Side Sinclair.「正しさへの衝動」
※シンクレール視点の三人称です。
気道の圧迫が消えると同時に、シンクレールは落下した。わずか数十センチの高さだったが、首を絞められていたために足が思うように動いてくれず、尻をしたたかに打つこととなった。
喉に新鮮な空気が流れ込み、思わず噎せ返る。血の塊が口から飛び散り、生成されたばかりの氷に付着した。さながら水晶のような多角柱の内部には、シャンティが収まっている。先ほどまでシンクレールの首を掴んでいた右手だけが、にょっきりと露出していた。
シンクレールは立ち上がり、深呼吸をする。目を袖口で擦ると、血で赤く染まった視界が多少はクリアになった。
度重なる失血と魔術の連発とで、ひどく身体がふらついた。それでももう一度、突き出した両手に魔力を集中させる。
「氷獄……!」
氷漬けになったシャンティを、さらに分厚い氷が覆っていく。十秒もの時間をかけてシンクレールが作り出したのは、シャンティを中心とした四方三メートルほどの氷の正方形だった。唯一露出していた右手もきっちり氷の内側に収まっている。
もっと魔力と体力に余裕があったなら、三重、四重と魔術を重ねがけするところだった。『氷獄』ひとつだろうとふたつだろうと、稼げる時間はそう変わらない。どちらもせいぜい十分ほどで瓦解してしまう。にもかかわらずシンクレールが魔術を重箱式に展開したのは、十分という時間をより確実なものにするためだった。相手によっては、氷の内側に閉じ込められている状態であっても対処されかねない。シャンティの露出した右手は、シンクレールの警戒心を刺激するには充分過ぎる材料だった。
気を抜いたら卒倒しそうなほどの疲労がシンクレールを襲う。『氷獄』ひとつであっても、維持のために消費する魔力は少なくない。それが二重なのだから、意識が朦朧とするのも無理からぬことであった。
彼がそうまでして僅か十分の時間を稼ごうとしたのには、もちろん理由がある。呼吸困難に陥って、やぶれかぶれで魔術を展開したのではない。
「今のうちに、逃げろ」
シャンティの側近たちへと呼びかける。彼らは一様に、ぽかんとしていた。
彼らの察しの悪さに苛立ちながら、シンクレールは東の山を指さした。
「シャンティに殺されるのが嫌だったら、来た道を戻るんだ……!」
どよめきが波のように広がる。シンクレールの提案は彼らにとっては奇妙な言葉として響いたのだ。
これまでも何度か、シンクレールは敵の心配をするような素振りを見せている。それでも、『逃げろ』と言われるのは想定外だったらしい。シンクレールのそうした発言を妥当だと感じたのは、地面に座したリクのみだったろう。
刻一刻と時間が過ぎていく。動揺の波は着実に広がっているのだが、なかなかシンクレールの望む行動へと移らなかった。
「長くはもたない。早く逃げてくれ……」
かすれた声が岩場に流れる。遥か先の戦場で、悲鳴とも鬨の声ともつかない猛烈な叫びが轟いたが、誰もそれを気にする様子はなかった。シンクレールも含めて、全員が目の前の状況で手一杯だったのである。
「なぜ逃がすのだ。貴様に得はないだろうに」
血族の間から、そんな声が漏れ聞こえた。なにか裏があるのを確信しているというより、ただただ当惑しているといった口調である。
「別に、お前たちを心配して言ってるんじゃない」痛む頭を押さえて、シンクレールは言葉を紡ぐ。「でも、こういうのは耐えられないんだ。味方同士なのに殺しあったり、痛めつけたり……。お前たちだって、そんなふうに死んでいきたいわけじゃないだろ……?」
血族たちは互いに顔を見合わせた。人間の言葉に乗っていいのかどうか、いまだに迷っている様子ではあったが、先ほどよりはシンクレールの提案に誘惑を感じているようである。
いの一番に逃げ出した男がそうであったように、シャンティの側近といえども無意味な死は許容出来るものではない。ましてや主人の秘密を知ったからには殺されねばならないと納得するほど殊勝な者は、たったひとりだけだった。
「私は残る。お前たちは、行くといい」
リクはよく通る声で、そう言い切った。
シンクレールは訝しげに彼を見下ろす。
