Side Sinclair.「ありがとうだよ」
※シンクレール視点の三人称です。
雲ひとつない青空の下、足を粉砕された男の絶叫が響き渡る。
つい先ほどまで彼の身体の自由を奪っていた触手は、すでに消えていた。斧が振り下ろされる直前、彼女の左腕へと素早く引っ込んだのである。ゆえに、男は自由の身だった。右脚を粉砕されていなければ、きっとどこへだって行けただろう。
「シャンティ!!」
シンクレールの喉から怒声が迸る。間を置かず、彼の両手に魔力が煌々と漲った。
「あとで相手したげるから、大人しくしててよ」
シャンティは一瞥もせず、そう返した。彼女の双眸は足元で泣き喚く男へと向けられている。
「なんで、なんでこんな、目に……くぅぅぅ」
声にならない声の合間に、そんな言葉が流れた。話者は無論、足を砕かれた男である。きつく閉じた瞼を押し開けて、涙がだぶだぶと溢れていた。
「なんでって、逃げたからでしょ」
「ずっと……ずっと、あんたに、仕えて、来たっ、のに……」
「だから、それは感謝してるってば。ありがとうだよ」
「なら殺すなよぉ!」
怒りの言葉には違いなかったが、涙で湿った声にはただただ悔しさだけが表れていた。
シャンティは顔を上げ、あからさまに肩を竦める。
「それとこれとは別じゃん。何回説明すれば理解――」
「氷牙!!」
シャンティの横顔に、円錐形の巨大な氷塊が激突した。さすがに衝撃を殺しきれなかったのか、彼女が数歩分よろめく。
――しかし、それだけだった。
鋭い先端が直撃した箇所にさえ傷はない。本人もけろりとしている。少しばかり眉をひそめた程度のことだった。
「シンクレールくんも聞き分けがないね。面倒臭い……あ、ほら、また逃げようとしてる」
左脚と両腕を駆使して、男は地を這いずるように進んでいた。遅々とした匍匐前進が、彼の限界速度だったのだろう。
ひどく痛ましい懸命な逃避。それは悲鳴と痛みに結実した。
またも斧が振り下ろされた瞬間、血族たちは一様に顔を逸らした。
大斧が、今度は彼の左脚を不能にする。膝の部分を叩き割られたために、無残に破壊された関節部から血染めの骨が突き出した。
男は悶絶し、地に爪を立ててもがいている。逃げる動作に見えるが、おそらくこの瞬間、彼の頭に『逃避』の二文字はなかっただろう。耐えがたい痛みが身体を勝手に動かしているのだ。しかし、シャンティにはそのあたりの微妙な行動理由を推し量る繊細さはないのだろう。三度振るわれた斧が男の肩に突き刺さり、引き抜くと同時に鮮血が宙を舞った。
「馬鹿みたい、ほんと。最期だっていうのに潔くないね」
乾いた笑いが岩場に広がった。たったひとり、彼女の喉からのみ溢れ出した笑いだったが、低い音色は不思議と重層的に響いた。
血族は人間よりも丈夫であるというのが定説であり、また、事実でもある。人間であれば致命的なダメージも、血族にとっては死に至らないなんてことも往々にしてある。シャンティに蹂躙された男も例外ではない。両脚を粉砕され、肩をひどく痛めつけられたわけだが、死はまだ遠かった。とはいえ、仮に生き残ったとしても五体満足でいられないのは明らかである。彼の足は二度と総身を支えないだろう。
「さぁー、って」
シャンティはひとしきり笑うと、口元に笑みを残したまま、冷え冷えと男を見下ろした。
彼女の右腕――すなわち大斧が振り上げられる。
あと一秒もしないうちにそれが叩きつけられ、男の命が砕け散ることは、この場にいる誰でも察することが出来た。リクを筆頭とする幾人かは、男が死によって解放されることに安堵を感じたことだろう。血族のなかには、そのままずっといたぶられ続ければいい、その間は自分に矛先が向かないから、と卑怯な期待を抱く者もいたに違いない。いずれにせよ彼らは誰ひとり、シャンティの動きを阻害しようとはしなかった。
ただひとり、シンクレールだけが地を蹴り、シャンティへと駆けたのである。
「やめろ!!」
「また邪魔するの? いい加減ウザいよ」
シャンティは斧を振り上げた体勢のまま動かなかった。シンクレールが一メートルの距離を割り、懐まで潜り込んでも、対処するような気配は見せない。瞳の奥に少しばかり好奇の光が灯っただけだった。
彼女はシンクレールの行動を読み切っていたのだろうか。それは分からない。
「氷の双牙!!」
シンクレールの後方に、先ほどシャンティをよろめかせたものよりもひと回り大ぶりな円錐形の氷塊が出現した。しかも、今度はふたつ。双子の氷塊と彼女とは直線にして三メートルの距離はあるものの、いつ放たれてもおかしくないほど魔力が飽和していた。
シャンティの視線が氷塊へと逸れたのはごく自然な流れであり――シンクレールの狙い通りだった。
「んっ――!?」
視線が外れてコンマ数秒。シンクレールとシャンティの唇が三度目の逢瀬を果たした。さすがに驚いたのか、彼女が目を見開く。
シンクレールの舌が彼女の口を押し開けて――凍てついた魔術を口腔内に流し込んだ。
たちまち彼女の身体は凍結し、一切の身動きを奪われる――はずだった。
「!?」
攻撃を仕掛けた側であるシンクレールの目が、先ほどの彼女と同様にぎょっと開かれた。彼の視界にいるシャンティは、すでに驚きを消している。その目は愉しげな半月を描いていた。
凍結の魔術を流し込んだにもかかわらず、彼女の口内が凍り付いた様子はない。ほんのりと温かな、普通の口のままだった。
硬直したシンクレールの舌先を、二又に分かれたシャンティの舌が得意気に弄ぶ。彼女の舌先に歯裏を撫ぜられた瞬間、彼は脳のてっぺんに痺れを感じ、危機感の導くまま彼女の舌を噛み切ろうとしたが――すんでのところで逃げられた。
唇が離れ、唾液が糸を引く。
「待って、逃げちゃ駄目だよ」
後退しようと足を動かした矢先、シンクレールは首を掴まれた。そのまま垂直に持ち上げられていく。当然息苦しかったが、感じたのはそればかりではない。
目から、耳から、鼻から、口から、血液がとろとろと流れ出していた。
「ねえ、シンクレールくん。雪原に住むスライムのことを知ってる?」
彼女は得意気に言って、あんぐりと口を開いた。陽光の注ぎ込む彼女の喉――その奥まったところで、白っぽい物体が身を翻すのが見えた。
口を閉じたシャンティが、ごくりと喉を鳴らす。
「アイス・スライムって、私は呼んでる。この子はね、寒いのが大好きなの。冷気をみんな吸い込んで栄養にしちゃう。シンクレールくんにさっきキスされたあと、こっそり身体のなかにも入れておいたんだよ」
シャンティはそう言って、小さく笑った。シンクレールの血が彼女の腕を伝い、肌を赤く染めている。流れる血に舌を這わせ、これ見よがしに舐めとったのは、きっと嗜虐心の表れだろう。
シンクレールにとっては絶望に足る状況だった。彼の扱う氷の魔術は彼女に外傷を与えられない。唯一有効だった体内への攻撃――つまりはキスも封殺されてしまった。そして今、彼は失血により徐々に感覚が朧になっている。
血の涙のせいで濁った視界でも、なんとか周囲の様子は把握出来た。だから、先ほどまで彼女の足元で呻いていた男が、もがくようにして数メートル移動していることも分かったのである。
シンクレールは、遠ざかる意識をなんとか繋ぎ止めた。
彼女の『液体を操作する力』によって、自分は流血している。決闘のときも同じように、肌が触れ合った直後に流血した。すなわち彼女のその能力は、相手の身に触れていないと成立しないのだろう。
ところで、同じような魔術をシンクレールも持っている。
「――氷獄」
振り絞るような呟きと同時に氷の魔術が迸り――手首を除くシャンティの全身が、氷の柱に閉じ込められた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷牙』→大地から氷のトゲを展開する魔術。初出は『Side Sinclair.「憧憬演戯」』
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。相手によっては意識を保ったままの場合もある。詳しくは『270.「契約」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




