Side Sinclair.「犠牲に光輝を」
※シンクレール視点の三人称です。
血族のなかでも貴族階級に位置する者しか所有の許されていない、魔術の編み込まれた品物。
人間曰く魔具。
血族曰く貴品。
シャンティの持つ銀時計――常夜時計と名付けられた貴品を破壊した瞬間、シンクレールの視界は真っ白に染まった。その場の誰もが、ひいては山岳地帯に蔓延る血族や、雄叫びを上げる兵士たちの一切が、光溢れる真の時間を取り戻した瞬間であった。
降り注ぐ太陽の熱は、シンクレールが掴み取ったひとつの勝利とも言える。カリオンに『負け犬』と罵られた彼によって、光の洪水が正しくこの地に満ちたのだ。
カリオンに迫られたシンクレールが、いっとき心を空にしたのは事実である。死をなんの問題ともせずに猛然と直進するカリオンの正しさに打たれ、束の間の夢に現れた逃避願望や、リクへの同情心、シャンティに対するわずかな甘い恋慕――そうした揺らぎが空白に塗り潰されたのである。空無と化した彼の頭にその後訪れたのは、ほかならぬカリオンの言葉のリフレインだった。
死は敗北を意味しない。
どんな犠牲をも厭わず、同胞の勝利のために身を捧げる。その目的を失うことなく進み続ければ、決して負けることはない。シンクレール自身、戦場を前にして朧げながら己に課していたその観念が、深くまで食い入って彼の行動を定義したのである。
シンクレールに払える犠牲。それは『不名誉』である。汚らわしいほどの転身である。それを完璧に演じ切ることでようやく、ほんの一瞬のチャンスが生まれる。シンクレールにとって『徹底的な自己保身』や『愛への渇望』といったものは、嘘でも絶対に口にはしたくないものだった。声に出した途端、自尊心が崩壊してしまうほどの忌まわしい呪いの言葉。だからこそ、彼は自分の名誉のすべてを犠牲にし、リクを騙しおおせたのである。口腔から放出した氷の魔術でシャンティの意識を一瞬だけ奪い、永遠の夜を終わらせたのである。
山岳地帯に朝靄のような蒸気が上がるのを、シンクレールははっきりと視認した。谷の入り口にあたる位置には、とりわけ濃い靄が漂っている。それらはすべて、魔物の蒸発によるものだった。
リクから常夜時計の話を聞いたとき、シンクレールは戦場に魔物が躍動している理由を明確に理解したのである。いかに魔王の支配を受けた魔物であろうとも、朝陽とともに蒸発するという大原則には逆らえない。大型魔物であれば例外的に日中も居残ることはあるが、小型魔物の代表であるグールさえ、戦場に残存していた。つまり、常夜時計によってもたらされた暗闇は魔物たちにとっての夜と同義なのである。
これはシンクレールの知るところではないが、シャンティが諸侯を差し置いていち早く王都にたどり着くという自負を持っていたのも、それが理由であった。魔王の支配下にある魔物の軍勢たちは血族を攻撃することなく付き従うため、戦力としては非常に重宝する存在である。また、自然蒸発した魔物は夜になればほぼ同じ位置に発生するという原則を持つ。つまり、朝陽とともに蒸発した魔物たちを再び引き連れるためには、行軍を夜間に限定するほかないのである。常夜時計を有するシャンティにはその縛りがない。
そんなアドバンテージも、この瞬間に砕け散った。
「ひどい男だね、シンクレールくんって」シャンティは後方の戦場を振り返って、そう呟いた。彼女の顔の霜はすっかり溶けている。が、違和感は残っているようで、指先で喉をさすっていた。「恋する男のふりをして唇を奪っておいて、この仕打ちなんだから。大した悪党……」
シャンティが引き連れてきた側近たちは明らかに殺気立っていたが、身構えるだけで襲っては来なかった。勝手な行動を起こさないあたり、彼女による調教が行き届いているのだろう。
「他人をいたぶって悦に浸るような小悪党からすると、確かに僕は大悪党かもな」
シンクレールは微笑ひとつこぼすことなく、そう返した。言葉に淀みはない。鼓動は一定のリズムで打っている。
冷静になってみてはじめて、シンクレールはここまでの自分がいかに動揺続きだったかを思い知った。それを情けなく感じることはない。ここから先、自分がどう立ち回るかだけを見据えていた。
じき、シャンティと戦闘になることは間違いない。それも、案山子のような一方的な我慢比べではなく、正真正銘の戦闘だろう。
