Side Sinclair.「美しき魂」
※シンクレール視点の三人称です。
寄せては返す波のように、意識が遠ざかっては弱々しく回帰する。油断すると途切れがちになってしまう思考をなんとか繋ぎ止めるようにして、シンクレールは必死に考え続けた。考えることで、薄れゆく意識が辛うじて現実に留まっている状態である。
霞んだ目とノイズだらけの耳から得られる情報たちをかき集め、脳を刺激し続ける。そんな彼にとって、リクの言葉は意識を醒ます格好の材料となった。
――シンクレールを殺さないと約束してください。
脳内でリクの台詞を反芻する。何度繰り返し唱えようとも、『なぜ』という疑問は消えてくれない。
おそらくシャンティも同じ疑問を抱いたのだろう。冷ややかな声がシンクレールの耳を刺激した。
「……そんなにシンクレールくんが大事なの? なんで? 意味分かんない」
所詮口約束だとしても、ほかに要求すべきことはいくらでもある。
故郷の保護。隷属からの解放。金品。あるいは、逆にシャンティへ絶対服従を命じる。などなど……ほかの血族が聞いたなら目の色を変えるような要求が可能だ。しかしリクは、それらすべての可能性を無視して、敵の生存を望んだのである。
「死んでほしくはないのです」
リクはそう言って、刀をかまえた。
「敵なのに?」
「敵であれ、美しい魂を持つ者は生き続けねばならないと思うのです」
美しい魂。
それを聞いたシンクレールは、知らず知らずのうちに拳を握っていた。
淡い栗色の髪が、清浄な白の光に映える。そんな光景が脳裏に浮かんだ。
なぜ今この瞬間、クロエの姿を想ったのか――その理由ははっきりと分かっていた。
魂。
それは、心を意味しない。心は魂を表現する衣装でしかない。心が失われたとて、魂の美々しさは些かも曇らない。今、クロエは表現することを失っているだけであって、魂の美しさは変わらず保持されているのではないか。
シンクレールはそうした自分自身の連想に疑いを持てなかった。飛躍する考えを客観的に修正するほどの思考の余地がなかったのである。それは却って、彼を幸福な確信へと導いていった。
――もし僕の魂が美しいのなら、リクの言うように、死ぬ運命じゃないはずだ。もしも僕が生き残ったら、仮説が証明される。そうなればクロエにだって同じことがいえるじゃないか。生き続けなきゃならない。それはつまり、生きて、その魂の光で遍く照らすということなんだ。照らすためには心が必要で、クロエはきっと、それを取り戻す。でなきゃ、魂の美しさが誰にも伝わらないじゃないか。
シンクレールは肉体と精神の疲労でほとんど錯乱状態にあった。ゆえに、一連の論理も無根拠の極みである。しかしながら、彼の到達した結論が誤っているとは誰にも言えない。
「魂ってなによ」
馬鹿にするような言葉とは裏腹に、シャンティの口調は大真面目だった。
「シャンティ様。貴女の御父上は、教えて下さいませんでしたか? 美しき魂は生きながらにして神の恩寵を受けるのです。美に至らぬ者も『聖印紙』によって死後の寵愛を約束される……そうでしょう?」
今しもリクの語った内容は、シャンティの故郷にかつて存在した信仰を指す。シンクレールもリクに教わったばかりだった。交易の品々の返礼に、シャンティの父が『聖印紙』を渡していたのだと。先ほどシンクレールに語ったときには、やや嘲るような話しぶりだったが、今のリクは真剣そのものである。
しばしの沈黙を置いて、シャンティが乾いた笑いを上げた。
「くだらない考えだよね」
「私は、そうは思いません」
「信じたって報われないんだよ、リク。あんたもよく知ってるでしょ? ……どんなに美しくても死ぬ。死ぬのはいつだって惨めで醜い。さっき死んだみんなだって、そうでしょ? まるで虫ケラじゃない。でもね、みんなのほうがむしろ幸福かもしれない。だって、リクとシンクレールくんはこれからすご~~~く苦しい思いをして、尊厳の欠片もないやり方で、ゆっくりゆっくりゆっくり、死ぬんだもの」
そうでなきゃ駄目。この世の良い子は全員、とびきり悲惨にならなくっちゃ。
そう言って、シャンティはくるりと踵を返した。一回転して正面を向いた彼女の右手には、橙色の短い筒が握られている。せいぜい二十センチ程度の代物。
