Side Riku.「無の体現者」
※リク視点の三人称です。
「どこのクズが私のシンクレールくんを攫いやがったんだ!! 殺す!! 地の果てまで追い詰めて、生きてるのが嫌になるくらい――」
主人の罵声は、従者の耳に入っていなかった。地面に膝を突いたまま立ち上がろうともしない。
数瞬前にシャンティが叩き割った亀裂をぼんやりと見つめ、それから、リクは空を仰いだ。夜闇に慣れた眼球を通して、光が全身に染み入ってくる。網膜に太陽の白が焼き付いていく。目の奥に痛みを感じたが、じっと天上の輝きを凝視し続けた。
誰がシンクレールを攫ったのかは、彼にとって重要ではなかった。もちろん興味深い謎ではあったが、今はただ、ここにある現実を味わうことが最上である。
ふと亀裂に目を落とすと、濃いオレンジ色の物体がのそのそと這っていた。大きめのナメクジほどのサイズである。先ほどまでシンクレールの指に貼り付いていたスライムだった。それを眺め、リクは堪えきれずに深く息を吐いた。
シンクレールは痛みの地獄から解放されたに違いない。彼は生きている。きっと生きている。あの腕の正体が何者かなど、問題ではない。彼は――美しき魂は生き残ったのだ。
リクはなんとか感情の発露を抑えていた。もしこの場に誰もいなければ、泣き崩れる自分を容易に想像出来る。胸の裡の圧倒的な安堵に身を委ね、何度も祝福と感謝の言葉を口にしたことだろう。
「――なにホッとしてんだよ!」
シャンティに肩を蹴られ、彼は岩場に背を打ち付けた。瞬間的な痛みは、しかし、些かも安堵を揺さぶることはない。
シンクレールを逃したのはシャンティの失態であり、ある意味ではシンクレールの勝利とも言えた。
彼女が側近たちを殺害したのは、自身の秘密を守るためである。だが肝心の『秘密を見抜いた男』には逃げられてしまった。その意味においてシャンティは敗北者でしかない。
そんな彼女を嗤う気持ちは、リクの胸中には一片たりともなかった。
「どいつもこいつも、なんで私の邪魔すんの!! 次から次へと――」
シャンティの苛立ちは、つい先ほど受けた報告も要因となっていることだろう。自軍にいる唯一の人間、シフォン。今回の戦争の仕掛け人でもあるニコルが多大なる信頼を寄せている部下……という噂を耳にしたことがある。
感情の欠片も見出せない人形のような女。――リクはシフォンにそのような印象を持っていた。道中、彼女が無表情以外の顔を浮かべた瞬間は一度たりともない。周囲の血族から冷ややかな侮蔑を浴びせられても無反応。そんなシフォンが無神経な血族に軽く小突かれる場面を目にしたとき、リクは肝を冷やしたが、彼女はというとやはり無反応だった。
ただ、シャンティはもちろんのこと、部隊長格の下す命令には従順さを見せた。第三部隊長が戯れにキマイラと戦わせようとしたときも、彼女は拒絶しなかった。自分の身体の何倍もある魔物を、ものの数秒で細切れにして見せたのだが……それ自体は別段驚くべきことではない。リクにも可能な芸当である。だが、異常だと彼は感じてしまった。魔物を討つ前後で、シフォンには微細な表情の変化、あるいは気配の違いさえなかったのである。殺気。怒気。不安。恐怖。怯え。憎悪。陶酔。それらはどこにも存在せず、ただひたすらに『無』だった。感情を隠すのが上手いという次元ではない。敵を撃破したならば、どこかに興奮や倦怠、安堵といったものが表れねばならない。一瞬口角が上がるだとか、一度だけ深く吐息するだとか、まばたきが長くなるだとか。しかし、シフォンにはなにも見出せなかったのである。だからこそリクは、彼女のそばに寄らないようにしていた。すぐそばに佇む波紋ひとつない『無』に、得体の知れない恐れを感じていたのである。