「どうしてキスなら攻撃出来ると思ったの?」
そうたずねるシャンティに、シンクレールはしばし沈黙した。
決闘中、磔にされたシャンティへの攻撃はすべて無力化された。だからこそ、体内への攻撃なら有効なのではないかと思った――というのが率直なところである。だが、それを素直に答えるつもりはなかった。
白銀猟兵を包み込んだ謎の液体。そして決闘中、彼女のターンで自分が受けた衝撃と不自然な流血。
極めつけは、キス。リクを演技で騙している間中、シンクレールは彼女の舌が口内に侵入したときのことを何度も思い返していた。唇が触れ合った瞬間から、意識を失うまでのこと。呼吸を失ったことで気絶したのは明らかである。その原因はどこにあるか。自分の口に侵入したのは、果たして彼女の舌だけだったか。なにか、ひと塊の液体が喉を流れていきはしなかったか。
いまだ謎に包まれている彼女の能力に対し、シンクレールはひとつの仮説を導き出していた。
「キスなら、ってのは正確じゃない。お前に準備させないうちにキスすれば、攻撃になると思っただけさ」
「へー、準備ってなんのこと?」
シャンティの目が嘲笑のカーブを描く。
が、その表情はシンクレールの次のひと言で凍り付いた。
「そりゃあ、身体の表面ならまだしも、口のなかに四六時中忍ばせてるわけにはいかないからな。――スライムを」
側近たちが顔を見合わせる。いまだに地面に這いつくばったままのリクが、小さく「スライム……」と繰り返した。
日中でも消滅しない魔物の一種――スライム。水辺をのそのそ這っているだけの存在で、地方によっては魔物として認知すらされていないこともある。魔力の滓とも、植物に近い生物とも呼ばれており、微弱ながらも魔力を帯びているがために魔物に分類されているだけというのが一般的な見解である。
白銀猟兵を包んだそれがスライムであるなどとは、到底思えないものだ。しかしながらシンクレールがその発想に至ったのは、以前クロエが話してくれた巨大スライムがきっかけである。ハルキゲニア近辺にある『毒瑠璃の洞窟』で、彼女は巨大なスライムに追い回されて随分困ったと肩を竦めていた。対処の方法がなく、逃げることしか出来なかった、と。
「スライムって……すごい妄想ね。スライムちゃんが白い爆弾を壊したり、シンクレールくんの攻撃を防いだり出来るんだ?」
そう返すシャンティの声は小さく、表情は若干の引きつりを残していた。
「それだけじゃないんだろ?」シンクレールは、決闘の最中の流血を頭に浮かべる。「お前は多分、液体を操作出来るんだ。だからスライムも――」
「なんなの、その馬鹿みたいな発想――」
ぴしゃりと打ち切ろうとしたシャンティをさらに遮って、シンクレールは続けた。
「そうだよな。スライムを使役するってんじゃ、恰好つかないよな。だからこそ今まで誰にもバレなかったんだろ? 僕みたいに馬鹿々々しい発想をする奴がいなかったから」
太陽の熱で温まった背が、じっとりと汗ばんでいるのをシンクレールは感じた。
頭は回転を続ける。それにつれて、言葉もするすると口から出ていく。
「スライムって凍らないんだな。はじめて知ったよ。そんな意味のない実験をする奴もいなかっただろうからな。それとも、スライムにもいくつか種類があって――」
「もういいって」
そう言って、シャンティは困ったように笑う。
次の瞬間、彼女は右手を真っ直ぐ頭上に掲げた。
「正解正解、大正解。シンクレールくんの発想に乾杯。あーあ、やだなぁ……みんな殺さなきゃいけなくなっちゃった」
彼女の右肩から腕、そして指先へと螺旋状に半透明の液体が昇っていく。それは彼女の腕を包み込んで伸びていき、やがて左右それぞれ扇状に広がっていった。
「スライム・アックスなんて名前はどうかな? 安直すぎる?」
彼女の右腕は半透明の液体が凝固し、大斧を形成していた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『スライム』→無害な魔物。詳しくは『10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒瑠璃の洞窟』→毒性の鉱物である毒瑠璃が多く存在する洞窟。詳しくは『102.「毒瑠璃の洞窟」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて