Side Sinclair.「銀、あるいは紫の川」
※シンクレール視点の三人称です。
太陽の光が、目まぐるしい銀の閃光を描出している。リクの背中越しに見えるその太刀筋は、まったく無駄がないように見えた。シンクレールは剣技についてあまり知識は持っていないが、これまでずっとクロエという剣士を身近で見てきた経験から、熟練者とそうでない者を見分ける程度の目は持っている。自分を庇って剣を振るうリクは、一流と呼ぶべき使い手だった。
流麗に翻り、空を駆ける切っ先。シンクレールはそこから目が離せなかった。
頭に浮かぶのは銀色の川である。陽光を反射して煌めくそれは、遠目からはひどく穏やかな流れに見えるが、川面を覗き込むと、複雑にうねり、起伏し、絶えず細やかに勢いを変えながら流れ続けているのが分かる。凄烈と静謐。両極端な性質を併せ持つ、ある種完成された景観。血族たちの攻撃をひとつも漏らさず無力化するリクには、そうしたイメージを容易に喚起するなにかがあった。
「怯むな! 攻撃し続けろ!!」
屏風岩に登った血族が、矢を次々と放ちながら叫んだ。ほかの血族たちも遠距離攻撃の手を緩めない。接近戦しか行えない一部の血族を除き、全員がめいめいの手段で攻撃を仕掛けている。
先ほど、彼らが攻撃の手を止めたのは一瞬のことだった。シンクレールを守ると暗に宣言したリクに驚愕したのは束の間のことで、すぐに攻撃が再開されたのである。なんの遠慮も容赦も感じられない、一斉掃射だった。いくつもの矢が、魔力球が、岩塊が、火炎が、リクごとシンクレールを襲ったが――ただの一発さえ、目標には命中していない。ありとあらゆる攻撃がリクのひと太刀に沈黙したのである。
「裏切り者の首ごと、シャンティ様に捧げるのだ!!」
音頭を取っているのはもっぱら屏風岩の血族で、その表情は敵意剥き出しだった。ほかの血族も似たような殺意を漲らせている。攻撃も、ひとつひとつが『人を殺しうる』苛烈さを備えていた。シャンティの側近に恥じない実力を持っている――かどうかはさすがにシンクレールも分かりかねたが、一対一で戦闘してもそれなりに厄介な相手であることは簡単に理解出来た。
にもかかわらず、彼らの攻撃は届かない。たった一撃でさえ。
その事実だけでも、リクが尋常ではない剣術を持っていることが分かる。
シャンティを除くこの場の血族のうち、誰よりも強いのがこの男なのだろうと、シンクレールは確信を強めた。それに比例して、リクが虚ろな瞳で主人の靴を舐めた場面が色濃く脳裏に浮かんでくる。
シンクレールはなんとか身を起こしたが、足に力が入らず、地面に座り込むのがやっとだった。重ねがけした『氷獄』の維持は続いており、したがって魔力の消費も著しい。眩暈と耳鳴りがやたらと自己主張していたが、自分を庇って戦うリクの姿は、それらのノイズよりも遥かに強い存在感を放っていた。
――このまま二人で逃げたらどうだろう。
そんな言葉が心の内側を流れ、シンクレールは苦笑して首を横に振った。もし本当にそんなチャンスを得たとしても、自分は実行しないだろう。
岩場の一角で、いまだに昏睡している大男を見やった。
――そんな選択をしたら、またカリオンに叱られる。
恥を捨て去ったことで得た日光は、ひとつの勝利である。カリオンはその導き手だと言えよう。ただ、これだけで終わりというわけでは決してない。ひどく消耗していても、まだシンクレール自身は生存している。息がある限り前進するのが『戦い続ける』ということである。そして戦い続ける者に敗北は訪れない。死は敗北ではないのだから。
演技とはいえ一度は冷笑したカリオンの思想が、今やシンクレールの心の奥底まで届いて彼の全身を支えていた。
リクの刃と血族たちの攻撃――その接触が奏でる音色は甲高く、テンポも激しい。が、一定した壮烈さのためか、シンクレールの耳には却って涼しげに響いた。
鼓膜を絶えず打つ音の連続。それもまた流水を連想させる。大河の唸り、あるいは豪雨。それら自然の『流れ』に落ち着きを感じるのは、おそらく原理的なものだろう。もとより人は体内に川を宿している。無数の血の細流によって生きている命だからこそ、一定した『流れ』に癒やしを覚えるのかもしれない。
それゆえ、一定範囲を外れた異音はひどく耳を刺激する。たとえ微かな音であっても。このときもそうだった。
刃の奏でる旋律とは別種の、奇妙な音をシンクレールは捉えた。
キ。
ギ。
ビシ。
キィ。
イイイイイイィィィィィ。
シンクレールの視線は、真っ直ぐに氷の密室へと注がれた。直後、彼は息を呑む。
シャンティを包み込んだ『氷獄』に、いくつもの細かな亀裂が走っていた。それらは徐々に数を増し、崩壊への一途を辿っている。
シンクレールが魔術を展開してから、すでに七分が経過していた。自然崩壊にしては多少早いものの、一撃とはいえ血族の魔球を肩に受け、魔術の維持に綻びが生まれたのであろう。『氷獄』が完全に崩壊するまで、もう間もなくといった状況だった。
「リク……君だけでも逃げろ」
大声で叫んだつもりだったが、シンクレールの声はひどくかすれていた。
シャンティが自由になれば、血族たちの命はない。再び残虐な劇が展開されるに違いない。リクも同じ運命を辿るであろうことは明らかだった。これまでの彼女の態度からすると、もっとも残酷な目に遭うかもしれない。今こうして降り注ぐ攻撃から自分を守ってくれている彼が、屈辱を超えた虚無を浮かべながら死んでいく様を想うと、やりきれない。この場の血族全員をシャンティによる虐殺から遠ざけたかったが、それが叶わないのなら、せめてリクにだけは生き残って欲しかった。
しかし。
「お前も勘違いをしている」
リクの声には一切の揺らぎがなかった。
「私は逃げない」
説得の言葉を跳ね返すだけの、頑強な響きだった。その口調の強靭さにシンクレールが呆然とした直後、変化が起こった。
氷の箱に生じた無数の亀裂から、どっと紫の液体が溢れ出したのである。液体はあっという間に岩場の表面を覆い尽くした。血族たちが短い悲鳴を上げたのは、すでに足場が紫一色に変わってからのことである。
地面に突いていた手に粘っこい感触を覚え、シンクレールは反射的に身を逸らせた。手を地面から離そうとしたのだが、べっとりと貼り付いていて離れない。足や尻も同様で、座り込んだ姿勢のまま動けなかった。
顔を上げると、必死に足を持ち上げようともがいている血族たちの姿が見えた。なかにはバランスを崩し、紫の液体に覆われた地面に倒れ込んだきり、罠にかかった虫のごとく身動きの取れなくなった者もいる。
地面に貼りついた手に、シンクレールは咄嗟に魔力を集中させた。
「氷の大地……!」
周囲の紫が、白く凍結していく。岩場の液体全部を凍らせるつもりだったが、凍結したのはせいぜいシンクレールの周囲三メートル程度だった。今の彼にとってはそれが限界だったのである。ぎりぎり、リクの足元の紫がその範囲に収まっていた。
恐る恐る手を持ち上げる。凍結した液体が砕け、なんとか彼の手は自由を取り戻した。
すべては、またたく間に起こったことである。紫の液体が広がったのも、シンクレールが魔術で周囲を凍結させたのも。その一瞬ののちに、決定的な破砕音が響き渡った。
「ん~……」
砕け散った氷の中心で、伸びをするシャンティ。それがシンクレールの視界の中心にあった。彼女は大儀そうに首を鳴らし、自分で自分の肩を揉む。
それから深呼吸をひとつして、彼女は冷ややかに微笑した。
「滅茶苦茶してくれるじゃん。もう誰も逃がさないし、たっぷり痛い思いをしてもらうからね」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。相手によっては意識を保ったままの場合もある。詳しくは『270.「契約」』にて
・『氷の大地』→大地を凍結させる魔術。詳しくは『269.「後悔よりも強く」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




