Side Riku.「傍観者の価値」
※リク視点の三人称です。
シンクレールが消え、シャンティが去ってから、リクは遠くの戦場――数刻前まで同胞たちが整然と並んでいたその場所を凝視し続けた。待機を命じられた手前、勝手な行動は許されない。独断でシンクレールを探すことも出来たが、彼は自分に与えられた職務にあくまでも忠実だった。
前線基地は依然として喧騒に満ちていたが、彼の立つ岩場はそれらから隔たった空間である。すでに血は流れ尽くされたといった風情だった。歪な死体は日光に温められ、早くも腐臭を放ちはじめている。吹く風に散らされようとも、戦場に淀んだ空気がしぶとく鼻を刺激した。
東の山から吹き下ろす風が、血族たちの密集地帯を抜け、リクの立つ岩場を通過する。風は腐敗と血と、焦げた臭いを運んでいた。時々刻々と濃くなっていく死の芳香が、不安や焦りを煽り立てる。しかし彼は、ひたすらに傍観者であることを自身に強いた。
遠目から見ても戦場は混乱の一途を辿っている。谷の入り口ではひと際激しい土煙が上がっており、血族も人間も犇めいているように見えた。常夜時計の破壊により魔物が霧散したことで、谷の人間が一気に東の山岳地帯へと進行したのだろう。それをなんとか押し留めているようだが、苦戦を強いられているように見えるのは、シフォンのもたらした混乱のせいかもしれない。そう思って、リクは歯噛みした。
人間と血族とは歴然とした戦力差がある。肉体の強度からして、まるで違う。しかしながら、精神までは決して強靭ではない。後方で裏切りが発生したとの報せが入れば、当然動揺する。心が揺れれば、負けるはずのない相手にも後れを取るだろう。
――こうなるはずではなかった。
リクはシャンティほど、物事を楽観視していたわけではない。戦争に参加するにあたって、こちらも相応の犠牲を払うであろうと考えてはいた。敵の本丸――グレキランス城に到達するまでに、少なからぬ死者が出るであろうことも予期していた。その点はシャンティよりもよほど悲観的なシナリオを思い描いていたことになるが、そんな彼にとっても、今の状況は想定外の悪夢である。
「タイミングが悪過ぎる」
今度は口に出して呟く。
なぜこの場所なのか。なぜこの時なのか。
そう考えてしまうこと自体が冷静さを欠いている証拠だ、という自覚が彼にもあった。はなから裏切る腹づもりならば、最上の機会を狙うのは当たり前である。シャンティがなんらかのトラブルに見舞われて集団を去り、なおかつ人間側の勢力が血族の腹に食い込んでいる状況……絶好の機会ではないか。
血族のうち、すでに半数近く死者と化している。仮にシャンティがシフォンを討ち、被害を食い止めたとしても、士気の低下は著しいはずだ。彼女が多くの血族を従えることが出来ているのは、ひとえにその実力にある。彼女の軍にいれば勝利の誉れを味わえるという虚栄心を持つ者は少なくない。終戦後の利益を第一に、勝ち馬に乗ったつもりでいたのだ。
それが、この事態である。
圧倒的な力で人間たちを蹂躙するというシナリオは、浅い妄想でしかなかったことが半ば以上証明されたようなものだった。
我が身可愛さに戦線を離脱する者も現れるだろう。いや、きっとそうなるとリクは予感していた。兵士の多くはシャンティと利害で結びついている。表面上は忠誠を誓いながら、跪いたふりをして足元の小銭を数えているのだ。
それでも幾人か、彼女の忠実なしもべはいた。しかしながら側近と呼ばれた彼らは、主人の手によって異常な苦痛を与えられ、命を失ったのである。
「もはや、おれだけかもしれん」
頭に浮かんだ言葉が、そのままリクの口から流れ出た。普段は自制心の強い男だが、ひとりきりになると、こうして考えたことが口から漏れ出てしまうことがたびたびある。
シャンティに対して忠実であるのは、もしかすると自分だけなのかもしれない――などと彼はぼんやり思った。むろん、利害がないわけではない。むしろ、明け透けに言ってしまうと自分のほうがよほど利を見据えて彼女に従っている。自分とほかの同胞との違いは、金銭や名誉、あるいは権力を利と呼んでいるかどうかだけなのだとさえ思う。
彼にとっての利は、そうした物的なものではない。かといって彼女の感情を得ることでもない。
「……善くあれかし」
不意に戦場が変容し、彼の思考は停止した。彼の双眸が、谷の入り口から数百メートル離れた平地へと注がれる。瞳が焦点を結んだその場所では、濁った黄色の液体が無数の触手を縦横に伸ばしていた。触手の先端はどうやら激しく動いているらしく、微かな残影が空間にこびりついている。周囲の血族たちを巻き添えにしながらも、その攻撃は概ね一点に集中しているらしかった。
リクは眼球の奥に痛みを感じるほど、視覚に神経を集中した。もっと間近に、拡大して、一切を取りこぼすことなく、見なければならない。なにも出来ない立場だからこそ、何事も見逃してはならないのだと、そう自分に言い聞かせるように。
やがて彼の目は、一瞬だけではあったが、銀の髪を捉えた。乱れ舞う触手と斬撃の軌跡に紛れてすぐに見えなくなってしまったが、それは確かにシフォンの姿だった。
もう始まっている。
それを意識すると、彼の鼓動は自然とテンポを上げていった。胸の内側が熱く、強く、打っている。
傍観することは、無力を突き付けられることでもある。状況に対してなにひとつ影響を与えられない現実をまざまざ見せつけられることである。そうした劣等感を誘う苦痛に耐えて視界を絞り続けることで、ようやく傍観者に価値が生まれるのかもしれない。そんなことを、彼はふと思った。
リクが今立っている岩場は、多くの悲劇の中心だった場所である。あまりに多くのことが起こり過ぎて、もうこれ以上物事の変化は生じない――そんな錯覚をしてしまうのも無理からぬことであった。ゆえに、このとき彼の視界の範囲外で発生した動きを、リク当人がまったく気付かずにいたとしてもなにも不思議ではなかった。変化を知らぬまま、すべてが完了したときに『嗚呼』と吐息するくらいがむしろ自然だったかもしれない。が、リクの神経の鋭敏さは、そうしたごく当たり前からは遠く離れたものだった。
「逃げるのか?」
リクは振り返ることなく、鋭い口調で言い放つ。視線はシフォンとシャンティの戦闘へと向けられていたが、視覚への集中力は目減りしていた。その分、背後の動きに意識を注いでいる。
呻くような声が彼の後ろで鳴った。なぜ見もせずに分かるのだ、と言わんばかりの反応である。
「あれだけの大言壮語を吐いておきながら、貴様は逃げるのか?」
返事はない。が、その沈黙は決然としたものではなかった。リクが背中越しに感じる静寂には、ある種のばつの悪さが漂っている。荒い呼吸には、次の行動に対する迷いが存分に表れている。
「戦うことを止めなければ負けることはないのだろう? お前は負けたのか? カリオンよ」
膝立ちの姿勢で、蛇に睨まれたカエルのごとく動けずにいるカリオンの表情に、屈辱と怯えの両方がありありと映っていることを、リクは振り返らずとも分かっていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