「それじゃ、はじめよっか。リクが勝ったらシンクレールくんは生かしてあげる。私が勝ったら惨殺。それでいいよね?」
「――かまいません」
淡々とした返事の直後、空気が弾けた。
ほんの一瞬のことで、シンクレールにはなにがなにやら分からなかった。視界に迸ったオレンジの閃光が網膜に焼き付いている。気が付くと光は消えていて、真横に刀を振った姿勢のリクがいた。
光に見えたのはシャンティの攻撃で、リクの刃がそれを一太刀で消し飛ばしたことを、シンクレールは呆然と理解する。血族の剣士が弾丸のごとき初撃を斬ったのではなく、刃の横腹で弾いたのだということまでは視認出来なかった。
それからは、シャンティによる怒涛の『攻め』が繰り広げられた。オレンジの飛沫が、さながら光の拡散となってリクの一メートル圏内で幾度も幾度も弾けていく。
シャンティが手にした筒から、拳にも満たないサイズの橙色の弾丸が放たれ、それにリクが刀を合わせている。そうした事実をシンクレールが把握したのは、数秒が経過してからだった。弾丸も、太刀筋も、ひと目では理解出来ないほどの速度だった。
たった一度でも刃の軌道を誤れば、リクの身体に穴が空くことだろう。かといって、なんとか凌いでいるという様子でもない。苛烈な連撃に対処しながらも、瞳は真っ直ぐシャンティを捉え、薄く、一定の呼吸をしている。接近の機会を窺っているのだ。
「その調子だよ、リク」シャンティは連撃の手を緩めることなく、愉快そうに言った。「もっともっと本気にさせて」
リクが滑らかに前傾した。刹那――。
わずかひと足で、彼はシャンティの二メートル圏内に入っていた。刃を引いた姿勢で。
彼の刀は意識を刈り取る。命は奪わない。ゆえに、躊躇いの必要性などない。
次の一歩で、二人の距離は一メートルを割った。
一閃。
太陽を反射する銀の刃が、空を切り裂く。
刃がシャンティの首を水平に薙ぎ、シンクレールは思わず息を呑んだ。それがシャンティの残像だと気付いても、彼は呼吸を止めたまま、二人を凝視するばかりである。
「びっくりびっくり」
身を屈めて刃を回避したシャンティ。その目は狂喜の光で輝いていた。
返す刃が彼女へと振り下ろされる――が、刀身の軌跡は中途で翻った。今度はリクが後退したのである。直後、彼女の足元から針状の液体が噴出した。
あのまま刃を振るっていたら、リクは串刺しになっていただろう。
シンクレールは、背筋がびりびりと痺れるのを感じた。
予測不可能に見えるシャンティの攻撃。
それを回避するリクの、異常なほど鋭い察知力。
今さらながら、シンクレールは自分の見立ての正しさを思い知った。シャンティもリクも、自分じゃ到底並び立つことの出来ない相手だと。
「ああ、愉しい」
コンマ数秒で両腕を双斧に変化させた彼女が、大ぶりな横薙ぎを振るいつつ、恍惚と呟いた。
「それはなによりです」
一撃、二撃と斧を回避しながら、彼女の懐に入り込んだリクが小さく返した。
「リクも愉しんでる?」
リクの刃を、シャンティは盾へと変化させた左腕で受ける。斬撃は大きく弾かれた。
「必死ですから。愉悦する余裕などありません」
斧による反撃を、リクは後方宙返りで回避した。そして着地と同時に、再び距離を詰める。
「必死? 嘘。まだまだ余裕でしょ」
リクの斬撃の出始めを、シャンティが盾で殴りつける。さすがに怯んだのか、彼は数歩、よろめく足取りで後ずさった。
リクの頭上に、家屋ほどのサイズの槌が振り下ろされる。彼女の右腕は、いつの間にか大斧から槌へと変形していたのである。
咄嗟に顔を上げたリクの姿が、淡いブルーの槌で埋まった。土煙が濛々と上がり、二人の姿を覆い尽くす。
終わった。そう思い、シンクレールは無意識に唇を噛んだ。スライムの持つ重量が本来どれほどのものかは知らなかったが、先ほどの槌の一撃には、物体を粉微塵にするだけの重たい響きがあった。圧殺され、地面と同化したリクが自然と頭に浮かんでしまうほどに。
土煙が晴れる。
影が揺れる。
そこには、砕けた槌を興味深そうに眺めるシャンティと、片膝を突いて刀の柄を天に掲げたリクの姿があった。
「やだ、ほんとに強いじゃん、リク」
「滅相もございません」
理解を超えた二人の異常者を前に、シンクレールは生唾を飲んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




