115.「猛獣狩り」
自分の左腕をサーベルで切り付け、新鮮な血を流して見せた。案の定、血を好むという異常な習性を持つこの魔物は、わたしをターゲットとして再認識したというわけだ。
左腕は『白兎』の攻撃によって深刻なダメージを負っている。サーベルを握れないのなら、別の使い方をするまでだ。そして、作戦は概ね成功した。
「さあ、おいで」
わたしが呼びかけたからではないだろうが、キマイラはこちらへ一直線に飛びかかってきた。
爪をかわし、右前脚を斬り付ける。重心が崩れたところで、キマイラの横腹にサーベルを突き刺した。
低い叫びが鼓膜を震わす。悲鳴であっても獰猛で威圧的だ。
サーベルを起点にして、自分の身体を勢いよく持ち上げる。右腕に痛みが走ったが気にしていられない。宙で身を反転させてキマイラの背に乗ると同時にサーベルを抜き去った。魔物の横腹から深紅の粘っこい血液が噴き出す。
一度乗ってしまえば振り落とされないようにしがみつきつつ、敵の持つもうひとつの攻撃手段を封じるだけだ。
案の定、尻尾の蛇が迫ってきた。
その毒牙をかわし、斬り付ける。やはり刃は通らない。
このままでは駄目なら、より一層鋭い攻撃を放てばいい。キマイラの背にサーベルを突き刺すと身体の揺れが激しくなり、今がチャンスとばかりに再度、蛇が牙を剥く。
集中力を高め、刀身に全神経を注ぐ。
硬質な魔物を斬る際には、いくつか方法があった。たとえば、跳び上がって体重を乗せて切断する方法。これはキマイラのような素早い敵には却って餌食になる。他には、両手持ちで渾身の力を込めて振り抜く方法。左腕が重傷を負っている今は使用出来る策ではない。
もうひとつ。あえて抵抗を作り、振り抜く方法。
一瞬でもタイミングを見誤れば毒牙を受けて死に至るだろう。それでも、やる価値は充分にある。片手でキマイラの尾を両断するすべはこれしかない。加えて――。
迫る蛇のスピードとサーベルの軌道を計算し、一気に振り抜いた。
血液が散る。キマイラの背から溢れ出た血と、尾の血液のふたつが混じり合った。
――この程度のタイミングを計れないようでは、とっくに王都で死んでいる。
切断された尾はぐねぐねと暴れたが、毒牙がなければ絞めることしか出来ない貧弱な器官になりさがっている。恐れる必要もない。
キマイラは痛みからか猛烈に暴れ、さすがに堪えきれずに身体が宙に浮いた。その隙を敵は見逃さなかった。
宙に浮いた人間。湿原の主は鋭利な爪を持っている。誰であろうと、こんなチャンスは見逃さない。それは魔物であっても同様だ。
わたしが無防備で、こんなにも機嫌が悪くなければ、あるいはキマイラもこの一撃で勝負を決められたかもしれない。
残念だ――とはこれっぽっちも思わないけれど、あなたの運の悪さには同情してあげる。
キマイラの右前脚――その指から先を一気に切断した。血が迸り、太い雄叫びが上がる。
着地すると、奴の巨大な口が目の前に迫った。
即座に身をかわし、その目にサーベルを突き刺す。
キマイラは身を引き、わたしはその勢いを利用して奴の頭に乗った。サーベルを抜き、そして奴の首を深く斬り付ける。
またしてもキマイラの身は大きく揺れた。
振り落とされる前に数度首を斬り付け、今度は追撃を受けることなく着地した。てっきり着地までの間に再び爪で攻撃してくると思ったが……。
学習しているのだろうか。キマイラがそこまで賢い魔物とは聞いたことがない。
あるいは、本能的な察知だろうか。
いずれにせよ、攻撃手段を着実に奪い取り、同時に体力も消耗させている。いかに強靭な魔物といえども、いずれ破滅する。これは討伐のために必要不可欠な段階的作業だ。たとえば、野菜を切る前に泥を落とすような、あるいは、肉の下処理のような、そんなものだ。
刹那、咆哮が轟いた。びりびりと空気が震え、奴の涎が飛ぶ。
「威嚇のつもりなら最初に会ったときにしなさいよね。ボロボロにされてから吼えたんじゃ格好つかないわよ?」
こちらの声がキマイラに届いているはずはないが、言わずにはいられなかった。躾の出来ていない無礼な獣にはお仕置きが必要だ。
キマイラより先に、今度はこちらから動いた。一気に距離を詰め、右前脚を切り裂く。