リクの発言の意味が、シンクレールにはよく呑み込めなかった。シャンティにもっとも虐げられていたのは、ほかならぬ彼なのである。逃げ出す動機を一番強く持っているのも彼に違いないとさえ、シンクレールは思っていた。服従を強いていた誓約はとっくに消えている。逃げない理由がほかにあるとすれば、シャンティへの恐怖心くらいなものだろう。彼女に逆らったら故郷が侵略されるとでも思っているのかもしれない。もしそうだとしたら、シンクレールには晴らせない不安である。血族の土地――ラガニアへは干渉出来ないのだから。
シンクレールの思考は袋小路に突き当たり、苦々しい表情へと結実した。が、リクへの意識はすぐに逸れることとなる。
「目を覚ませよ、てめぇら。あの人間の首を献上すれば、シャンティ様も容赦してくださるだろうよ」
その言葉を皮切りに、血族たちの気配ががらりと変わった。戸惑いの雰囲気が、一気に殺意へと切り替わったのである。
途端に、シンクレールは足元の地面が不安定に崩れ去るような錯覚を感じた。倒れることはなかったものの、肌が粟立ち、背筋を冷たいものが這い上がる。
説得に失敗するどころか矛先が自分へと向くなんて、彼はまるっきり想定していなかった。シャンティに脅されて戸惑う血族たちは、さながら狼を前にして互いに寄り添って縮こまる羊にしか見えなかったのである。そうした姿が、彼に或る事実を忘れさせていたのだ。自分が逃がそうとしている相手が、人間を屠ることになんの躊躇いも持たない獰猛な存在であることを。この場でもっとも強いのは間違いなくシャンティであるが、側近たる彼らも相応の実力を有した存在であることを。
血族のひとりが屏風岩の上に飛び上がった。その腕が弓矢に変形し、流れるような淀みない動作で引き絞られる。或る血族は両腕を肥大化させ、駆けてくる。また或る血族は、手にした剣に毒々しい色彩の炎を纏わせて向かってくる。頭上で魔球をいくつも練り上げる者もいれば、岩石の杭を宙に浮かべる者もいた。
「待て! 早まるな! シャンティが自由になったらお前らはみんな――」
シンクレールの声は、中途で甲高い悲鳴へと変わった。放たれた魔球が彼の肩に直撃したのである。
地を転げたシンクレールが次に見たのは、降り注ぐ攻撃の数々だった。
矢が、
岩石が、
魔力の塊が、
自分を殺そうと迫ってくる。
抵抗するための魔術を展開する余裕はなかった。後悔する時間さえ、ない。反射的に目をつむり、身を固くすることしか出来なかった。
瞼の裏の暗闇に、いくつもの音が連続で響き渡る。それらはいずれも高い音色で、俄雨のような勢いで鳴り響いた。
音の連続は二秒か三秒ほど続いて、それから急に静寂が訪れる。
本来訪れるはずの痛みと衝撃は、まったくなかった。ゆえにシンクレールは、あまりの疲労とショックとで一時的に感覚が麻痺したのかと思ったが、事実は異なる。
薄く開いたシンクレールの目が、すぐに見開かれた。
細身の背と、揺れる長髪がそこにあった。
「貴様……裏切るのか!」
屏風岩に陣取った血族が怒声を張り上げる。
「勘違いするな」シンクレールを庇うように立ったリクが、朗々と言い放った。「私はシャンティ様の従僕として、お前たちの身勝手な行動を咎めるまでのことだ」
リクの足元から半円状に、先ほどシンクレールへと猛進していた岩石や矢が散らばっていた。すべての攻撃を彼が撃ち落とし、無力化したのであろう。
彼の意思と行動は、今度の場合もシンクレールにとっては理解しがたいものだった。なにゆえ自分を助けるのか。それも、不利な立場に追いやられることは明らかであるのに。
リクの背を眺めているうちに、シンクレールは段々とその理由が分かってきた。
リクもきっと自分と同じなのだと。ほとんど衝動的に正しさを求めてしまうのだと。
リクを見上げるシンクレールの眼差しが、虚構の夜が打ち破られた瞬間のリクと瓜二つであることを、彼自身は知り得ない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。相手によっては意識を保ったままの場合もある。詳しくは『270.「契約」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




