Side Sinclair.「皮下の流体」
※シンクレール視点の三人称です。
「どこかでリクが仕掛けてくるのは分かってたよ。あのまま続けてたらなかなか決着はつかないもんね」
シャンティは悠然とした足取りでリクの背後に回り、彼の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「私の槍を受けたのって、わざとでしょ? 隙を作るためにあえて血を流して見せたんだよね? でなきゃ、あんな速さで近づいて斬れないもの」
戦場の叫びが、遠く響いている。それらを背景音楽にして彼女の声が流れ続けた。
「自分がなにをされたか、まだ分からない? 教えてあげよっか? 槍が命中したときに、リクの皮膚にスライムちゃんを流し込んだの。あっという間にスライムちゃんが全身に広がって、自由を奪ったわけ」
シンクレールは目を見張り、リクを凝視した。刀を突き出した姿勢で硬直した彼の身は、今もシャンティのスライムに支配されているのだろう。皮下を侵食する微細な液体が運動のすべてを堰き止めているのだと考えると、シンクレールは絶望的な思いに駆られた。たった一撃で全身が支配されてしまうような相手に、いったい誰が立ち向かえるというのだろうか。
「まぁ」彼女はリクの正面までぐるりと歩を進め、小さく舌打ちをした。「スライムちゃんが全身に回るまでの一瞬で、あんなに斬られるとは思ってなかったけど。それは素直にお見事だった。あの一瞬で私の首を斬っていれば、結果は違ったかもね。身体に忍ばせてたスライムちゃんたちに気を取られずに、私だけを狙えばよかったのに。カッコつけたかったんでしょ? 『おれの勝ちだ』って言いたかったんでしょ? それともなに? ご主人様を斬りたくないから、勝利宣言で終わりにしたかったとか? 要するに、自分の信念に従ったんでしょ? そのせいで負けるなんて、とっても惨めだね。あっは! あんたは信念のせいで負けたんだよ!」
シャンティは愉快そうに、リクの頬を軽く平手で打った。何度も、何度も。彼の瞳から屈辱や怒りの色は、とうに失せている。彼女の靴を舐める瞬間と同じく、虚ろな目に変わっていた。
「それじゃ、約束通りシンクレールくんは殺すね。どうやって殺すかリクに選ばせてあげる。まだスライムちゃんの在庫はあるから、どんな拷問でも出来るよ。爪を剥がして、歯を抜いて、それから大事なところに細い細い針を一本ずつ刺してみようか? ねえ、どうするのがいいと思う?」
どうかひと思いに――などという願いが通用する相手ではないことをよく知っているのだろう。リクはなんの返事もしなかった。その目は彼女に向けられてはいたが、目の前の現実を映していないのではないかと思われるほどに生気がない。
きっと絶望しているんだと、シンクレールは悟った。誰よりも深く絶望しているに違いない。ほんの少し選択を変えていたならば勝利出来たかもしれないのだから。
シンクレールはじっと、二人を視野に入れていた。呼吸は一定だが、意識はまだ朧気である。十数分で恢復出来るほど消耗は浅くない。とはいえ、立って歩くことは出来そうだった。言葉を紡ぐことも出来る。それでも彼はなにも言わず、うつ伏せになったままでいた。
不意に、リクが膝から崩れ落ちた。彼の身体から透明な液体が流れ出し、シャンティの指先へと戻っていく。
「はい、これでもう自由だよ。敗北者のリクくん」
リクは自由になっても身動きをしなかった。自身の敗北を受け入れているのだろう。シャンティは彼の諦念を察したからこそ、解放してやったに違いない。
すべては終わりを迎えた。あとはただ、痛みと苦しみに満ち溢れた緩慢なる死が待っている。避けがたい運命として。
だとしても、シンクレールはそれを受け入れるつもりなど微塵もなかった。
嘲弄の言葉を意気揚々と放つ彼女は、リクしか見ていない。シンクレールにはちょうど背を向けていた。
――氷弾。
シンクレールが内心で唱えると同時に、彼の周囲に氷の粒が十個浮き上がった。いずれも親指程度のサイズだったが、籠められた魔力は大きい。シンクレールは体力のすべて、精神力のすべてをたった一度の魔術に注ぎ込んだのである。
急激な吐き気と眩暈に襲われたが、標的の位置は決して失わなかった。
――必要なのは、隙と速度だけだ。
先ほど岩場で繰り広げられた戦闘から、シャンティの打倒に必要な要素をシンクレールは掴み取っていた。憶測の域を出ずとも、全魔力を賭けるに足る推測。
このとき、シャンティはシンクレールの展開した魔術にまったく気付いていなかった。もはや抵抗する気力も体力もないと思っていたのもあるが、なにより、意識への擦り込みがあった。『シンクレールは魔術の名称を口に出さなければ攻撃出来ない』。発声は意識を整える効能を持ち、したがって魔術の形成にもいくらか役立つものではあるが、魔術の成立要件ではない。そんなことは彼女も理解していたはずだが、度重なるシンクレールの発声が、彼女の意識に盲点を生んでいたのである。
――いっけぇぇぇぇえええええええ!!
シンクレールの脳内に、自分自身の叫びが迸る。歯を食い縛り、絶えず揺れる景色を凝視した。
曇りがちな視界を、十発の氷の弾丸が駆けていく。
それらは一瞬のうちに彼女の背に到達し、身体を貫通して虚空へと去っていく――はずだった。
十重の響きが、岩場に凛と広がった。
「え」
シンクレールは思わず、間の抜けた声を発していた。彼女の背後には、今しも刃を振るった姿勢のリクがいたのである。
彼が十発の弾丸すべてを明後日の方角へと逸らしたことを理解し、シンクレールは愕然とした。
「ん~?」
目を細めたシャンティが振り返る。状況を理解したらしく、口元が皮肉っぽく歪んだ。「わけ分かんないことするでしょ、コイツ」
「主人を守るのは従者の役目です」
「別に、あんたに守られたとは思わないんだけど。シンクレールくんがどんな攻撃をしようとも、私を殺すことなんて出来ないんだから。……どうせ背中を狙ったんでしょ? お生憎様。今の私の背中には特別なスライムが貼り付いてるの。ラガニアの火山地帯にいるホッカホカのスライムって、知ってる? それをね――」
薄く引き伸ばした灼熱のスライム。その外皮部分の温度を下げて背中に付着させているのだと、彼女は語った。シャンティの肌へと向かう攻撃の一切は、そのスライムを貫通する必要がある。が、外皮の内側にある灼熱によって攻撃は融解し、肌には到達しない。リクを屈服させた時点で、彼女は自身の背にそれを施したのだと言う。いつ不意打ちが訪れてもいいように。
それだけでも充分、シンクレールを絶望させるに足る事実だった。しかしながらそれ以上に、攻撃を防いだのがリクであるということが、なによりも重かった。
「余計なことしないでくれる?」
リクの側頭に蹴りが飛ぶ。彼は無抵抗のまま地を転がった。
もはやリクに反抗の意志はないのだと、シンクレールは思い知った。先ほどの敗北によって、反撃は終焉を迎えたのである。残ったのは、彼女の従順なしもべであるところのリクのみ……。なにが彼をそこまで隷属させるのか、今もってシンクレールには理解出来なかった。
「いいこと思いついた」
接近する彼女の足を、シンクレールはぼうっと眺めていた。先ほどの魔術に余力のすべてを傾注した結果、もう立ち上がる体力さえ残されていない。むろん、低級の魔術でさえ織りなすのは無理だった。
意識を失うのを待つ一個の生命。そんな彼の頭上に、随分と愉しげな声が降ってきた。
「これからぁ、シンクレールくんのことをぉ、あっためてあげる。指先から順番にぃ、黒焦げになるまでぇ、あっためてあげる」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷弾』→凝縮した氷を弾丸のごとく放つ魔術
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