魔物といえどもある程度は生物として必要な機構を持っている。筋肉、神経、腱。右前脚の、骨を除いたあらゆる部分を万遍なく切り裂くと、キマイラはぐらりとバランスを崩した。こちらを押し潰すように身体が倒れる。
大型魔物の肉体はそれだけで凶器である。人間のサイズと比較すれば、その肉体はあまりに大きく、そして致命的な重さを持っている。
跳び上がり、腹の肉を大きく削ぎ落とした。骨まで見えるほどに。
急ごしらえの、肉体の空隙に潜り込んでキマイラのプレスをやり過ごす。想定通り、即席の壕によって圧死から逃れることが出来た。
勿論、これだけのために肉を削いだわけではない。
キマイラの肉体を斬り進み、臓器に深々とサーベルを突き立て、一気に裂いた。
視界が明るくなる。キマイラがたまらず身を起こしたのである。なら、そんな回避策が取れないようにしてやるしかない。
今度は左前脚を切り刻む。すると、キマイラの顎が地を打った。両の前脚が力を失ったなら、次に来る攻撃は容易に想像がつく。
キマイラは後ろ脚だけで大きく身を引いた。そして、案の定、その凶悪な口が牙を剥いて迫ってくる。位置を調整し、後ろ脚で思い切り前進したのだろう。
跳び上がり、額にサーベルを突き、身を反転して頭に着地した。すぐに暴れ出したので、頭の後ろに移動する。両の前脚が封じられているので、この辺りは揺れも少なく、振り落とされる心配もない。
つまり、無防備な後頭部をいくらでも攻撃出来るというわけだ。
この魔物は何人の人間をその胃袋に収め、王者然とした態度でこの湿原に居座っていたのだろう。
呼吸を整え、精神を落ち着ける。サーベルを持つ腕は異様に軽かった。しかし斬撃は普段通りの重さで敵に届いているに違いない。でなければキマイラを切り裂くことなど叶わないだろう。
後頭部をザクザクと刻んでいくうちに、敵の反応は鈍くなっていった。
ようやく終わりが見えてきた。しかし、このタイミングで殺される人間も多い。気の緩みと魔物の最期の足掻きが、不幸なことに重なり合って悲劇をもたらすのだ。訓練校の初等で習う魔物討伐の常識である。
やはり、キマイラは最期に大きく身を震わせ、首を自分で捻じ切らんばかりにこちらへ牙を向けようとした。――が、角度が足りず、わたしを喰うには至らない。いかに足掻いても肉体の機構まで変えてしまうことは出来ないのだ。
キマイラは、それを思い知っただろうか。
「可哀想だとは思わないし、遠慮もしないわ。後悔するなら、魔物に生まれたことを悔いなさい」
やや跳び上がり、うなじの切れ込みに向けて刃を振り下ろした。
キマイラは、首が切断されても動いてはいた。これで本当に終わりだ。後は動かなくなるのを待てばいい。
そう思ったのだが、奴は後ろ脚を器用に使ってこちらに突進してきた。偶然かと思って大きく旋回して見せると、後ろ脚で進行方向を調整し、甚だ奇妙なことにわたしを追尾した。首がなく、従って血を嗅ぐ器官もないのに、だ。
ただ、その身がこちらに到達することはなかった。
とっくに限界を突破していたのだろう。キマイラの身体は徐々に動きが鈍くなり、やがてぴたりと静止した。
奴の身体がじわじわと蒸発していく。間違いなくこれで終了である。もう『吶喊湿原』の主は存在しない。血に寄せられる異常な魔物は討伐した。
身の内に渦巻いていた怒りや悔しさは、一旦静けさを取り戻していた。
すっかりキマイラの身体が消えると、長く息を吐いた。そして、サーベルで何度か宙を切る。
まるで重さを感じない。
その刀身は――。
『親爺』からサーベルを受け取ったとき、刀身には錆びのような黒い塊がこびりついていたはずだった。
今、その武器は美しい銀の刀身を濃霧にさらしていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。『吶喊湿原』のキマイラのみ、血の匂いに引き寄せられる。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『親爺』→アカツキ盗賊団の元頭領。彼が製造した武器がクロエの所有するサーベル。詳しくは『40.「黄昏と暁の狭間で」』にて