シフォンが裏切るなどとは、露とも考えていなかった。リクばかりではなく、シャンティの率いる血族の多くが同じ見解だったろう。人間だからという一点で裏切りの可能性を抱き続ける者もいたが、その根底にあったのは蔑視でしかなく、本当の意味で謀反を予感していた者はただのひとりもいない。誰もが彼女の凍てついた空虚さを大なり小なり知っていたし、意志の欠片も持ち得ないと思っていた。意志なき者にどうして裏切りなど出来るのか。
しかし、彼女は裏切ったらしい。たったひとりで、シャンティの軍勢を加速度的に目減りさせている。
「鬱陶しい……本当に鬱陶しい」
シャンティはいつの間にやら、多少の落ち着きを取り戻しているようだった。その視線は血族たちの控える方角――否、シフォンに荒らされた戦場へと向けられている。
「リク。ここで大人しく留守番してるんだよ」
それを聞くと、リクは主人を見上げて目をしばたたかせた。意外だったのだ。
目前の脅威を排除するという意味なら、シャンティの判断は正しい。人間の青年ごときにかまけている状況ではないのだから。ただ、彼女の性格を――ほかの者よりは――よく知るリクにとっては、驚きを喚起するに足る発言だった。
シャンティは自身の秘密をなによりも重視している。加えて、おそらくシンクレールという存在に関心も抱いているはずだった。そうした個人的な事情は、彼女にとって優先度の非常に高い物事でもある。圧倒的な実力者であるがために、良くも悪くも近視眼的なのだ。目の前のことを実際以上に重く捉えてしまう。
――相手の比重が大き過ぎるのだ。
シフォンの横顔を思い出し、リクは戦慄に似た感覚に身を震わした。
シャンティの足元に緋色の液体が広がる。彼女は真っ直ぐ、戦場へと視線を向けていた。眼光は鋭く、口元は引き結ばれている。
「シャンティ様」咄嗟にリクは口を開いていた。左の胸に強い鼓動を感じる。「おれも、参ります」
自分が衝動的に言葉を発していることは理解していた。それでも、言わずにはいられなかったのである。
彼女は先ほどの決闘で何体かのスライムを失っている。些細なことかもしれないが、戦力は確実に減少しているのだ。
――いや、違う。
こちらに見向きもせず、しかし留まったままの主人を見つめ、リクは喉を鳴らした。
――おれは、あいつが恐いんだ。
リクにとってシフォンは、ただただ得体の知れない存在だった。その正確な実力は見通せていない。キマイラを一瞬で肉片に変えた剣術は見事だったが、それは彼女の力をなんら示唆していない。
「二度は言わない」
シャンティは一瞥もせず、そのたったひと言だけを返した。『でも』や『しかし』といった反語の一切を冷たく拒絶する、平手打ちのような声で。
やがて緋色の液体が地面を滑るように移動していった。シャンティを乗せて。
この山岳地帯までノンストップで全軍を運んだ移動手段である。
シャンティは途中で第一部隊の男を乗せ、あっという間に岩場の影に消えてしまった。
中途半端に伸ばした手を下ろし、リクは深く深く息をついた。
「杞憂であれば――」
声が、風の唸りに消された。
シャンティの実力は骨身に染みている。実際に刃を交わしたのだから間違いない。
底知れないという意味では、シャンティもシフォンと同じなのだ。身体に隠したスライムではなく、彼女の首を狙っていれば勝てたかもしれない――嘲笑混じりにシャンティが言った台詞だったが、リクは決してそうは思わなかった。もし仮に首を狙ったとしても、意識を切断するには至らなかったことを知っている。
主人と従者の決闘。そのはじめから終わりまで、シャンティは明らかに手を抜いていた。肝心のところはきっちり守りながら、終始遊んでいた。一度でも刀に斬られれば即敗北の状況で。
彼女のスライムを無力化することだけが自分に可能な唯一の抵抗だったのだと、リクはとっくに思い知っていた。
シャンティの底深さを充分知りながらも、しかし、胸中に去来した不安を拭うすべはなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




