撃にはじまり、深紅のスライムが弾丸のように戦場を駆け、青のスライムがいくつも膨れ上がり爆ぜる――シャンティの攻撃手段がスライムの使役と液体操作のふたつであると知ってなお、リクがある程度の自信を持って認識出来た攻撃はその三つだけだった。実際のところ、彼の目にはもっと多くのものが映ってはいた。一瞬、地面を上塗りした鈍色。四方八方へと先端を伸ばした翡翠色の針。稲妻のごとく蛇行した紫の筋、などなど……。それらはおそらくシャンティによる攻撃なのだろうが、あまりに素早く展開され、そしてまたたく間に散じてしまったので、推断の隙さえなかった。戦場に映える様々な色とかたちを、目に焼き付けることしか出来なかったのである。
――展開と消失が早過ぎる。
そこに不穏な事実を読み取ってしまったのは、別段彼が鋭いからではないだろう。自然な推測である。
シャンティの苛烈な攻撃を、ことごとくシフォンが打ち破っている。
思考は否応なく、そこに到達してしまう。となると、もう三十分以上も二人は衰えなしに、予断を許さぬ戦闘を続けていることになる。
それがどんなに異常なことであるか、リクは身に染みて理解していた。彼とシャンティとの戦闘は、それほど長くは続かなかった。せいぜい五分か十分程度。それも彼女が手を抜いてようやく、である。
「さっきからなにを見ているのだ」
カリオンの声がリクの後方で流れた。
「戦場を見ているだけだ。お前には関係ない」
リクは早口で返した。
今はカリオンの相手をしている場合ではない。全神経を両目に注いでいたかった。それなのに、どうしても意識に乱れが生じてしまい、せっかく結んだ焦点がぼやけ、シャンティとシフォンとの戦闘模様が曖昧にぼやけていく。
視力に自負を持つリクであっても、こう距離が離れていては、一瞬眼球が動揺しただけですぐに対象を失ってしまう。
苛立ちを抑えて再び視覚に集中しようとしたが、またぞろカリオンの言葉によって妨げられた。
「貴様は主人に反発せんのか? いっそ逃げてしまえばいいとは思わんのか?」
「思わない」
「それは、逃げ場がないと決めつけているからではないのか? ……貴様の置かれた状況は俺にも分かる。逃げるにも、安住の地がないために諦めているのだろう? 血族の地に戻っても、あの女に追われる羽目になる。かといってグレキランスに貴様ら血族の居場所などない……。うむ、確かにこの地は、血族なんぞ決して許容せん」
途切れることなく続いていく声を、リクはただ聞き流していた。真面目に耳に入れる必要のない、馬鹿馬鹿しい内容だったからである。
――おれが逃避願望を抱いていることが前提になっているようだが、稚拙な誤りだ。訂正する気にもならん。
リクの苛立ちと反発は、カリオンの誤解だけを原因とするものではない。カリオンがいまだにここに留まって言葉を弄していることにこそ、大きな要因があった。
三十分から一時間。それだけの時間、カリオンはじっと岩場に座り込んだままだったのだ。逃げようとはしなかった。リクとしては――明確にそう意識していたわけではないが、あくまでも内心の願望として――カリオンに消えてほしかったのである。それも、決して察知の出来ない方法で。自分がどれだけ敏感であるかを知っているリクにとっては、カリオンが忍び足でこの場を去ろうとしたならば、必ずや気付いてしまう。彼の最初の身じろぎを、振り返ることなく把握したときと同じように。
逃避行動に気付いたならば、見逃すことは出来ない。あえてカリオンを逃がすような真似は、リクの自尊心をひどく傷付ける結果になるからだ。
消えてほしい。が、逃げようとしたならば止めなければならない。
二律背反から目を逸らすためには、相手の存在を無化するのがもっとも簡単であろう。これまでカリオンが黙っていてくれたからこそそれに成功していたが、こう無暗に言葉を繰り出されてはたまらない。
「しかし総隊長ならば、貴様を匿うかもしれん」
カリオンは臆面もなく、そう言った。
前線基地の総隊長――シンクレールなら、逃げ出したリクを匿う。だから、逃げ出すという選択肢を現実的に考えてみてほしい。
そんなことを暗に言いたいのだろう、カリオンは。
――所詮口ばかりの男だ。この提案も、我が身可愛さのものだろう。自分が助かりたくて言っているだけ。おれが逃げ出すなら、自分もお仲間と合流出来るとでも考えているに違いない。おれがシャンティ様からの逃避を選んだ時点で、もはや敵側とは言い難いのだから……。
カリオンの言葉をリクはそのように解釈し、ただ落胆するばかりであった。すでに彼のなかでカリオンの評価は下落しきっているのだが、醜悪さを露わにされると辟易してしまう。臭い物に蓋をして忘れてしまうのは潔い態度ではないが、精神衛生上妥当な処世術であることを、リクは思い知らされた気になった。
――匿うかどうかは怪しいが、シンクレールなら、おれを看過するだろう。
その意味で、カリオンの言葉は一定の正しさを持っていた。しかしながら、そもそも前提が誤っている。
「逃げたいと思ったことなど、ただの一度もない」
リクは誤解の生じぬよう、強い口調で言い切った。
言葉に偽りはない。故郷を守るために、意図して決闘に敗北したときから――。
流れゆく思考が、そこで足を止めた。
――違う。
――故郷のために敗北したのは事実だが、違う。
――それよりずっと前から、おれは。
不意に、リクの意識は現実へと回帰した。思考は途切れ、視界に入る物事が彼にとってのすべてとなる。
戦場に滑らかな白色が広がった。放射状に広がった左右対称のそれは、まさしく、翼であった。ただ、鳥のそれとは風合いが異なっている。どちらかと言うと魚のヒレに似ていた。
翼が空を掻き、宙へと浮き上がる。付け根にあたる部分には、紫の影がかろうじて見えた。
「シャンティ様……?」
いかにも、それはシャンティであった。すると、翼は彼女の使役したスライムを成形したものであろう。空中からの一方的な攻撃へとシフトする意図に違いない。
だが――。
十数メートルほど上昇した彼女へと、一直線に躍り上がる影があった。
銀の輝きが、陽光に翻る。
光の直後、シャンティの翼は消し飛び、彼女自身もリクのいる方角に飛来――否、吹き飛ばされていった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて