Side Sinclair.「拷問と離反」
※シンクレール視点の三人称です。
眠りに落ちる寸前のように白濁していたシンクレールの意識は、強制的な覚醒を迎えた。尋常でない手指の痛みが、彼の眠りを暴力的に覚ましたのである。
「――!!」
喉から絶叫が絞り出される。身体が無意識にのたうったが、指先の痛みは一向に減退しない。カッと見開いた目に映るのは、こちらを覗き込むシャンティの顔。同情に堪えないといった下がり眉だったが、口の端は小刻みに震えていて、身体の芯から押し寄せる興奮をなんとか抑制しているといった表情だった。そんな現実の映像も、激しく明滅する意識には定着しない。
「痛いねぇ。ごめんねぇ」
赤ん坊をあやすようなシャンティの声も、彼の耳をただ通過するばかりだった。
意識は痛みだけを掴んでいる。
現実のすべてが痛みに上書きされている。
シンクレールは、自分が今なにをされているのかも分からなかった。猛烈な痛みのなかで、思考はひたすらにまとまりを欠いていた。
俯いて、表情の見えないリク。横たわるカリオン。シャンティの目の奥の輝き。岩場に貼り付いた色とりどりのスライムたち。シンクレールの視界は絶えず移り変わった。
暴れ狂う視界。自分の絶叫で遠くなる耳。不快な臭気。意識を強引に掻き混ぜる痛覚。
狂う。狂った。狂ってしまった。嫌だ。嫌。狂っている。
反射的な語句が彼の頭で繰り返された。
精神的な凌辱は、これまでも経験してきた。トリクシィに拝跪していた期間がまさにそれである。風化していく自尊心を傍観するような日々だった。隷属の日々を送っているさなか、シンクレールはこう思ったことがある。肉体的な傷や痛みなんて、精神が負う瑕に比べたらなんて小さなものだろう、と。自嘲と諦念に導かれたその悟りがとんでもない間違いだったことを、シンクレールは今この瞬間、身をもって味わっている。直接的な痛みに勝るものなどない。いつか痛みが終わるとしても――たとえば死によって――渦中にいる間は永遠に続くように思えてならない。自分はあくまでも肉であり、肉を蝕む痛みは絶対のものである。脳内で作り出した精神の瑕は感傷めいた甘い妄想に過ぎず、沈んだ心のための自慰にほかならない。
初めて経験する拷問は、彼に新たな悟りを与えつつあった。といっても、千々に乱れた意識がそれを正確に理解することはなかったが。
今シンクレールの十指の先には、それぞれ真っ赤な液体――スライムが付着していた。シャンティが背中に貼り付けていた灼熱のスライムである。彼女はシンクレールの指先に、徐々に肉を焦がす程度の温度に調整したスライムを付けたのだ。
悶絶するシンクレール。
うっとりと観察するシャンティ。
項垂れたリク。
いまだ意識の恢復しないカリオン。
四者四様の時間を過ごしていたが、誰ひとり岩場の外側へと意識を向ける者はいなかった。彼らは、まったく戦場の模様を把握していなかったのである。山岳地帯に轟く悲鳴の主が血族たちであることを、シンクレールやカリオンはもちろんのこと、シャンティやリクも関知していなかった。
乱れた足音が岩場を訪れ、荒い声が響いた。
「シャンティ様!! 報告を――」
声の主は、シンクレールとシャンティがターン制の決闘をしている最中にも姿を見せた男である。彼は岩場の異様な様子に面食らい、言葉を失った。
人間の男が二人倒れていて、片や死んだように動かず、片や絶叫している。叫び続ける男の傍らにしゃがみ込んだシャンティと、膝を突いて俯くリク。側近の血族たちは箱型の肉片と化しており、あちこちに色鮮やかな粘性の液体がこびりついている。
――絶句するに足る状況だった。
「なに?」
シャンティは首だけで振り返り、不快そうに返した。邪魔するな、という言外の圧力が溢れている。
「これは……どういうことです。シャンティ様のお付きの方々が……」
「質問には答えない。報告があるならさっさとして。私は忙しいの」
低く脅す声は、シンクレールの絶叫に掻き消されることなく響いた。拷問はこの瞬間も続いている。そもそも彼女が直接手を下しているのではなく、スライムを用いているのだから、闖入者が現れても苦痛が遮られることはない。温度調節されたスライムたちは、律儀に彼の指先を焦がし続けている。
男は一拍だけ逡巡したのち、口を開いた。
「……報告いたします。第二部隊から第七部隊まで全滅しました。第一部隊も、隊長であるわたしを残して、すべて死者となりました」
さすがのシャンティも冷静になったのか、無言で立ち上がった。
たかが人間相手に全滅するような部隊編成はしていない。しかも、ここはまだ王都ですらない。白銀猟兵による犠牲も含め、およそ半数の戦力を失ったなんて、到底彼女に許容出来るものではなかった。
このときのシンクレールはというと、意識を失いはしなかったものの、声が枯れ果て、絶叫は擦れた喘ぎへと変わっていた。
そんなシンクレールを一瞥したのち、シャンティは報告者の目の前まで歩を進める。二メートル超の高身長ゆえ、男は見上げるかたちになり、彼女は見下ろす構図となった。無表情のためか、甚だ威圧的な様相である。シンクレールの絶叫が途絶え、静寂が訪れたことも、この場の緊張を一層高めていた。
「……そんなに強いの? ここの人間たち」
呆れ声だった。
シンクレールの知るところではないが、各部隊の人員――特に第一から第五部隊は精鋭で固められていた。そんな彼らが全滅したとなれば敵方も猛者揃いだったと推測出来るが、そもそもが鵜呑みに出来る情報ではない。
二人の会話はシンクレールの耳にも届いていたが、意識は依然として痛みに侵略されており、断片的な言葉でさえ意味を失った音響でしかなかった。
「敵は確かに人間ですが……たったひとりです」
男が重々しく告げる。
「は?」
シャンティの小鼻が小刻みに震えていた。驚きよりも怒りが勝っているらしい。たったひとりの人間に合計七つの部隊が破壊されるなど、許しがたいことなのだろう。「なにやってんの? 寝てたの?」
「い、いえ」
「あのさ、私がパッと見る限りだけど、ここに強い人間なんてひとりもいない。そういうのってあんたも肌で分かるでしょ? なにやってんのよホントにさぁ!!!」
はじめは抑制されていた怒りが、言葉の末尾で爆発した。
男は恐怖の色を顔面に浮かべながらも、早口で捲し立てる。
「人間ではあるのですが、違うのです」
「違うってなんだよハッキリ言えよポンコツクソバカザコ兵士――」
「シフォンです。シフォンが裏切ったのです」
シャンティの表情が凍り付き、視線が報告者から戦場へとゆっくり移っていく。谷の入り口で待機していた血族たちの隊列は、明らかに乱れていた。部隊ごとに整列していたはずが、今や蠢く紫の塊となっている。
二秒ほどそうやって戦場を睥睨したのち、彼女は踵を返した。
「ごめんね、シンクレールくん」息も絶え絶えなシンクレールへと、足を運ぶ。「急用が出来たから、もう殺すね」
その言葉は、はっきりとシンクレールの耳を打った。
殺す。殺してくれる。死ぬ。終わる。もう、痛くなくなる。
ほとんど反射的に、早く殺してくれ、とさえ思った。
その直後、彼の意識は限界を迎え、ふっつりと消え果てた。
気絶したシンクレールへと、シャンティが歩み続ける。
「リク。あんたはオジサンのお守りをしなね。シンクレールくんの代わりに、あとでたっぷりいたぶるんだから。逃げたら承知しない」
「逃げません……逃げる理由など、ありません」
「例の秘密、誰にも話すなよ」
「……はい」
シャンティとシンクレールとは、残り五歩の距離にあった。リクがその五歩を素早く見やって、『今ならば』とほんの一瞬だけ考えたことを、気を失ったシンクレールが知ることはない。
シフォンの裏切りによって、シャンティはシンクレールにかまっていられなくなった。彼を放置するという選択肢は彼女にはないのだろう。リクはしばし生存を許してもよいが、シンクレールはそうではないということだ。敵味方という立場と、従順さの違いだろう。
シンクレールに迫る死の運命は、もはや岩場の誰にも変え難いものだった。誰もがシャンティに対して無力な存在である。
しかし――第三者はその限りではない。
地面から伸びた一本の腕がシンクレールの身体を掴み、彼を地中へと呑み込んだ。コンマ一秒の早業である。シャンティもリクも、確かにその瞬間を目にしていた。
刹那、大斧と化した彼女の腕が、シンクレールの消えた箇所に叩きつけられた。その一撃は巨大な亀裂を作り出したが――暗い岩の隙間に、青年魔術師の姿は影もかたちもなかった。
「ふっっっざけんなよ!!!!」
主人の激昂は、リクの関心のうちには入っていなかった。彼はただ、なにが起こったのか分からず当惑していたのである。シンクレールを掴んだ腕が、人間や血族とも異なる、ふさふさした毛に覆われていたことをぼんやりと思い返すばかりだった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




